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20・ヒトモドキの絵
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それは知らぬ間に訪れたので、初めは最近よくある幻聴なのだと考えていました。
音が聞こえる。
実家の庭は、まだ父親が庭師と契約していた期間が続いているようで、雑草一本見当たりません。そこに在るあらゆるものが直立不動に何かを待ち構えているかのような独特の緊張感が漂っていて、肌がぴりりと痛むのです。これまた人気の無い家屋に入ると、雨戸を引き開けて縁側に出ました。腰を下ろし、足をぶらぶらとさせていたところ、つま先にかろうじて引っかかっていた白いサンダルがポトリと犬走りの上に落ちて着地します。近くで動くものの気配を感じました。
池の水面に、同心円が広がっています。
私は水の音を拾いました。
冷ややかで清らかな懐かしい音。
ようやく、私は帰ってきたのです。音のある世界へ。
よくよく思い返してみると、他の音も記憶に残っているのでした。心配そうに眉を下げて私を見送る東さんが呟いた「大丈夫だよ」と、五十嵐さんの靴が店の板張りの床を軋ませた音。
どこが切れ目だとは分からなくとも、結局全ては一続きの物語で、移ろいゆくものと変わらないものは初めからその役割が決まっているのでしょう。紆余曲折があっても、収束すべき場所があるのならば、必然的にそこへの引力が強まって私は否応なしに飲み込まれていく。この現実に引き戻されるのです。
カタンと音がして、私は池から塀の方に視線を移しました。一匹の白と茶が混じった色の猫がとてとてと歩いてゆきます。猫にとっては高所の細道も生活道。猫は、清掃用品が入っていると思われる小さな物置のところでジャンプし、庭に降り立ちました。
そのままこちらへやって来るので、手慰みに少し相手でもしようかと手を広げたものの、私の隣を素通りして家の中に入っていきます。もちろん土足のままで。私は追いかけました。
ここにはたくさんの部屋があります。
何も無い座敷もあれば、元々私の部屋だった場所もあります。埃がかぶった木箱が重なる土間のような所もあれば、厚手の絨毯の上に重厚な趣きの飴色をした家具が並び、明治か大正時代の面影を残す洋間も。古書から近年購われたと思しき四六判の書籍が雑多に詰め込まれた背の高い本棚が並ぶ部屋もあり、その隣には父の書斎がありました。
猫がそこで立ち止まるものですから、私は猫が書斎に入りたいのかと思って扉を開きました。カーテンは開けっ放しで、出窓の向こうからは強い光が差しています。それを左手に見る形で、大机と椅子が部屋の端に備え付けられていました。
父は、この書斎の椅子に座り、窓の外を見つめるようにして亡くなっていたそうです。
私は椅子に座りました。正面には焦げ茶色の壁。少し視線高めの場所に父が何かの賞を取った時の賞状が額縁に飾られていて、いくつも並んでいます。私はそんなものまるで興味がありませんでしたが、一つだけ気になるものがありました。
部屋の角に一番近いところ。つまり、部屋に入った瞬間には死角になるその目立たない場所に、他よりも小さな、そして簡素な額が架けられています。
落書きのようなものでした。
おそらくクレヨンで描かれたもの。太い線や細い線が乱雑に絡まり、かろうじてそれが人と人と人であることが読み取れます。より正確に言うなれば、大きめの人の絵が二つと、小さめの人の絵が一つ。
私は気づいてしまいました。その絵の背景には黄色の海があったからです。
私はこの場所を知っています。
私はこの絵の作者を知っています。
あの頃の私は、今の私とは異なる私でした。
猫が初めて鳴きます。家鳴りでしょうか。不穏な音が一瞬して、見ていた額が揺れました。すとんと落ちてくる白い長方形。私は迷わずに手に取ります。
『千代子へ』
忘れもしない、父の字でした。
猫は、随分と長い間、座り込んだ私の膝の上で眠っていました。それなのに、五時きっかりになった途端、急に辺りを警戒するようにして跳ね起きたのでした。あ、と言って手を伸ばすも虚しく、猫は廊下に出ると足音もなく気配を消したのです。
私は、白い封筒を西陽に向かって翳します。何も見えません。私は、未だに開封する気になれず、じっとその紙の重みを手に感じていました。
再び部屋の端に目をやります。ヒトモドキが三体。窓からの光が時々強まったり弱まったりて、部屋の中の陰影を揺らします。額縁の中のヒトモドキは、ゆっくりと立ち上がりました。
一体一体が、どこからどこまでが自分なのかを確認にするかの如く、肩をカサカサと震わせて不要な線を払い落としていくのです。残った数本の線で形作られたそれらは、隣に同類がいるにも関わらず挨拶もしないばかりか、互いに牽制しあって睨み合っているかのよう。最後に左端の一体が大きく身を縮めたかと思うと、くしゅくしゅとゴミ屑のように小さな丸い塊になって、額縁の外へ転がっていったのでした。なのに、残りの二体は見向きもしない。やがてその二体も少しずつ距離をとり、真ん中にはぽっかりと何も無い空間ができました。
そこへ黒い影が忍び寄ります。
人の形をしています。きっとこれは、人のシルエットなのです。窓から差す光で、それは長く引き伸ばされ、額を覆っていました。この部屋にいるのは私一人の、はずなのです。
「おかえり、蕨野さん」
振り向かずとも、その声の主の顔はすぐに思い浮かびました。そう。彼は私のことならば何でも知っていると言った。だから、ここに居るのも彼にとっては必然なのかもしれません。
この日も九鬼くんは爽やかで儚げでした。西陽を背に受けて、そのまま陽炎のように揺らめいて消えてしまいそうな程に妖しいのです。
「そこの絵、前と違うね」
九鬼くんが、部屋の端の額縁を指差しました。
そうですね。私もそんな気がするのです。いえ、気のせいではありません。ヒトモドキが一体、絵の中央で立ち尽くしていました。
「僕が教えてあげようと思っていたのに。蕨野さんは、少し変わってしまったのかもしれないね。僕好みとは反対の方向へ」
私の直感が告げていました。
知りたいことと、知りたくないこと、知るべきこと。それらと直面する時がやって来たのだと。
蒸し暑い部屋の中、冷たい汗が流れました。
音が聞こえる。
実家の庭は、まだ父親が庭師と契約していた期間が続いているようで、雑草一本見当たりません。そこに在るあらゆるものが直立不動に何かを待ち構えているかのような独特の緊張感が漂っていて、肌がぴりりと痛むのです。これまた人気の無い家屋に入ると、雨戸を引き開けて縁側に出ました。腰を下ろし、足をぶらぶらとさせていたところ、つま先にかろうじて引っかかっていた白いサンダルがポトリと犬走りの上に落ちて着地します。近くで動くものの気配を感じました。
池の水面に、同心円が広がっています。
私は水の音を拾いました。
冷ややかで清らかな懐かしい音。
ようやく、私は帰ってきたのです。音のある世界へ。
よくよく思い返してみると、他の音も記憶に残っているのでした。心配そうに眉を下げて私を見送る東さんが呟いた「大丈夫だよ」と、五十嵐さんの靴が店の板張りの床を軋ませた音。
どこが切れ目だとは分からなくとも、結局全ては一続きの物語で、移ろいゆくものと変わらないものは初めからその役割が決まっているのでしょう。紆余曲折があっても、収束すべき場所があるのならば、必然的にそこへの引力が強まって私は否応なしに飲み込まれていく。この現実に引き戻されるのです。
カタンと音がして、私は池から塀の方に視線を移しました。一匹の白と茶が混じった色の猫がとてとてと歩いてゆきます。猫にとっては高所の細道も生活道。猫は、清掃用品が入っていると思われる小さな物置のところでジャンプし、庭に降り立ちました。
そのままこちらへやって来るので、手慰みに少し相手でもしようかと手を広げたものの、私の隣を素通りして家の中に入っていきます。もちろん土足のままで。私は追いかけました。
ここにはたくさんの部屋があります。
何も無い座敷もあれば、元々私の部屋だった場所もあります。埃がかぶった木箱が重なる土間のような所もあれば、厚手の絨毯の上に重厚な趣きの飴色をした家具が並び、明治か大正時代の面影を残す洋間も。古書から近年購われたと思しき四六判の書籍が雑多に詰め込まれた背の高い本棚が並ぶ部屋もあり、その隣には父の書斎がありました。
猫がそこで立ち止まるものですから、私は猫が書斎に入りたいのかと思って扉を開きました。カーテンは開けっ放しで、出窓の向こうからは強い光が差しています。それを左手に見る形で、大机と椅子が部屋の端に備え付けられていました。
父は、この書斎の椅子に座り、窓の外を見つめるようにして亡くなっていたそうです。
私は椅子に座りました。正面には焦げ茶色の壁。少し視線高めの場所に父が何かの賞を取った時の賞状が額縁に飾られていて、いくつも並んでいます。私はそんなものまるで興味がありませんでしたが、一つだけ気になるものがありました。
部屋の角に一番近いところ。つまり、部屋に入った瞬間には死角になるその目立たない場所に、他よりも小さな、そして簡素な額が架けられています。
落書きのようなものでした。
おそらくクレヨンで描かれたもの。太い線や細い線が乱雑に絡まり、かろうじてそれが人と人と人であることが読み取れます。より正確に言うなれば、大きめの人の絵が二つと、小さめの人の絵が一つ。
私は気づいてしまいました。その絵の背景には黄色の海があったからです。
私はこの場所を知っています。
私はこの絵の作者を知っています。
あの頃の私は、今の私とは異なる私でした。
猫が初めて鳴きます。家鳴りでしょうか。不穏な音が一瞬して、見ていた額が揺れました。すとんと落ちてくる白い長方形。私は迷わずに手に取ります。
『千代子へ』
忘れもしない、父の字でした。
猫は、随分と長い間、座り込んだ私の膝の上で眠っていました。それなのに、五時きっかりになった途端、急に辺りを警戒するようにして跳ね起きたのでした。あ、と言って手を伸ばすも虚しく、猫は廊下に出ると足音もなく気配を消したのです。
私は、白い封筒を西陽に向かって翳します。何も見えません。私は、未だに開封する気になれず、じっとその紙の重みを手に感じていました。
再び部屋の端に目をやります。ヒトモドキが三体。窓からの光が時々強まったり弱まったりて、部屋の中の陰影を揺らします。額縁の中のヒトモドキは、ゆっくりと立ち上がりました。
一体一体が、どこからどこまでが自分なのかを確認にするかの如く、肩をカサカサと震わせて不要な線を払い落としていくのです。残った数本の線で形作られたそれらは、隣に同類がいるにも関わらず挨拶もしないばかりか、互いに牽制しあって睨み合っているかのよう。最後に左端の一体が大きく身を縮めたかと思うと、くしゅくしゅとゴミ屑のように小さな丸い塊になって、額縁の外へ転がっていったのでした。なのに、残りの二体は見向きもしない。やがてその二体も少しずつ距離をとり、真ん中にはぽっかりと何も無い空間ができました。
そこへ黒い影が忍び寄ります。
人の形をしています。きっとこれは、人のシルエットなのです。窓から差す光で、それは長く引き伸ばされ、額を覆っていました。この部屋にいるのは私一人の、はずなのです。
「おかえり、蕨野さん」
振り向かずとも、その声の主の顔はすぐに思い浮かびました。そう。彼は私のことならば何でも知っていると言った。だから、ここに居るのも彼にとっては必然なのかもしれません。
この日も九鬼くんは爽やかで儚げでした。西陽を背に受けて、そのまま陽炎のように揺らめいて消えてしまいそうな程に妖しいのです。
「そこの絵、前と違うね」
九鬼くんが、部屋の端の額縁を指差しました。
そうですね。私もそんな気がするのです。いえ、気のせいではありません。ヒトモドキが一体、絵の中央で立ち尽くしていました。
「僕が教えてあげようと思っていたのに。蕨野さんは、少し変わってしまったのかもしれないね。僕好みとは反対の方向へ」
私の直感が告げていました。
知りたいことと、知りたくないこと、知るべきこと。それらと直面する時がやって来たのだと。
蒸し暑い部屋の中、冷たい汗が流れました。
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