ひとりむすめ

山下真響

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閑話・未完成の遺書

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 家族とは何か。

 戸籍上の繋がり。遺伝子としての繋がり。それが定義であるならば、たぶん千代子はまだ、僕の家族では無いのだと思う。

 先生は余命が僅かであることをほとんどの人に知らせていなかった。僕は先生の研究室に在籍していた累計何百人という学生の中の一人で、僕の他にも学会で何本も論文を発表して脚光を浴びた人はたくさんいる。なのに、なぜ僕だったのか。

 僕は目立たない人間であるし、努めてそうしてきた。気配を殺すのは得意中の得意だ。人は空気にはなれないけれど、霞ぐらいの朧げさにまで透明度を下げることはできる。

 一つ心当たりがあるのは、奨学金を使って大学に通っていたこと。そして、成績が良かったので卒業時になって『この奨学金の返済は不要だ』と大学側から言われ、正直助かったということ。こういう例は、あまり無いものだろう。きっと先生も、このことについては知っていたに違いない。

 先生は自分の部屋に籠らずに、ほとんどの時間を学生達の机が並ぶ研究室で過ごしていた。指導が熱心というよりかは、監視の目が行き届いているといったもので、一部の学生からは息もできないとの苦情は上がっていたけれど。でも僕は、もし僕に父親がいたならば、こんな人が良かったと思っていた。少し離れたところから、無意識にその姿勢の良い背中を眺めていたことがあるのは一度や二度ではなかった。

 あの日、先生は言った。娘を託したいと。結局僕は大学の推薦や企業からのアプローチを断って、大学の事務に落ち着いていたので、先生との会合は当然のように大学内にある先生の部屋で行われた。無機質な鋼色の事務机の上へ突き出されたのは婚姻届。

 先生の事情を聞いてもなお、一瞬目を疑った。けれど、先生が「これが最善であると思っている」と言うので、僕は何も言わずに頷いたわけだ。

 確かに、婚姻届には署名をした。彼女、千代子の名前もそこに並んだ。きっと先生は、届けはきちんと役所に受理されていると思い込んで逝ったのだろう。先生には悪い事をしたと思っている。

 婚姻届はまだ、ちゃんと持っている。自宅にある。

 僕は元々結婚なんてするつもりはなかったし、できる気もしていなかった。それが、写真ではなく実物の千代子を見た途端、欲が出てしまった。

 千代子の瞳は湖のように凪いでいて、どこまでも清らかだった。女というものを超越した何かに見えた。

 だから、彼女ならばと思った。

 結婚とは、家族になることだ。僕には、長い間家族がいなかった。五十嵐は同居中に僕のことを家族だなんて言っていたけれど、あれは違う。一度、家族というものに裏切られた僕が、再び家族を持つということ。それには高い山のようなハードルがある。

 そんなこと分かっていたけれど、千代子と家族になる理由が欲しくて彼女と向き合い続けた。でも彼女は目論見通り純粋で、だからこそ残酷さは日に日に増した。刹那的なものと、羽が生えた欲と、直視せざるをえない現実が手を繋いで歩いていた。たちまち、互いはボロボロになる。千代子もまた、特殊環境で育った一人娘なのだ。無理もない。

 なのに、僕は諦められなかった。
 いつか、家族になりたい。自分が千代子のたった一人の家族として、自分で認められるようになりたいと。
 叶うならば、いつか胸張ってあの届けを提出しに行くのだ。

 そう思っていたけれど








「けれどは要らないと思う」
「五十嵐」


 唐突に肩を叩かれて振り向くと、最近親友から悪友に格下げされそうになっている男がいた。五十嵐夢元(いがらし むげん)。僕と正対称な境遇の人物。

「いつから?」
「はじめから」

 もうこの男に飼われていない。最近はそう思える。千代子が作る薄味の料理を食べると、それをよく噛み締めることができていた。

 五十嵐は、僕が欲しかったモノを全て持っている。金や清潔さ、美辞麗句、人からの信頼。そしておそらく、名誉や家族も。それなのにこの欲深い生き物は、腹を空かせた獣のように僕の近くへ静かに忍び寄っては、さらに何かを得ようとギラついた眼光でこのつまらない顔を射抜くのだ。

「それ、遺書だろ」

 五十嵐は僕に尋ねるでもなく、断定的に言い放った。相変わらず頭がよく回るし、勘が鋭い。

「誰に宛てたわけでもない」
「でも、読ませたい相手はいる」

 こいつには適わないな。

「五十嵐は、正直なところ、どう思う?」
「午前中会ったよ」
「千代子はお前に靡いたりはしない。他の子とは違う」
「そうだな。危うく火傷しそうだった。いや、むしろあの子が既に重症で」

 言葉を詰まらせたところを見ると、きっとアレを見たのだろう。それならば話が早い。
 理論的に考えれば考えるほど、結論は希望から遠く離れていくし、僕がとるべき道筋も見えてくる。見えてくるけれども、見たくない未来なんて、本当に見れないようになれば、と。

「零(れい)は、どうしたい?」

 こいつがゼロと呼ばない時は意図的だ。そろそろ、こう呼びかけてくる気はしていたのだ。だから慌てたりはしない。

「五十嵐、僕は知っている。人なんて、一万望んだら、その内の一でも叶えば良いほうだ。これは普通の人の場合。でも僕も千代子も、たぶんその普通の範疇には無いから、もっと確率が低いんだ」
「でも、欲するのは人に与えられた自由だよ。これは権利だ。何人も他人の心を縛ることはできないし、許されない」
「千代子は縛られてる」

 五十嵐は誰にとは聞いてこない。

「それならば、お前が縛って、お前の中で自由にさせたらいい。あの子はそれで十分に満足するだろう」
「千代子はそんなに甘くない」

 ある意味、甘いけれど。でも甘いだけではないのがまた、彼女の長所の一つなのだ。

 五十嵐は、引っさげていたビニール袋から、ケーキ箱みたいなものを取り出した。中から出てきたのはプリン。残業している僕の他に、この部屋には誰もいない。天井の照明は消されていて辺りは暗く、プリンのカップにパソコンの画面がぼんやりと映り込んでいた。

「食べる?」
「要らない」

 五十嵐は、女の前では絶対に甘い物を食べない。なのに、僕の前では見せつけるように貪るのでタチが悪い。お陰で邪険にできないではないか。

 五十嵐は、早くも一つ目のプリンを平らげた。

「逃げるなよ」

 五十嵐は、箱からプリンを二つ取り出すと、キーボードの横に置いた。

「ゼロが逃げたら、あの子はどこに帰るんだ?」

 僕は作成中のファイルを閉じると、そのままシフトとデリートを同時に押す。




 家に帰ろう。

 僕には、家がある。




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