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4・低気圧の接近
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夕暮れは不安を煽ります。あの橙の光の正体は、物の怪の類が世界と人の心を黒く塗り潰すためにもたらしているものなのかもしれません。ただ夜に向かっているだけで、その場にあるものが物理的に変化するわけでもないのに、どうしてこうも気がそぞろになるのでしょうか。
私は学校から帰った後、ずっと玄関で立ち尽くしていたようでした。急に外から鍵が開く音がして振り向くと、帰宅したばかりの夫が立っていたのです。すぐに下駄箱の上にある置時計へ目を向けると七時になっていましたので、長い間、意識を飛ばしたかのように生きながら死んでいた自分に気がついたのでした。
夫は声は小さいですが、人と会話することが嫌いでありません。いつになく大きな声で「何があったの?」と問われた私は、その圧力に父のようなものを感じて、洗いざらい話してしまったのでした。
私は何も並んでいないテーブルに夫と向かい合って座り、尋問されている気分でいました。夫には話を聞いてほしいような気もしていましたが、私の中の自分でも見たことがないようなドス黒いものが溢れてしまいそうで隠し通したい気持ちもありました。でも、話してしまったのです。
夫は表情を失くしていました。それなのに、瞳の奥には燃え盛る炎が見えるようで。ぽつりぽつりと私に向かって何かを話しているようですが、またしても聞こえません。
私は、再び音量が著しく低下してしまった夫の声を拾うために、テレビのリモコンのボタンを連打しました。すると、昨日あんなイヤラシイ話をした人と同一人物と思えない程、真面目に妻の問題について考えていることが分かったのです。
「その手の人種は千代子のような女性が大好物なんだ。客観的見地では絶対に分からない僕達の持つ真実を真っ向から否定する奴らなんて滅べばいい」
こんな過激な物言いをする人だなんて知りませんでした。おそらくかなり遠回りに私のことを励ましているのでしょう。喜ぶべきことなのに、私は夫の怒りに軽く火傷して、薄らと後遺症を残してしまいました。詰まるところ、夫のことが怖くなったのです。
「もう、近寄らない方がいいよ」
そう吐き捨てて風呂場へ向かった夫。私達の中で、夕飯以降の時間、もっと詳細に言いますとお風呂の時間以降はプライベートタイムに入ることが暗黙の了解です。
予想通り、その日夫は夕飯を食べませんでした。もちろん、私も。
私は早めに布団に潜り込むと、夫のアドバイスを守る方法を真剣に考えました。私も好んで近寄るつもりは毛頭ありませんが、相手が急に現れて消えることは防げそうにもありません。
高校の授業は単調です。私が以前通っていた学校は始めの二年間で全てを学び、最後の一年で受験に備えるといったカリキュラムでした。今の学校も一応進学校という看板を背負っているようですが、高校三年生になっても授業では新たなことを学びます。私は以前学んだことがまだ自分の記憶に留まっているかどうかを確認する作業を重ねて、毎日を過ごしていました。
今日はそこから、新たな作業が加わっています。
東さんのためにもう一冊ノートを取るようになったのです。
東さんはお店の十周年イベントが始まる前であっても夜遅くまで働いているそうで、授業中はほとんど眠っていました。私は先生の声だけが響き渡る静かな教室で、少し離れたところの席で突っ伏している彼女を眺めます。
私は、誰かの役に立つのが好きです。目立つのは嫌いなので、こういったささやかなことが良いのです。
私は家でも毎日夕飯を作り、洗濯して掃除して、買い物に行き、庭にある名前の知らない花に水をやります。誰に言われたわけでもありませんが、それを欠かすと私は私を嫌いになって駄目になってしまいそうなのです。そして、密かに夫の役に立っているのではないかと期待してしまうのです。
夫が実際のところ私のことをどう思っているのかは分かりません。あの夜のことを思い出すと、同居人としての優しさは人並みに持ち合わせているのだとは思いました。このまま夫が言う通り、毎朝毎晩同じ家で過ごし、一日に一度だけ唇を合わせていれば、何かが変わったりするのでしょうか。
今朝も、あの儀式がありました。でも、夫は無言でした。私はいってらっしゃいとだけ言って、車に乗り込む夫を見送りました。
午後の教室には生温い空気が停滞していて、いつしか外は黒い雲で覆われています。夫は傘を持って出かけたのでしょうか。それがはっきりと思い出せなくて苛立った瞬間、私は一つのことに思い当たります。
やはり、私は夫と会話をしたいのです。それも、まともな会話を。できることならば、未来ある穏やかな会話を。
けれど、次に私が夫と顔を合わすことになったのは、あまりにも意外な場所でした。そして、改めて夫とは他人なのだと身をもって知ってしまうのです。
雨が、降り始めました。
私は、傘を持っていません。
私は学校から帰った後、ずっと玄関で立ち尽くしていたようでした。急に外から鍵が開く音がして振り向くと、帰宅したばかりの夫が立っていたのです。すぐに下駄箱の上にある置時計へ目を向けると七時になっていましたので、長い間、意識を飛ばしたかのように生きながら死んでいた自分に気がついたのでした。
夫は声は小さいですが、人と会話することが嫌いでありません。いつになく大きな声で「何があったの?」と問われた私は、その圧力に父のようなものを感じて、洗いざらい話してしまったのでした。
私は何も並んでいないテーブルに夫と向かい合って座り、尋問されている気分でいました。夫には話を聞いてほしいような気もしていましたが、私の中の自分でも見たことがないようなドス黒いものが溢れてしまいそうで隠し通したい気持ちもありました。でも、話してしまったのです。
夫は表情を失くしていました。それなのに、瞳の奥には燃え盛る炎が見えるようで。ぽつりぽつりと私に向かって何かを話しているようですが、またしても聞こえません。
私は、再び音量が著しく低下してしまった夫の声を拾うために、テレビのリモコンのボタンを連打しました。すると、昨日あんなイヤラシイ話をした人と同一人物と思えない程、真面目に妻の問題について考えていることが分かったのです。
「その手の人種は千代子のような女性が大好物なんだ。客観的見地では絶対に分からない僕達の持つ真実を真っ向から否定する奴らなんて滅べばいい」
こんな過激な物言いをする人だなんて知りませんでした。おそらくかなり遠回りに私のことを励ましているのでしょう。喜ぶべきことなのに、私は夫の怒りに軽く火傷して、薄らと後遺症を残してしまいました。詰まるところ、夫のことが怖くなったのです。
「もう、近寄らない方がいいよ」
そう吐き捨てて風呂場へ向かった夫。私達の中で、夕飯以降の時間、もっと詳細に言いますとお風呂の時間以降はプライベートタイムに入ることが暗黙の了解です。
予想通り、その日夫は夕飯を食べませんでした。もちろん、私も。
私は早めに布団に潜り込むと、夫のアドバイスを守る方法を真剣に考えました。私も好んで近寄るつもりは毛頭ありませんが、相手が急に現れて消えることは防げそうにもありません。
高校の授業は単調です。私が以前通っていた学校は始めの二年間で全てを学び、最後の一年で受験に備えるといったカリキュラムでした。今の学校も一応進学校という看板を背負っているようですが、高校三年生になっても授業では新たなことを学びます。私は以前学んだことがまだ自分の記憶に留まっているかどうかを確認する作業を重ねて、毎日を過ごしていました。
今日はそこから、新たな作業が加わっています。
東さんのためにもう一冊ノートを取るようになったのです。
東さんはお店の十周年イベントが始まる前であっても夜遅くまで働いているそうで、授業中はほとんど眠っていました。私は先生の声だけが響き渡る静かな教室で、少し離れたところの席で突っ伏している彼女を眺めます。
私は、誰かの役に立つのが好きです。目立つのは嫌いなので、こういったささやかなことが良いのです。
私は家でも毎日夕飯を作り、洗濯して掃除して、買い物に行き、庭にある名前の知らない花に水をやります。誰に言われたわけでもありませんが、それを欠かすと私は私を嫌いになって駄目になってしまいそうなのです。そして、密かに夫の役に立っているのではないかと期待してしまうのです。
夫が実際のところ私のことをどう思っているのかは分かりません。あの夜のことを思い出すと、同居人としての優しさは人並みに持ち合わせているのだとは思いました。このまま夫が言う通り、毎朝毎晩同じ家で過ごし、一日に一度だけ唇を合わせていれば、何かが変わったりするのでしょうか。
今朝も、あの儀式がありました。でも、夫は無言でした。私はいってらっしゃいとだけ言って、車に乗り込む夫を見送りました。
午後の教室には生温い空気が停滞していて、いつしか外は黒い雲で覆われています。夫は傘を持って出かけたのでしょうか。それがはっきりと思い出せなくて苛立った瞬間、私は一つのことに思い当たります。
やはり、私は夫と会話をしたいのです。それも、まともな会話を。できることならば、未来ある穏やかな会話を。
けれど、次に私が夫と顔を合わすことになったのは、あまりにも意外な場所でした。そして、改めて夫とは他人なのだと身をもって知ってしまうのです。
雨が、降り始めました。
私は、傘を持っていません。
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