ひとりむすめ

山下真響

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7・溝から川へ、海溝へ

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 翌朝は、いつも通りでした。一つだけ違ったことは、儀式が無かったことだけです。あれだけ嫌でたまらなかったものが無くなるとほっとするはずなのに。なぜこうも胸が締め付けられるのでしょうか。

 学校に向かうと、東さんはいつもより早く登校していました。たしか今日は木曜で休みになるはずでした。聞けば私のことが心配だから午前の授業だけ出ることにしたと言うのです。

「イガちゃんはうちの常連だから、大丈夫だと思い込んでたんだよ」

 東さんは、昨夜置き去りにしてしまっていた私の服と傘を学校に持ってきてくれていました。今日の予報は曇り後雨。傘を一本しか持っていない私は、丁寧にお礼を伝えました。

「でもびっくりしたよ」

 東さんは、相変わらず似合わないセーラー服をきちんと着ていて、私を窓際へと引っ張っていきます。そして声を潜めて言いました。

「まさかあの人がワラビーの旦那だったなんてね。たまにイガちゃんが連れてくる人だから私も知ってるんだ。ってか、結婚してるってマジな話?」

 東さんには嘘をつきたくありません。私は窓の外にある水溜りの残る運動場へ視線を投げたまま、微かに頷きました。

「そっかぁ。ワラビーもいろいろあったんだねぇ。そう言えばゼロさんってさぁ……あ、ワラビーの旦那のことね? 彼って大学の事務職やってんじゃん? 本当はあの学校の博士課程まで出てて、すっげぇ優秀だったらしいの。皆そのまま研究室に残るって信じてたのに、『僕には、何も無いから』とかよく分かんないこと言って、事務やってるらしいんだよね」

 一応勤め先は知っています。けれど、そんな事情は知りません。もしかすると夫はこれまでに話してくれたことがあるのかもしれませんが、私の耳には届いていませんでした。

「あたしは頭悪いからそういうの全然分かんないんだけど、もったいないよね」

 東さんは窓枠に肘をついて、深々と溜息を吐き出します。その彫りの深い綺麗な横顔には、高校生と思えない程に世の中を達観しているかのような落ち着きがありました。きっと彼女は、私には見えないものをその透明感のある薄茶の瞳に映し出しているのです。

 私は、妻なのに。
 私よりも他人の方が夫のことを知っているのは当たり前のことのはずです。けれど、それが悲しいのです。

 夫婦とは何かを知るための儀式も無くなってしまいました。私にはもう。

「ワラビーは真面目ちゃんだからね。何事も、もうちょっと簡単に考えた方がいいよ。旦那さんと喧嘩したんだってね? じゃ、仲直りしたらいいじゃない。相手が近くにいるうちに解決しておいた方がいいよ。遠くに行っちゃったら、もうどんな言葉も届かなくなるんだからさ」

 東さんの視線は私の想像もつかない程に遠くを捉えたままでした。その肩がいつもより小さく見えます。さすがの私も、彼女には何か事情があるのだと気づくことができました。けれど、まさか聞き出すことなんてできません。






 夕刻、今日は夫が家にいました。ネギを刻んでいたら、突然背中に誰かの気配を感じたのです。気のせいかと思いながらも振り向くと紙袋を片手に音もなく立っていたので、少し驚きました。

「おかえりなさい」

 例え不仲とは言え同居人でありますし、何よりも私は人間です。挨拶ぐらいはできます。夫も挨拶を返したようですが、その声はほとんど聞こえませんでした。

 夫は静かに紙袋を差し出します。これは何でしょうか。中身もそうですが、その意図が何よりも気になります。私がすぐに受け取らずにいると、近づいてきて私の手に無理やり押し付けられました。ほぼ身体が密着するような状態になります。

「ケーキ、一緒に食べよう」

 また「ごめん」と言われたらどうしようという不安は、ありがたくも外れました。

「その前に、ネギ塩チキンを食べましょう」

 私が目線でキッチンの上を示すと、夫の頬が少し緩みました。こんな顔を見るのは久しぶりな気がします。私も同じように、うまく笑えているといいのですが。まだ少し怖さが抜けきらないのです。

「手を洗って、そこに座っててください。もうすぐ、出来上がりますから」

 私は紙袋の中のケーキの箱を冷蔵庫へ仕舞いました。そんな私に、また夫が何か声をかけてきます。私は聞き返そうかとも思いましたが、別の手を使います。できるだけさりげなくダイニングテーブルに移動すると、その上にあるテレビのリモコンに指を滑らせてます。夫の話はまだ続いていました。一、二、三と数えながら、彼の声の音量を上げていきます。

「五十嵐に言われたから買ってきてみたんだけど、気に入らなかったら食べなくていいよ。でも僕は苺のショートケーキが好きだから食べたいな。って、これもどうせ聞こえてないよね」

 また聞かなくて良いことを聞いてしまったようです。夫は、私には彼の言葉が届いていないことを知りながらも、さらに話し続けます。

「千代子って人形みたいだよね。蕨野先生に話をもらった時はもうちょっと期待してたし、喜んでたんだ。世間的にはあまりに不揃いな僕達だけれど、一緒にがんばれば何でもできるかもしれないって青写真を思い描いてた。でも、夢と現実って隔たりが大きいみたい」

 私は知らぬふりの演技をしました。知らないふりをすることで、私は私を守っていたのかもしれませんが。小首を傾げた後で、再びネギに向かい合います。

 私達は恋愛結婚をしたわけではありません。その時点で、二人の間には初めから溝がありました。ですが、それは砂地にジョウロを傾けて水を垂れ流し、線を描くようなもの。ようやく凹みができたといった程度の極浅いものであったはず。それがいつしか水の量が増えて川になり、今では海溝になりました。気合いを入れて大型船に乗り込まねば接触できない程遠く。相手の様子を見るのは常に双眼鏡ごしで、見えたものもぼんやりと歪んでいて、はっきりとはしないのです。

 ここで、それが私達のカタチなのだと割り切れば傷はまだ浅く済んだのかもしれません。もしくは、すぐにでもリモコンで夫の音量を下げてしまえば良かったのです。

 けれど、怖いもの見たさというものがあったのでしょうか。もしくは若気の至りなのか。私はさらなる夫の独白を聞いてしまいました。

「千代子って、きっと自分以外のことなんてどうでもいいんだ。僕のことも興味無いし。ましてや、隣の家の猫が脱走したことなんて、本当にどうでもいいんだろうね」

 猫。そう言えばお隣の家の門の上に座っているのを以前見かけたことがある気がします。でも、どんな猫だったのかはほとんど思い出せません。私は包丁を握る手に力が入りました。

「なぜ僕が朝、何もしなくなったか分かる?」

 とうとう、私は振り向きました。テーブルにだらしなく背中を丸めて座る夫としっかりと目が合います。

「そう、それ。毎朝その目を間近に見るのは辛いし怖い。僕は、死んだ魚と結婚したのかもしれない」

 私は、静かに包丁を振り上げました。

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