上 下
13 / 15

サファイの助言

しおりを挟む
「私の名前は、ルチル・クォーツ」

 その声が、耳から離れない。

 夕方、ジェットは、自分の屋敷まで魔道車を走らせながら、未だに上の空だった。生気を吸い取られた廃人のようになっている。今日は『蔵』を出てからというもの、仕事もほとんど手がつかなくて。

 ルチルが、伯爵夫人。

 初めて本気で欲しくなった女性が、既に他人のものだった。悲しくて、辛くて、悔しくて、涙すら出ない。

 職場である魔導品制作部に戻ってから、比較的気心の知れた同僚に話を振ってみた。極力冷静に、いたって普通の世間話を装って。

「資材部のルチル様って結婚してるんですってね」

 同僚は、驚いたのか、作業の手を止めて返事した。

「え、天才でも知らないことってあるんですね!」

 決して馬鹿にされたわけではないのだろう。むしろ、気を遣われたのかもしれない。だがジェットは、酷く打ちのめされた。

 ジェットは盲目なので、周囲の貴族達の話の輪には入りにくい。言葉の中に出てくる「あれ」や「それ」はどれを指しているのか分からなくて、とてもじゃないが話題の流れについていけないのだ。

 しかも、メモや普通の書物なども読めない。魔導品に関しても、自分で行う手探りの実験の結果か、誰かから聞かせられた話からしか情報は得られないのだ。

 ジェットの生きる世界は、とても狭くて、暗くて、小さい。常に危うい。

 その後、機転を利かせた同僚は、ルチルについて知る限りのことを教えてくれた。

 彼女の名ばかりの夫、ラドライトは先の大戦で王国を勝利へ導いたことから英雄伯爵との異名があり、男色であることも有名。長く同性のパートナーがいるが、ジュウェール王国は異性同士の婚姻しか認めていない。

 そこへ、降って湧いたのが、元庶民の公爵令嬢ルチルとの縁談だ。ラドライトは女嫌いで知られているのに、残した功績と名声と高さから、婚約したいと迫ってくる貴族は掃いて捨てるほどいる。ちょうど、そんな虫けらがうるさくて、対処に困っていたタイミングだった。

 そこで、彼はルチルを妻として扱わないことを王に認めさせた上で、話を急速に進めていった。

 そうして迎えた結婚式。実質的にルチル本人と顔を合わせたのはこの時のみ。指輪の交換でさえ、彼女と目を合わさず、一言も交わさなかったらしい。もちろんキスもしていない。

 ジェットはその事実に一瞬浮足しだったが、ルチルのことを思うとあまりの不憫さに胸が苦しくなる。

 ルチルは、配偶者に愛されないどころか、ほぼ居ないものとして扱われたのだから。

 その後もずっと別居状態で、他人以上に他人の関係だそうだ。元庶民が『蔵』で働く権利を得るために仕方なかったこととは言え、彼女が払った代償はあまりに大きすぎる。

 確かに生きる術を手にして、身元は確かに守られたのだろうが、心は――――

 ルチルは明るい女性だ。けれど、単純にそれだけの人物でないというのは、前から薄々感じていた。きっとこういう背景があったからなのだと、ようやく納得がいく。

 もちろん世間には、もっと酷い目にあっている女性がたくさんいる。でも今のジェットには、ルチルのことしか考えられなかった。

―――僕が夫だったら、ルチル様をもっと……

 もっと?

 もっと、何ができるのだろうか?
 盲目のジェットに。

 魔導車が屋敷に着いた。すぐに、執事のサファイが迎えに出てくる。一言、二言交わすと、日課をするべく、湖の前にある広場へ向かった。

 上半身の服を脱ぐ。裸体になると、感覚がより一層鋭くなる。そこへ、軽装になったサファイもやってきた。

「今日は、手加減無しにしてほしい」

 何かあったということは、これだけで伝わってしまう。サファイは「御意」と返事すると、次の瞬間にはその場から姿が消えていた。

 ジェットの身体に鳥肌が立つよりも早く、硬い物がぶつかる音が森に響く。驚いた鳥達が、逃げるようにして赤く染まる夕闇の彼方へ飛び去っていった。

 サファイは、ジェットの首元に魔導筒と呼ばれる武具を当てている。

 魔導筒は、名前の通り筒状をしている。奥に仕込まれた火薬をぶっ放し、命中させることで死傷させることもできるが、的中させることは難しいと言われていた。

 そのため、近接戦闘の際に使えるよう、強烈な魔導波を出す機能もついている。特殊な魔導波は人間の臓器すら破壊する。小振りなので、暗器のように使われることもあり、それを想定しての模擬戦闘だ。

 ジェットは、キャンセラーと名付けた自作の魔導品で、サファイの魔導筒を受け止めている。接触した他の魔導品から一時的に魔力を奪う特性がある。

 サファイの攻撃は、打撃としても強力なものだったはずだが、ジェットは身動ぎ一つしていない。

 こういった鍛錬を続けて、もうニ十年以上が経つ。絶対的なバランス感覚と力の受け流し方を身に着けていた。さらには、巨体の相手と向き合った際にも耐えられるよう、筋力と精神力も高めていた。

 サファイが、また別の角度から打ち付けてきた。武器も別のものになっている。ジェットの場合、飛び道具で攻撃されたら最後だが、それ以外ならば命拾いできる可能性があるので、ひたすら守りの練習を積んでいるのだ。

「ルチル様は、結婚していた」

 ジェットは、サファイとすれ違いざま、声を絞り出す。

「存じておりました」

 びっくりして、ジェットは立ち止まってしまう。次の瞬間、サファイからの蹴りが入って地面に転がってしまった。

「それがどうしました? 大切ならば、大切にすれば良いのです。彼女を守る権利があるのは、夫や父親だけではないはずです」

 サファイの淡々とした声が、水辺に沿って広がる整えられた芝生の上へ、静かに広がっていく。

 ジェットの方は、体が痺れたようになり、脚が腫れあがっている。前に、ここまでダメージを受けたのはいつのことだったか。

 サファイは、ジェットの手を取って起き上がるのを手伝った。彼はいつも、ジェットを側で支えてきた。

 母親の死からなかなか立ち直れなかった時も。目が見えなくなった時も。本が読めなくて、貴族学校の試験の勉強や受験方法に困っていた時も。

 いつだってジェットを優しく叱り、精一杯の方法を提案してくれる。二人三脚で走り抜けてきた。

「あんなに柔らかく笑うジェット様を見るのは、久しぶりでした」

 ジェットがルチルを職場から拉致してきた時のことを話しているのだろう。

「そんなに僕は、いつもふてくされているのかな」
「いつも真面目で、張り詰めてらっしゃいますね」

 ジェットは、服についた土を手で払い落とした。サファイは、ボロボロのジェットに目を細める。

「泥臭くてもいいじゃないですか。諦めたら最後です」

 これまで辛いことばかりだった。でも、諦めなかったからこそ、学校も優秀な成績で卒業し、志望通りでなくとも魔導品を扱う仕事につけた。

 好きな人も、できた。

「サファイ、ありがとう」

 ジェットは屋敷の者が夕飯の支度ができたと呼びにくるまで、サファイと模擬戦を続けた。

 そして自室に戻り、風呂に入った。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

泥々の川

フロイライン
恋愛
昭和四十九年大阪 中学三年の友谷袮留は、劣悪な家庭環境の中にありながら前向きに生きていた。 しかし、ろくでなしの父親誠の犠牲となり、ささやかな幸せさえも奪われてしまう。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

【完結】ダメなのはわかってる、それでも。

もえこ
恋愛
どこにでもいる平凡で真面目な既婚女性、佐和子は、ある時の異動を機に、独身男性、克之と同じ係で仕事をするようになる。最初の数年は、全くお互い意識しなかった2人が、ある時を境に、お互いを少しずつ意識するようになる。 理性と欲望の狭間で、抑えがたい感情を抱きながら揺らめき、抗えず、堕ちていく男女の関係を描く。 ※こちらはあくまで創作物ですので、不倫そのものに対するご批判等はご容赦願います。また、後半は性描写が激しいため、苦手な方はご注意ください。

【R18】もう一度セックスに溺れて

ちゅー
恋愛
-------------------------------------- 「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」 過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。 -------------------------------------- 結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。

隣の人妻としているいけないこと

ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。 そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。 しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。 彼女の夫がしかけたものと思われ…

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

[恥辱]りみの強制おむつ生活

rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。 保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。

処理中です...