ひとりむすめ

山下真響

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閑話・Bar『sandali lang』は開店前

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 昼過ぎともなると、一部の病人や昼寝をする幼い子ども達を除いて、通常人間が活動的になる時間帯であり、それに比例して商業施設というものは、かきいれ時を迎えるのがセオリーである。だが、ここ横道商店街は土曜日の昼だというのに、ほとんどがシャッターを降ろしたままで、日光が届きにくいアーケードの下は薄暗く夜の様相すら漂わせていた。これは今日に限ったことではない。街の郊外に大型商業施設が次々に建設されてからというもの、人々の足は商店街という存在を忘れ去り、新たな店の品物と体験に金を落とす。そしてかつて中心部と呼ばれた地域からは華やかさが消え去り、闇だけが残された。

 そんな場所でも星はある。毛糸屋、額縁の専門店、乾物屋などの三等星もあるが、一際強い光を放っている一等星はバー『sandaliサンダリー langラン』だ。マスターである東恭(あずま きょう)の元妻はフィリピン人で、タガログ語で『ちょっと待ってね』を表すこの言葉を残し、十年と少し前にここから消えた。

 この時間、バーの入り口のネオンが青い光を放つことはない。黒い電球管は、扉を守る守護神の蛇のように見える。中では、夜からの営業に備えて東京(あずま みやこ)が店の掃除に勤しんでいた。

 そこへ鳴り響くドアベル。元は赤銅色だったそれは、年季が入ってすっかり緑がかった黒になり、音まで老人の声のように少し掠れて聞こえた。

「あれ、イガちゃん。どしたの? まだ開けてないんだけど」

 京は持っていた箒とちりとりを重ねて壁際に置いた。手を黒いエプロンで拭いながら五十嵐に近づいていく。

「でも、開いてたよ」
「だからって、無遠慮に開くのはイガちゃんぐらいのものだよ。ま、座って?」

 京はカウンターの席を五十嵐に勧めると、自らはいつも恭が立つ定位置に陣取る。まだ修行が足りない彼女は、本来ここに立つ資格は無い。店の中をくまなく見渡せるその視界をゴクリと唾を飲み込みながら目に焼き付けた。

「それで、何かあったの?」

 五十嵐は、椅子に浅く腰掛けて、膝の上を忙しなく指で引っ掻いていた。視線は京ではなく、くるくると回るシーリングファンよりもずっと上。つまり、上の空である。

「見たんだ」
「何を?」

 そう尋ねながらも、「いつもので良いよね?」と小声で確認し、それまでとは異なるトーンで「うん」と答える五十嵐は、互いに一人二役を演じる役者のようだった。

「昼前にさ、駅前で千代子ちゃんがいて」
「ワラビーも外出ぐらいするだろうさ」

 京はきっかり分量を計った酒と材料、そして一摘みの秘めたる隠し味をシェイカーに注ぎ込むと、それを左肩に掲げて小気味よいリズムを刻み始めた。

「いや、その、男の子といたんだよね。ゼロじゃなくて、千代子ちゃんと同じぐらいの歳の」

 京はふと手を止めた。シェイカーの口を開いて、あらかじめ用意してあったグラスへ丁寧に注ぎ込む。視線はまっすぐ目の前にある出来立てのカクテルへと向いているが、思考は別の場所にあった。パズルのピースを探して、記憶のジャングルの中を目まぐるしく駆け巡る。

「心当たりは、あるよ」
「気休めを聞きたくて来たんじゃないんだ。ほら、ゼロのことも知ってるだろう?」

 五十嵐は千代子の予想通り女たらしで、これまでに寝た女の数はもはや数え切れない。だが、高校の頃からの腐れ縁である春日部零のことに限っては、まともな神経を持ち合わせていた。

「心配なんだよ。ゼロは女というものに希望を見出していない。なのに、千代子ちゃんのことだけは受け入れることができていた。でもこのままじゃ……。いや、千代子ちゃんの気持ちも分かるんだ。まだ若いし、あんな綺麗な子、周りが放っておくはずがない。零がいなかったら俺だって……」
「はい、できたよ。さっさと飲みな!」

 京は、眉間に深く皺を刻み、わざとらしく音を立てて五十嵐の前にグラスを据えた。

「俺、客なんだけど」
「開店前に来る奴なんて、客なもんか」

 京は、むすっとした顔でグラスに口をつける五十嵐を見て、こっそりと溜め息をついた。

「ワラビーは、イガちゃんが思ってるような子じゃないよ」
「ミヤコが言うならそうなのかもしれないけど。たぶん、今日のことはゼロ、知らないだろうな。俺、どうしたらいいと思う?」

 京は、傍にあった丸椅子を引き寄せてそこへ座る。少し高めのカウンターにぶら下がるようにして突っ伏すと、五十嵐の顔は見えなくなった。

「あの子なりに足掻いてんのよ。どうせ、周りができることは限られてる。あるとしたら、何があっても味方でいてあげることぐらいだよ」
「さすが、年増の女子高生は言うことが違うな」
「留年が二回なんて、普通でしょ?」
「だといいな」

 京は一月前に二十歳を迎えた。元々ハーフということもあり、外見の成熟は同級生よりも早い。本人も毎朝鏡の向こうにいるセーラー服の女をコスプレかと罵っているぐらいだった。かと言って、中身までもそうはいかないのが、この年頃の危うさでもあり美でもある。多感で傷つきやすく、思い込みも激しいが自尊心も強い。明日は今日よりも良い一日になると信じて疑わない愚かさがあり、その瞳はまだ本物の汚れを知らない澄んだものだった。

「私はワラビーの友達だし、イガちゃんはゼロさんの友達なんでしょ? それなら、きっと大丈夫だよ」

 五十嵐は、ふと、腕につけている時計を見た。顔を上げた京はその銘柄を見て、何だかんだでこの男はそれなりに金を持っていることを知った。

「そうだな。皆、いろいろあるよな。だから、案外何にもない平凡な俺が、心の中でぐらい応援してやればいいんだよな」

 勝手に何かに納得した五十嵐は、グラスの残りを一気に飲み干し、少し噎(む)せた。京は慌ててお冷とお絞りをカウンターごしに差し出す。

「恭さんの域までは、まだまだ遠そうだな」
「分かってるよ」

 五十嵐が立ち上がって、財布を出す。京はカウンターの向こうからフロア側へ移動した。

「できれば夜に来て欲しかったな」

 そう言いながら、五十嵐が財布を開こうとする手に自らの手を重ねる。小さく首を振ると、五十嵐は「まいったな」と呟きながら苦笑した。今度は反対に京のほっそりとした手を捕まえて、少し力を込めた。

「もう十年なんだってな」
「そうだね」
「ミヤコは、大丈夫なのか?」
「パパは、まだ探しているのよ。この店でずっと待ってるの。ほら、『ちょっと』っていう時間の感覚は人によって違うでしょ? それに、ママは昔から時間を守れないタイプだったみたいだから」

 五十嵐はすっと目を細めた。

「じゃ、また来る」
「待ってるわ」

 五十嵐の手が京を解放する。来た時と同じ音を立てて扉は開き、五十嵐は昼二時の暗がりへと溶け込んでいった。それを京はカウンター脇に立ち尽くしたまま、手も振らずに見送る。

「自分のことは、どうなのよ」

 二十歳の乙女心と二十八歳の現実は、未だ捻(ねじ)れの位置を崩さない。

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