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3・ワラビーと東京
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朝はきっかり七時に目を覚まします。新しい生活が始まってしばらくのうちは夢見の悪さに苦しみましたが、最近は穏やかにこの世へ意識を浮かべていくことができます。
私は夫の家に引っ越して以来、自分の部屋を与えられていました。殺風景な部屋。今時箪笥は流行らないらしく、私の衣服は全てクローゼットに仕舞われています。あるのは白い壁とベッドと机と鏡台。
鏡台は、夫が私にくれたものです。初めて二人で過ごした土曜日。海の近くにある大きな家具屋へ私を連れていき、選ばせたのでした。柔らかな乳白色に、ヨーロピアンな薔薇の模様と蔓草柄が金色で描かれていて、猫足付き。いくつかある引き出しの取っ手はアールデコ調を思わせる優雅な曲線を描いたもので、女の子の心をくすぐるものがあります。この家の中では明らかに異質な存在なのですが、十七歳でこのような境遇にある私も世の中では異質でしょうから、とても親しみが持てました。
私は鏡台の三面鏡を開いて、その前に座ります。引き出しから出したブラシで髪を梳かし、右と左の二箇所で三つ編みの縄を作りました。
夫はおそらく、隣の部屋でまだ眠っていることでしょう。
私はキッチンに入って夫のために珈琲を用意し、食パンを焼きます。同時に、昨夜の残り物を弁当に詰めて、自分のためのお茶も煮出します。これらは、暇に明かして家政婦さんから仕込んでもらっていた家事が生きているのです。
七時半。夫が欠伸をしながらリビングに入ってきました。
「おはよう」
「おはようございます」
少し寝癖がついていて、パジャマの前は半分がはだけています。特に気になるのは、ボタンを一つかけちがえていること。父はこんなことをする人ではなかったので、改めてここは他所の家なのだなと実感してしまいます。
私はトーストにマーマレードを塗りました。夫はブルーベリージャムを塗っています。朝のニュース番組が今日も物騒な事件や火事の発生を告げ、いつの間にか芸能人の話題が流れる頃には出かける時間になっていました。その頃には夫も薄い髭を剃ってスーツを着込み、普通の社会人らしくなっていました。
私が玄関へ向かうと、夫は仕事鞄を手に待っています。私の苦手な儀式が始まろうとしていました。
始まりは、私の何気無い一言でした。
「正直、夫婦って何なのか分からないんです」
ある朝、私は夫に訴えました。実家を出されたことも、知らない人といきなり結婚させられたことも、千歩譲って全て良しといたしましょう。けれどそうしたところで、私はどのような私になれば私でいられて、私が私でいることができるのか。夫は父とは違い、何もかも勝手に決めない人なので、どのように過ごせば私のこの人生が正解となりうるのか、分からなくなってしまったのです。
夫はすぐに何か返事をしてくれました。ですが、案の定聞こえません。私が耳に手を当てて夫の声に集中しようとすると、夫は新聞広告の裏紙に何かを書き付けて私に差し出しました。
『とりあえずの目標
行ってきますとただいまの場所が同じであること』
私達の家は、ここです。あまりにも当たり前のことが書かれてあったので、その奥や裏にある意味を読み取ろうと頭を巡らせていた私は、大変無防備になっていました。なので、急に抱きしめられて、耳元で囁かれた時にはとても驚いたものです。
「それから」
夫は私の背中に腕をまわしたまま、少し屈みました。
「毎日、キスすること」
そこには、夫の強い意志がありました。二人で出かけても手さえ繋がないのに。
今朝は、触れるだけでは終わりませんでした。「ちょっと、甘い」と何の役にも立たない感想を言うのです。きっと、さっき飲んだ林檎ジュースの味がしたのでしょう。私はセーラー服の襟に皺がついていないか確認するフリをして、夫から一歩後ずさりしました。
基本的に、結婚は一度きりのものです。夫はこれからを共に歩む人です。まだ日は浅かれど、二人の生活には午後のひだまりのような穏やかさがあり、それは紛れもない幸せ。三十路の足音が聞こえているというのに二十歳にしか見えない無邪気な夫の外見も手伝って、到底嫌いにはなれません。
でも、まだ好きとは思えないのです。
キスは、好きな人とするものだと思っていました。聖なる暗黙の約束を破る私には、いつか大きな罰が下るかもしれません。それでも、夫からもたらされる啄みを毎日少し背伸びして受け取ってしまうことに、ぴったりの言い訳はなかなか見つからないのでした。
今の高校は、自転車で二十分あまりのところにあります。共学で、以前通っていた私立の高校よりも寂れた校舎と大きな校庭があります。クラスには、どことなく気取った所謂上流階級のお嬢様や、勉学に魂を捧げている方なんておりません。代わりに、群れて同一化することに神経をすり減らす方々が大半を占めていて、その集団が一致団結して『我らは中流だ。我らは平等だ』と主張しているように見えました。
そんな中でも、私と似たり寄ったりの気風の方がいらっしゃいます。
「ワラビー。蕨野! ぼうっとしてるところ、悪いんだけどさ」
私は結婚して新生活が始まった後も、蕨野(わらびの)という姓を使い続けています。夫に、私の苗字は変わらないと言われたからです。夫も仕事では旧姓を使い続けているようなので、まるで事実婚のようだと思います。
その日の授業がすべて終わって、教科書を鞄に片付けているところでした。声のした方に首を向けると、肩先まで伸ばした薄茶の髪をさらりと揺らす女性がいました。
「東(あずま)さん」
「いい加減、京(みやこ)かトーキョーって呼びなよ。あたし達の仲だろう?」
彼女の名は東京(あずま みやこ)。他の同級生とは一線を画す大人びたオーラを放つ彼女は、良かれ悪しかれ何でもあけすけに話をするサッパリとした性格の女性。目鼻立ちの整ったその顔は、外国人である母親譲りとのこと。明るい髪色は校則違反しているわけではなく、地毛だそうです。
「ワラビーさ、いつもノート取るの上手いよね? しかも、頭も良いよね?」
東さんは、既に帰宅して空席となっている私の前の席に座ると、こちらへ顔を近づけてきました。ふと夫のことを思い出して顔が強ばると同時に赤くなります。
「ワラビーは可愛いなぁ。悪い男に引っかからないように気をつけなよ?でさ、ものはお願いなんだけど」
東さんの家はバーを経営しているそうです。お店は夜から朝方まで開いていて、東さんは店の手伝いをしています。記憶によると、私のような齢で深夜に働くのはご法度だったはず。東さんのお父様も私の父のように何でも決めてしまう人なのでしょうか。
「今度の木曜日、うちの店の十周年なんだよね。で、木曜から日曜まではスペシャルデーっていうか、いつもよりも特別なんだ。だからあたし、朝まで店出るつもりなの」
高校に通ってその後朝まで働くなんて、東さんはいつ寝るのでしょうか。過労で倒れてしまいそうです。
「そんな不安そうな顔しないでよ。だからね、あたし木曜と金曜は学校休むから。その間のノート、後で見せてよね?」
「いいですよ。でも……」
「何よ?」
「無理はしないでくださいね」
「ワラビーにそんなこと言われたら、仕方ないなぁ。酒の量は減らしておくよ」
東さんは、ひらひらと手を振りながら、鞄を肩に担ぐように持って教室を出ていきました。それを瞳だけ動かして見送ると、私も帰り支度の仕上げにかかります。
「蕨野さん」
振り向くと、クラスメイトの男子が一人で立っていました。名前は、まだ覚えていません。
「あの人と、あまり仲良くしない方がいいよ」
「どうして?」
「んー。君には不幸なままでいてほしいんだよね。あまり、あれに学んでほしくないんだ」
男子はそれだけ言うと、不敵な笑みを浮かべたまま背を向けて離れていきました。
その後、私がどうやって家に帰ったのかはほとんど覚えていません。
私は夫の家に引っ越して以来、自分の部屋を与えられていました。殺風景な部屋。今時箪笥は流行らないらしく、私の衣服は全てクローゼットに仕舞われています。あるのは白い壁とベッドと机と鏡台。
鏡台は、夫が私にくれたものです。初めて二人で過ごした土曜日。海の近くにある大きな家具屋へ私を連れていき、選ばせたのでした。柔らかな乳白色に、ヨーロピアンな薔薇の模様と蔓草柄が金色で描かれていて、猫足付き。いくつかある引き出しの取っ手はアールデコ調を思わせる優雅な曲線を描いたもので、女の子の心をくすぐるものがあります。この家の中では明らかに異質な存在なのですが、十七歳でこのような境遇にある私も世の中では異質でしょうから、とても親しみが持てました。
私は鏡台の三面鏡を開いて、その前に座ります。引き出しから出したブラシで髪を梳かし、右と左の二箇所で三つ編みの縄を作りました。
夫はおそらく、隣の部屋でまだ眠っていることでしょう。
私はキッチンに入って夫のために珈琲を用意し、食パンを焼きます。同時に、昨夜の残り物を弁当に詰めて、自分のためのお茶も煮出します。これらは、暇に明かして家政婦さんから仕込んでもらっていた家事が生きているのです。
七時半。夫が欠伸をしながらリビングに入ってきました。
「おはよう」
「おはようございます」
少し寝癖がついていて、パジャマの前は半分がはだけています。特に気になるのは、ボタンを一つかけちがえていること。父はこんなことをする人ではなかったので、改めてここは他所の家なのだなと実感してしまいます。
私はトーストにマーマレードを塗りました。夫はブルーベリージャムを塗っています。朝のニュース番組が今日も物騒な事件や火事の発生を告げ、いつの間にか芸能人の話題が流れる頃には出かける時間になっていました。その頃には夫も薄い髭を剃ってスーツを着込み、普通の社会人らしくなっていました。
私が玄関へ向かうと、夫は仕事鞄を手に待っています。私の苦手な儀式が始まろうとしていました。
始まりは、私の何気無い一言でした。
「正直、夫婦って何なのか分からないんです」
ある朝、私は夫に訴えました。実家を出されたことも、知らない人といきなり結婚させられたことも、千歩譲って全て良しといたしましょう。けれどそうしたところで、私はどのような私になれば私でいられて、私が私でいることができるのか。夫は父とは違い、何もかも勝手に決めない人なので、どのように過ごせば私のこの人生が正解となりうるのか、分からなくなってしまったのです。
夫はすぐに何か返事をしてくれました。ですが、案の定聞こえません。私が耳に手を当てて夫の声に集中しようとすると、夫は新聞広告の裏紙に何かを書き付けて私に差し出しました。
『とりあえずの目標
行ってきますとただいまの場所が同じであること』
私達の家は、ここです。あまりにも当たり前のことが書かれてあったので、その奥や裏にある意味を読み取ろうと頭を巡らせていた私は、大変無防備になっていました。なので、急に抱きしめられて、耳元で囁かれた時にはとても驚いたものです。
「それから」
夫は私の背中に腕をまわしたまま、少し屈みました。
「毎日、キスすること」
そこには、夫の強い意志がありました。二人で出かけても手さえ繋がないのに。
今朝は、触れるだけでは終わりませんでした。「ちょっと、甘い」と何の役にも立たない感想を言うのです。きっと、さっき飲んだ林檎ジュースの味がしたのでしょう。私はセーラー服の襟に皺がついていないか確認するフリをして、夫から一歩後ずさりしました。
基本的に、結婚は一度きりのものです。夫はこれからを共に歩む人です。まだ日は浅かれど、二人の生活には午後のひだまりのような穏やかさがあり、それは紛れもない幸せ。三十路の足音が聞こえているというのに二十歳にしか見えない無邪気な夫の外見も手伝って、到底嫌いにはなれません。
でも、まだ好きとは思えないのです。
キスは、好きな人とするものだと思っていました。聖なる暗黙の約束を破る私には、いつか大きな罰が下るかもしれません。それでも、夫からもたらされる啄みを毎日少し背伸びして受け取ってしまうことに、ぴったりの言い訳はなかなか見つからないのでした。
今の高校は、自転車で二十分あまりのところにあります。共学で、以前通っていた私立の高校よりも寂れた校舎と大きな校庭があります。クラスには、どことなく気取った所謂上流階級のお嬢様や、勉学に魂を捧げている方なんておりません。代わりに、群れて同一化することに神経をすり減らす方々が大半を占めていて、その集団が一致団結して『我らは中流だ。我らは平等だ』と主張しているように見えました。
そんな中でも、私と似たり寄ったりの気風の方がいらっしゃいます。
「ワラビー。蕨野! ぼうっとしてるところ、悪いんだけどさ」
私は結婚して新生活が始まった後も、蕨野(わらびの)という姓を使い続けています。夫に、私の苗字は変わらないと言われたからです。夫も仕事では旧姓を使い続けているようなので、まるで事実婚のようだと思います。
その日の授業がすべて終わって、教科書を鞄に片付けているところでした。声のした方に首を向けると、肩先まで伸ばした薄茶の髪をさらりと揺らす女性がいました。
「東(あずま)さん」
「いい加減、京(みやこ)かトーキョーって呼びなよ。あたし達の仲だろう?」
彼女の名は東京(あずま みやこ)。他の同級生とは一線を画す大人びたオーラを放つ彼女は、良かれ悪しかれ何でもあけすけに話をするサッパリとした性格の女性。目鼻立ちの整ったその顔は、外国人である母親譲りとのこと。明るい髪色は校則違反しているわけではなく、地毛だそうです。
「ワラビーさ、いつもノート取るの上手いよね? しかも、頭も良いよね?」
東さんは、既に帰宅して空席となっている私の前の席に座ると、こちらへ顔を近づけてきました。ふと夫のことを思い出して顔が強ばると同時に赤くなります。
「ワラビーは可愛いなぁ。悪い男に引っかからないように気をつけなよ?でさ、ものはお願いなんだけど」
東さんの家はバーを経営しているそうです。お店は夜から朝方まで開いていて、東さんは店の手伝いをしています。記憶によると、私のような齢で深夜に働くのはご法度だったはず。東さんのお父様も私の父のように何でも決めてしまう人なのでしょうか。
「今度の木曜日、うちの店の十周年なんだよね。で、木曜から日曜まではスペシャルデーっていうか、いつもよりも特別なんだ。だからあたし、朝まで店出るつもりなの」
高校に通ってその後朝まで働くなんて、東さんはいつ寝るのでしょうか。過労で倒れてしまいそうです。
「そんな不安そうな顔しないでよ。だからね、あたし木曜と金曜は学校休むから。その間のノート、後で見せてよね?」
「いいですよ。でも……」
「何よ?」
「無理はしないでくださいね」
「ワラビーにそんなこと言われたら、仕方ないなぁ。酒の量は減らしておくよ」
東さんは、ひらひらと手を振りながら、鞄を肩に担ぐように持って教室を出ていきました。それを瞳だけ動かして見送ると、私も帰り支度の仕上げにかかります。
「蕨野さん」
振り向くと、クラスメイトの男子が一人で立っていました。名前は、まだ覚えていません。
「あの人と、あまり仲良くしない方がいいよ」
「どうして?」
「んー。君には不幸なままでいてほしいんだよね。あまり、あれに学んでほしくないんだ」
男子はそれだけ言うと、不敵な笑みを浮かべたまま背を向けて離れていきました。
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