けもの

山下真響

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けもの

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 溢れた豆乳のように広がる雲り空が、四角い窓で切り取られている。土壁の前にある白い体は、ぼんやりと浮かび上がって見えた。湯上がりの肌から立ち上る蒸気が光を朧気にして、その女の存在を曖昧にしている。

 まだ、浴巾を巻いたままの姿だ。座り込み、浮世絵に描かれるような華奢な指が鋏を支え、笛でも吹くが如く耳元に添えられていた。

 ふぁさよ、ふぁささ、さらららら

 元々、肩にも届かぬ短い髪だ。一房、一本、それぞれが、思い思いの方角へ散らばって、萎びた床に降り注ぐ。

 ふぁさよ、ふぁささ、さらららら

 白と黒が半々か。混ざると灰色にも見える。その奇妙にも生々しい色合わせは、まるで獣の毛のようだ。

 今どき、髪を染める人は多いが、この女は自然に任せていた。額に近い方が白く、後ろに行けば黒が多い。お互いそんな歳になったのだろう。と、同じく白髪の混じった自身の頭に手をやった。

 ふぁさよ、ふぁささ、さらららら

 おそらく、これは儀式である。共に積み重ねてきた苦労と忍耐と年月の証が今、冷たい刃物で切り落とされて、別のものになっていく。

 手に持っていた湯呑が、急に冷たく感じて――。

「おい」

 焦りに駆られて声をかけた。勝手に髪を切るのは構わない。だが、未だ瑞々しさの残る体がいけない。あまりに髪とちくはぐの年の重ね方をしていて、本来そこに在るはずの魂は消え、別のものがその器たる体に入っているかのよう。

 文字通り、そういった毛皮を被った得体のしれない獣に見えたのだ。

 途端に、すぐそこにあるうなじが、肩が、背中が、物凄い勢いで遠くなっていく気がした。

「何?」

 一重の瞳が一対、こちらを向き、たっぷりと時間をかけて瞬きをする。答えを知っている問いを尋ねる時の癖だ。

 腹が立つのに、何か言うと負けそうな気がして声を出せない。何食わぬ顔のまま、拳を握りしめた。

「これ、片付けておいてくれる?」

 反射的に頷いてみると、出会った頃のような妖艶な笑みが返ってきた。意味が、分からない。

 その女の去った跡、黒い染みが巫山戯た顔をし、こちらを見上げて嗤っている。暫し、込み上げてくる胸騒ぎを落ち着かせようと、深呼吸を繰り返して立ち尽くしていた。



 気配が無くなったと気づいたのは、もう夕方近くだった。家の中に、もうあの女の姿はない。箪笥を開けると、ここに来るより古くから持っていたらしい黒の洋服も消えている。

 なぜか、すとんと腑に落ちるものがあった。

 自分には勿体ない女だった。子はできなかったが、家のことはよくやってくれたし、よく自分を立ててくれたのも確か。

 と同時に、その不思議な佇まい故か、どこまで近づいても互いを隔てる薄い膜があった。けれど、その奥にある本物を見るためだけに、最後の砦たるものを突き破るのはなぜか憚られてしまい、今に至る。

 思いとどまらせていたのは、あの女の弱さだ。裸にするだけのはずが、皮を捲って、肉を削ぎ、骨に自分の爪を食い込ませるようなことになりそうで。それに耐えるに、アレはあまりに軟すぎたのだから、仕方がない。

 きっと本人もそれを理解していたのだろう。それも出会った瞬間から。だからこそ、こうなるという約束を約束通りに履行した。そういうことだ。

 一定の結論を出した気になったところで、ようやく毛を拾い集めることにした。

 天井からぶら下がる電球の下、それらは全て同じ色に見える。熟れた柿色。

 あまりに美味そうなので、一本を口に咥えた。鋭く舌に突き刺さる、容赦ない一撃を受ける。太くて、硬くて。一見しっかりしている、あの女らしい髪だった。

 一所に集め終える。ふぁさふぁさとした遺物は、なせだか収集癖を刺激した。さて、これらを保管するにはどうすれば良いだろうか。

 それから三日、やはり何食わぬ顔のまま過ごす。導き出した答えは、布人形だった。丸坊主の人形の頭に、あの女の毛を生やすのだ。

 手芸店では、良い材料や器具が見つかった。それでも、一本一本を並べて植えていく作業は、どこまでも緻密で神経を使う。一方で、ひたすら打ち込み続けていけば、どこか心が安らいでいくのだ。

 完成したのは、初夏の頃だった。不器用なばかりに、女というよりかは、毬栗坊主という形である。それでも、あの女の寝間着で作った洋服を着せると、どことなく体裁が整って見える。

 できた。という満足と共に、枕の上に寝かせてやった。これで今夜からは、また二人だ。窓の向こうは蛙の合唱。湿り気を帯びた空気がゆるやかに流れて頬を撫でた。その優しさを打払うようにして、団扇をあおいでいると、からりと網戸が開く音がする。

 強い風でもないのに、おやと思って見遣ると、黒い影があった。何だろう。のそりと立ち上がって灯りをつけようとすると、寝間着の裾が下に引っ張られている。

 おそるおそる足元を見た。

 獣が、いた。
 しかも、僅かな月明かりの中、目があった。

「返してちょうだい」

 狼に似ている気がする。耳がぴんと立っていて、犬よりも立派な足が床を踏みしめていた。そして、普通であれば人語を話さないような姿に見える。

「出ていけ」

 空耳だったのだろうか。とにかく気味が悪い。追い払うために、壁に立て掛けてあった布団叩きを手に取るも、足が竦んで動けない。

「それは、私のよ」

 また喋った。と思った瞬間、頭の中に稲妻が走る。これは。この声は。指先から頭の天辺まで鳥肌が立って、息をするのを忘れそうになる。

「いや、これは、私のだ」

 咄嗟に言い返す。獣の視線の向こうにあるのは、あの出来損ないの人形だ。馬鹿のように面倒な作業を繰り替えして作ったから、という理由からではない。なぜなら、あれは――。

「これは、ここへは置いておけないの」

 獣が人形に飛びかかって、食いちぎろうと牙を立てた。その体が強い光を放ち、辺りを照らす。白と黒の斑の毛並み。ただただ、禍々しい。

「駄目だ」

 負けじと手を伸ばすと、またもや指にささる、あの女の毛。血が出ても構わなかった。今になって、どうしても、どうしても、欲しくて縋りたくて守りたくてたまらなくなる。

 なぜなら、これは、私だけの、綺麗なままの記憶を閉じ込めているはずの玉手箱。誰であれ、渡すことなどできやしない。ましてや、開けたならば最後。きっと、知りたくないことを目の当たりにしてしまう。

 必死なのはお互い様だ。
 人形を思い切り引き合った。
 すると、当然のことながら、千切れた。

 ふぁさよ、ふぁささ、さらららら

 あの日のように、髪が散って、床に降り注ぐ。かと思いきや、獣が放つ光の下、それらは全て一瞬煌いた後、宙に溶けて見えなくなった。

 呆気にとられていた。燃え尽きかけた線香花火のよう。怒りすら霧散する程、美しい。

「おい」

 獣の眼光は、たちまち緩やかになっていった。

「何?」

 その仕草は、あの女と同じだ。

「戻ってこないのか」

 獣は、犬のようにくうんと鳴くと、背を向けて行ってしまった。

 どこへ向かうのだろうか。網戸の向こうに消え行く姿。残されたのは暗闇。後から聞こえた遠吠えは、勝鬨のようで。

 ついに、目元をくしゃりと歪めた。鼻の奥がツンとして痛いのは、気のせいではないのだろう。

 毛のなくなった人形が死んだように倒れている。たぶんアレは、自分だ。

 置いていかれてしまったのだ。


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