ひとりむすめ

山下真響

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17・立証は不可

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 全てが私を拒絶しているかのようでした。それなのに、いつもよりも視界がはっきりとしていますし、記憶の程も概ねしっかりとしています。

 家政婦はいなくなっても、全ては整えられた後でしたから通夜も葬式も滞りなく終わり、父が用意していた弁護士という偉い方とも顔合わせを済ませることができました。長いお経やその独特な発音や漂う線香の香り。白骨になった父を長い箸で摘んでは壺に運んだ時に吸い込んでしまった臭いも。父の教え子という人はおよそ三桁にのぼる数が押し寄せて、そのうちの一定数は何か含むような顔をして夫と視線を交わし、数人は夫と私に労りの声をかけて慌ただしく去っていったこと。夫が分厚い封筒を葬儀場の人やお寺の方に渡していた後ろ姿も。

 全部覚えています。

 それから、何事も無かったかのように高校への通学を再開し、私と夫が住む家のリビングの一角に設えられた祭壇に、父の写真と位牌、お骨が居座っていたこと。週に一度は住む人がいなくなった実家へ赴き、全ての部屋に風を通す間、縁側で過ごしたこと。するとあっという間に四十九日の法事も過ぎて、弁護士の方とのやり取りも終わりが見えてきた頃。

 ようやく、変化が見えてきました。

 変化だなんて、他人事のようなことを言うのは不味いとは思うのです。何しろ私の症状はなかなかに複雑で、医学では完全に証明できない現象なのですから。

(今日も不自由していなかった?)

 夫は、帰宅するとすぐに私の元へやってくるようになっていました。私の肩にそっと触れて、怯えるでもなく観察するかのように、私の全身を舐めまわすように確認するのです。
私は頷きました。

(良かった。でも、もっと甘えた方が良い。僕は千代子の唯一の身内……というか、味方なのだから)

 夫の手は静かに離れていきました。

 私は食卓の上へ無造作に置かれたスケッチブックとペンへ一瞬手を伸ばしましたが、すぐに引っ込めます。夫には筆談が必要ないのでした。あれから、私は耳が聞こえなくなりましたが、夫の声だけは接触している時に限り感じることができるようになったのです。

 私はネクタイを外した夫の腕に手を当てます。夫はすぐに振り向きました。

「明日、用事があるので出かけます」
(分かった)

 夫は私と目を合わせます。私が逸らそうとしても、逃がしてくれません。夫はすっかり過保護になって、一時期は毎日私を高校まで送り迎えしていた程。クラスメイトは夫のことを年の離れた兄弟か、親を亡くした私が引き取られた先の親戚か何かだと思い込んでいるようです。というのは、東さんとの筆談で知りました。

 私も夫がここまでするようになるとは想像だにしていなかったので、今でも違和感があります。けれど、ふと冷静になると致し方ないことかもしれないとも言えるのでした。

 それは必ず夜中に起こります。
 世界が寝静まって沈黙が闇を支配した瞬間、私の鼻先をススキの穂が何度も往復します。決して無視できない、それでいて忌み嫌う程にも邪険にできない柔らかな感触。私の耳には鈴の音も届いていました。父を弔う場でも聞いたような、妙に耳に残る鈍い光を放つ音。真っ直ぐに突き進んでいるようで、その音は私の内なる肉を抉りつつ、細かな振動と共に古代文字のような摩訶不思議な記号を刻みつけて、確実にその軌跡を残して行くのです。私は自分の身体から染み出した闇色の血を啜り、味わうように唾液と混ぜ合わせて嚥下します。それは聖なる儀式でした。少なくとも、その時の私にとってはそれが真実でした。

 私が我に返るのは、決まって夫の腕の中。私の腕には無数の歯形があって、血が滲み、まるで虐待を受けたか野犬に襲われた子どものようでした。後から夫に聞いた話では、私は突然奇声を発して、布団の上でのたうち回りながら自分の腕を噛みちぎろうとするのだそうで。そんなこと、全く記憶にはありません。でも証拠はありましたし、少し心当たりはありました。

 ここのところ、私は酷く無気力なのです。
 おそらくこれまでだって、同年代の子達と比べると青春の「せ」の字も掠らない時間を怠惰に過ごしていました。見目の良い方を目の敵にしているだとか、恋愛小説が苦手だとか、勉強が嫌いだとか、お小遣いが少なくてお洒落する資金が足りず不満であるとか、そういうものではなく。私は私を維持するので精一杯だったのです。砂上の楼閣。それも、父という一粒の砂が風で舞い上がり、どこかへ滑り落ちてしまったのをきっかけに崩れ、今では何も無くなってしまいました。

 それなのに、まだ何か残っているのではないかと思って、何もない宙に手を伸ばしてしまいます。空気中の塵から元素記号AGの成分を見つけ出そうするぐらい無意味なことなのに。それを続けることで何かの義務を果たしているかのような気になれることは、そう簡単に他人から理解されないものであると、まだ子どもの域を出られない私でも判断できているものの、やめることはできません。

 それだけに、申し訳なくも思うのです。夫は、可哀想な人で物好きなのかもしれませんが、少なくともこんな同居人がいれば夜も静かに眠れず迷惑しているのは明らかです。

 私は、手を夫から離しました。
 夫はなぜ私から離れようとしないのでしょうか。こんな壊れ物のようではなく、完全に壊れた物を傍らに置いて、自らも錆びて腐り落ちてしまうと不安にならないのかと。気づくと剣呑な視線を送ってしまいます。

 私は、また夫が自分の本音に蓋したか、嘘をついたと思いました。けれど、それが誤解であると知るのはまだ先のこと。

「では、行ってきます」

 とは言え、心が弾むものではありません。会うことになっているのは、彼なのですから。


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