ひとりむすめ

山下真響

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19・ヒグラシ

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 窓の外から届くヒグラシの声が「虚しい」と言いました。

 五十嵐さんの思いの丈は、多かれ少なかれ私の胸を抉ったのは確かです。でも、あまり痛くありません。私は既に傷ついて損傷が激しく、痛みを感じる器官すら失いつつあるのかもしれません。

「綺麗事ですね」

 五十嵐さんの言うように、選ぶことができるならば、きっと楽になれるのでしょう。皆も私も。ですが、そもそも選ぶことができる人間は、限られていると思うのです。私はその権利を持ったことがありませんし、おそらく今後も無いのです。足元からどこかへと続く薄らと白い道をひたむきに、見失わぬよう、雨の日も風の日もひた走るしかありません。私はそれが一番だと思っています。

 寄り道に憧れたこともありました。
 この角を曲がれば、どんなモノに出会えるのだろうと。

 だけど、結局元の道から外れることはできません。学校からの帰り道ですら、スーパーに寄るなどといった理由もなければ、定められた通学路以外は通れないのです。

 私だって、今の状況に不便を感じています。学校の授業は何も聞こえませんし、背後から自転車が近づいてきても避けて道の端を歩くといった配慮もできませんし。

 音の無い世界は、より一層孤独です。たった一人、ぽつねんと立ち尽くす私が、それこそ真っ当な判断なんてできる由はありません。それでしたら、このままで良いのです。何も綺麗事を実現する必要なんて、ありません。

『綺麗事じゃない。今いるのが舗装されていない森の中の砂利道なら、これから向かうのは田んぼの脇の畦道(あぜみち)ってだけ。どうせ苦労するんだったら、少しでも見える景色が広々としている方が気持ちいいじゃないか』

 五十嵐さんは、私がうわ言のように零す言葉を掬いあげて、彼なりの結論を導きます。東さんは、じっと私の方を見つめたまま。きっと五十嵐さんからの紙の内容を知っているのでしょう。

 東さんの口が、「ワラビー」と動きました。彼女は膝立ちのままゆっくりとこちらへ近づいてきて、私の真正面に座ります。私に残された道を塞いで通せんぼするように。

 その真剣な目元からぶわっと涙が溢れ出しました。涙が一滴、彼女の形の良い顎から床の絨毯へと落下した後、東さんはごしごしと目元を腕で拭います。そして私を見下ろすのです。喚いているのだと、思います。ひとしきり叫び散らして、私は彼女が放つ気を全身で感じ続けました。言葉が針になって、それが雨のように降り注ぎます。でもなぜか私には届かない。私を突き抜けて、どこか無関係な場所に突き刺さるか、亜空間に消えていく。または何かの拍子に跳ね返り、その鋭い切っ先は矛先を東さんの方へと定めて向かっていくのでした。東さんは針を吐き出せば吐き出すほど衰弱し、目の奥の闇が深くなっていきます。私はゆっくりと瞬きしながら、それをテレビの向こうの映像のように眺めました。最後には、東さんはそんな私を見て、何度も何度も首を横に振り、その度に涙が白く光っては空気中に飛び散りました。

 東さんは、私のお友達です。
 五十嵐さんの時とは違い、彼女の感情の揺れ幅は振り子の重りを激しく動かしていて、私の胸の早鐘へと連動していきました。

 どくどくドクドクと脈打って、それが次第に大きくなって、何も聞こえないはずの私の耳に私が未だ生きている証をこれでもかと見せつけて。

 もう、どうしたら良いのか分かりません。私のために泣いてくれた人は、東さんが初めてです。そして、初めて仲良くなりたいと思えたのも、東さんが初めての人だったのです。

 どうして。どうして。
 これまで聞こえなかった夫の声だけが聞こえて、他の誰の声も受け付けなくなってしまった私。今、私は東さんの声が聞きたいのに。ちゃんとこの身をもって、彼女を受け入れたいのに。

 なぜ、この身体は私の言う事を聞かないのか。
 脳裏が赤に染まります。

 その次の瞬間、視界の片隅で、五十嵐さんさんが勢いよく立ち上がりました。東さんは両手を震わせて、それを口元に当てるとキツく目を瞑ります。それらが全てスローモーションで見えました。二人共どうしたのでしょう。その疑問の答えは、私の口元と羽織っていた白いカーディガンの袖口付近にありました。

 白地に赤。

「あぁ」

 誰に言うともなく、私は溜息混じりに声を絞り出します。言い訳をしようと思ったのですが、取り繕い方は見当たりません。東さんは駆け寄ってきて、私の汚れたカーディガンを脱がしにかかりました。腕中の傷という傷がギシギシと軋んで悲痛な声を上げています。ついに私の腕が露わになった時、またヒグラシが鳴きました。泣きました。









 私は、実家に向かいました。今はもう誰も住まない大きな屋敷です。池の鯉は存命かどうか。そんなことばかりを考えて、ふらふらと歩いていきました。


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