ひとりむすめ

山下真響

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15・浮遊物に祈りと呪いを

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 私も何となく気づいてはいました。身近な男性は父しかいなかったとは言え、スーパーの店員さんなども含めると、少なからぬ数の男性と関わってこれまでの人生を歩んでおりますから。

 夫は間違いなく異質です。一見平凡で、少し奥手で臆病そうに見えるのに、中では黒ぐろとしたものが渦巻き、それを微笑を湛えた仮面で押さえつけているのでしょう。そして、そんな自分に満足しきっている。ただ素直に境遇を受け入れるのとは異なり、浮遊霊のような第三者となって自らを見下し、斜に構えてせせら笑っているのです。

 夫は私を愛せないと言いますが、私もこんな彼を心から愛することはできません。夫が自身の母親のことを話す時、頬を微かに引き攣らせながらも、うっとりとした瞳で口角を上げる様子を見ると、背中にゾクリとしたものが履い回るのです。

「分かりました」

 私はできるだけ抑揚を抑えた音を使い、夫に承知の意を伝えます。夫が何を期待してこんなことを言ったのかなんて、私には分かりませんから。

 続いて心の中ではこう呟きました。

『もし、あなたが私を愛したならば、私はあなたを愛しましょう』

 私達はもはや夫婦という体を取ろうとしているだけの、ただの男女の寄せ集め。マイナスとマイナスをかけるとプラスになるのは数学の世界だけのお話であり、現実にはさらにマイナスが深まるだけ。一般的なテンプレートに当てはまらない私達は、いくら特記事項を書き連ねたとしても、イレギュラーであることは免れないのです。

 ですから、私達が愛し合うことは二度と無いのでしょう。夫が死ぬまで母親だけを愛することはあったとしても。

 私は瞑想したいと思いました。全てを自分の中から追い払ってしまえば、見たくないものを見ずに済みます。それなのに、その感情は座して動かず、解き放たれる時を永遠に待つ覚悟を決めているのです。
 夫は「また泣いてる」と言って、私の目元を拭いました。分かっていた事実を改めて確認しただけなのですから、決して他人の前なんかでこれ以上取り乱してはならないのに。

「確か、女性が苦手って」
「千代子はね、男でもなく、女でもなく、千代子なんだよ」

 今度こそ、考えるのを止めました。






 夜はどちらからとも無く離れ、薄い障子を境界線として夫は洋室に、私は和室に布団を敷いて眠りました。
 翌朝は薄曇りで、私は浴衣の胸元を整えながら窓辺に寄ると、山々の窪みから湯けむりがゆるゆると立ち上るのが見えます。空腹を感じて何か食べたくなりましたが、障子の向こうの様子は分かりません。私はひとまず着替えました。

「千代子、朝ごはんにしよう」

 タイミングを見計らったように、夫の声がします。私は返事する代わりに、障子を開けました。夫もすっかり着替えています。朝ご飯はホテルのバイキングでした。豊富なメニューと人混みに疲れてすぐに部屋に戻ると、再び意識は沈みます。いつの間にか、時間は夕方近くになっていました。

「船に乗ろう」

 私は夫に促されるままにホテルのフロントに向かい、少しの追加料と共にチェックアウトします。

「今夜は船に泊まる」

 夫は、車も乗れる大型フェリーを予約しているようでした。夕飯は船の中になるので、私の好きなものを買っていくと良いと言い、地元のスーパーに車をつけます。慣れないスーパーに、慣れない方言の店員達。私は迷ったあげく、とり天とサラダとおにぎりを買いました。財布は夫から渡された家計用のものです。夫はビールと唐揚げと鶏飯のおにぎり、それに天ぷらやパンも買い物カゴに入れました。






 船上で夫が確保していたのは、この船で一番良い部屋でした。中はビジネスホテルのような造りになっています。ホテルのスイートルームのようなものを想像していたのですが、この規模の船はこれが精一杯だと夫に苦笑されました。

 部屋には窓がついていて、そこからは埠頭にいる見送りの人々が光るものを振っているのが見えます。きっと手にスマホかペンライトを持っているのでしょう。それも夜景の一部。白や赤、緑の光が山々へ駆け上がるように程良い間隔で散らばって、海の黒とのコントラストが際立っています。船は汽笛を鳴らすと、少しずつ港を離れていきました。

 遠のく夜景。沿岸の街は細くて光る数珠のように長く連なり、やがて揺らめいて消えました。残ったのは薄暗い海面。時折、その上を何かが浮いていて、あっという間に流れていきます。何が浮いているのか、自分でも不思議な程気になって仕方がない私は、ずっと窓辺に張り付いていました。

「黒い物が浮いていたね」

 夫が背後から近づいてきました。窓ガラスに夫の姿が移りこみます。窓枠は額縁、並ぶ私達二人は写真に映る若い夫婦と言えなくもありません。ただ、その写真は朧気でした。

「あれは何なのかしら」
「千代子が捨てたいものだよ」
「捨てたいもの」
「僕だったら、あれは母の呪いだと思っておく。ここに捨てていくんだ。一緒に帰るのは千代子だけでいい」

 私も、あれは呪いだと思うべきかもしれません。私も夫のことは言えません。何をするにも父ならどう思うか、父ならどんな反応をするか、どうすれば父と共に住んでいた時にできなかったことを実現できるか、そればかりを考えているのですから。私の生き方の行動規範になっていたのです。おそらくこれも、呪い。父がどう思っていたか、意図的だったのかはさておき、これは結果という名の事実なのだと思うのです。

 正直、目の前にいる私を見向きもせず恍惚として母親を語る夫に、私を無視した苛立ちよりも、単純な生理的嫌悪感を覚えたことは否めません。けれども、私も同じだと思うと少しは夫のあの行為を許せるような気もしてくるのです。

 私は、次に目に付いた黒い浮遊物を父だと思うことにしました。

 去っていく父。その時の違和感の正体について知ったのは、翌朝船が大阪に到着してからのことでした。

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