ひとりむすめ

山下真響

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8・毒魚

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 翌朝のキッチンは異臭がしました。

 寝る前にしたことで覚えているのは、迷うことなく作りかけのネギ塩チキンをゴミ箱に放り込んだことぐらいです。梅雨が近づくこの季節、早速劣化が始まっているのかもしれません。

 実はケーキも捨てようかと思っていましたが、1グラムだけ残っていた良心がその使命を全うしてしまい、おそらく未だ冷蔵庫に入ったままです。どうせ捨てずとも、すぐに古くなって食べられなくなるでしょう。もしかすると、私の呪いで通常よりも早く腐るかもしれません。

 また板の上には、持ち手が木でできた包丁がまっすぐに突き刺さったままでした。目の前にある小窓から差す朝の光を受けて、その切れ味の良さを誇張するかのように刃の上の波打つ波紋がギラついてます。きっとこれも、昨夜は人の血を吸いたくて仕方がなかったのではないでしょうか。

 私は夢を見ていました。この八重歯が牙となり、目は眼球がぽろりと零れ落ちてしまいそうになるほど見開いて、修羅の如き化け物になるのです。スーパーからの帰り道の宵闇で、はたまた深夜の心霊スポットのような商店街のアーケードの下で、私は様々な悪にまつわる思念をこの身に集め、きっと昨夜のために熟成させていたはずでした。

 それなのに。

 この包丁は木のまな板に一筋の亀裂を入れるに留まり、横たわっていたネギさえ一本たりとも斬ることはできませんでした。

 すんでのところで刃傷沙汰も自害も免れたことは本来悦ばしきことで、法律上の罪人として認定されるきっかけが失われたことは愚かで哀しいこと。私はまだこの家の住人であり、あの人の妻であることも変わることがありませんでした。その喪失感に近い身がちぎれるような痛みは脳を焼くように強かったはずなのに、私はホウ酸が水に溶けて消え失せるような素早さで意識を絶ったのです。

 異臭がほんのりと甘く感じられます。これはヒトをさらに堕落させて地面よりも深くに引きずり落とすような特殊モルヒネの分泌を促しているのかもしれません。この麻痺感は私を恍惚とさせてくれます。何かが壊れたこの空間にいる自分が好きになれそうになってしまった瞬間、ダイニングテーブルの椅子に夫のジャケットが引っ掛けられているのを目にしてしまいます。

 空間がパリンと音を立てて割れてしまいました。

 私は汚されたキッチンを出て風呂場に向かいます。急に身体中が痒くなり、まずは全てを洗い流して綺麗にする必要があると思いました。

 家の中には、何となく生き物の気配がありません。が、それが正しいかどうかの確証もありません。それでも、私は一歩進むごとに服を脱ぎました。

 薄手のカーディガンがパサリと廊下に落ちて布屑になり、次いでプリーツスカートが足元に円を形作ります。その円の淵を跨いで外に出るとブラウスのボタンを片手で外していきます。面白いほどにポチポチするすると外れていき、身体を捻るようにして脱皮します。その後はコンマ五秒悩んだ挙句パンツを脱いで、それを踏みつけながら脱衣場に入りました。ブラは両手で外してそのまま取り落とすと、洗面台の取っ手に引っかかってしまいます。私には、切り立った崖を登る登山者がうっかり手を滑らせたような形に見えました。その哀れさがあまりに素敵なのでそのままそっとしておきます。

 こんな歩き方。こんな脱ぎ方。こんな生活。実家にいた頃は絶対に許されなかったにちがいありません。自然と笑みが込み上げてきて、何かを叫びたくなりました。

 そして事実、叫びながら風呂場の扉を開けたのです。この勢いをそのままにシャワーの栓をひねり、冷たい水を頭から滝のように振らせて身を凍らせたかった。

 けれど、目に飛び込んできたのは、夫でした。湯船に浸かって、じっとこちらを凝視していました。

 異性に裸を見られるのは、年頃になって初めてのことでした。
 私は一拍遅れて、もう一度叫びました。








 悪いことは重なるものです。

「蕨野さん、僕との約束破ったみたいだね」

 彼が接触してきたのは昼休みでした。私は食欲がありませんでしたが、食べないでいるとクラスでさらに目立ってしまうので、一応持ってきたお弁当を淡いブルーのハンカチの上に広げていました。この学校の生徒は校庭や食堂でお昼を食べる方が主流ですので、この時間の教室内は人もまばらです。

 私はあれから、名前だけは突き止めてありました。古典の授業で教師から名前を呼ばれているのを聞いたのです。

「私は九鬼(くき)くんと何かを約束した覚えはありませんし、仲良くするつもりもありません」

 頭の中で知識としては知っているのです。この手のものは悪徳商法の撃退法と同じ。まずは毅然とした態度で断ること。何を言われても、契約してはいけない。誰かの保証人になってもいけない。耳を貸さない。それを続ければ、いつかは元の知らぬ者同士に戻れるはずでした。

「僕は蕨野さんのことなら、何でも知ってるよ。昨日の夜も、今朝も……」
「止めて!」

 私はこんな女の子ではありませんでした。少なくとも、赤くて長い背びれのついた華やかな観賞用金魚でした。無垢で、何(なん)にも知らなくて。見上げるといつも、どこまでも広がる薄らと光を帯びた水面があり、私を閉じ込めつつも守ってくれていました。それが今は干からびた地面でのたうち回る食べられない程に身の薄い、毒のある小魚。

 何でも知っているならば教えて欲しい。あの時、実家の座敷で白昼夢のようにして見た細い一本道。どうすればあそこに戻ることができるのか。どうしてこうなってしまったのかを。

「教えて。それならば、教えてほしいことがあるの」

 九鬼くんは、少し意外そうに目を瞬かせました。

「私、隣の家の猫の行方を探しているの」
「それならばって、それ……」

 九鬼くんは何か言いかけて止めました。代わりに私の弁当へ手を伸ばすと、盗むような手業で卵焼きを奪います。

「へぇ。家庭の味ってこういうものなのかな」

 口に頬張りながらの呟き。

「美味い。ご馳走様」

 こんな所だけ礼儀正しいと調子が狂ってしまいます。私はいつの間にか、何かを思い出そうとして泣いていました。

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