琴姫の奏では紫雲を呼ぶ

山下真響

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外伝25 出来る男クロガ

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「クレハ様」

 アオイは、文机に向かうクロガの背中に呼びかけた。返事は無い。

「クレハ」

 相変わらず勤勉なことだ。とアオイは肩を竦める。アオイは、クロガと同室になってからというもの、少しだけ彼について調べてみた。

 クロガはソラで王子をしていた頃、カケルに代わって政務を取り仕切り、完璧に「王」の役を果たしていたという。なのに、本当に政治的手腕があったのはクロガであり、カケルではなかったと知るのは、今もほんの一握りの人間だけ。神具師としての腕もかなり良いようだ。残念ながら、兄と弟が神具に関して奇人であったばかりに、霞んでしまっただけ。とことん報われない男である。

 新たな鳴紡殿に移ってきてからも、実質的な元王としての資質を買われ、ハトやミズキに助言を求められては応える日々。そればかりではない。シェンシャンが弾けないのに楽師になるという、馬鹿げたことも、ある工夫をもって乗り越えたのである。

「ちょっと、返事ぐらいしなさいよ」
「誰に話しかけてるんですか?」
「あなたしかいないでしょ? クロガ」

 クロガはようやく澄ました顔を崩して、へらりと笑った。こうして見えると、まだ幼さが残っているようにも見える。今、彼が気軽にこんな顔を見せられるのは、きっとアオイだけだろう。独り占めしている、という実感が膨らんで、アオイは胸を鷲掴みにされる想いだった。

「今日も、音、入れておきましたからね」
「ありがとうございます」

 クロガはようやくアオイの正面へ向き直ると、深々と頭を下げた。

 音入れ。これは、クロガが鳴紡殿へ移ってからすぐに作り上げた神具と関係している。

 クロガは、クレナとソラが合併し、紫国というものができて以来、こっそりとシェンシャンを鳴らすことに挑戦していた。しかし、結果は芳しくない。しかし、ミズキからは大役を仰せつかってしまった。そこで彼は、もう自分で弾くことを諦めることにした。

 方法は、こうだ。まず、自分のシェンシャンを作る。音の神と記憶の神、風の神、さらには、夢の神や幻影を操る遊び心の神まで降ろしておく。それを他人に渡し、さまざまな曲を演奏してもらう。シェンシャンには、他人の演奏が記録され、クロガが弾く真似をすると、シェンシャンが記憶している音が自然と流れ出るのだ。

 これは、画期的なものだった。複数名の弾き手の良いところがうまく融合され、さらには神が聞き手に「これは美しい音色だ」と幻想を抱かせることをするものだから、いつでも素晴らしい奏でを紡ぐことができる。

 念のため、クロガが触れた時のみ発動するよう仕込みも施しているので、種明かしをしない限り、どこからどうみても、新人楽師クレハは当代一、二を争う名手になったのだ。

 クロガのシェンシャンの中に刻まれている音の多くは、アオイのものだ。やはり首席代行を務めるだけあって、彼女の音色は群を抜いている。特に、クロガを前にして奏でた音は、特に優しさに満ち溢れていると思われた。

「さて、今夜はこれぐらいにしておこうかしら」
「いつもすみません。僕も、ミロク様への助言をまとめ終えましたら、休みます」

 御簾の外が暗い。ぷーんという耳障りな音が近づいてきて、クロガの手元にある蝋燭の近くを黒い虫が飛び始めた。クロガは、それを器用にも手でふわりと包み込むと、何事か呟いて御簾の外へ放つ。

 アオイは、それをぼんやりと眺めていた。

 初めはどうなるかと思っていた同居生活も、今ではすっかり板についている。アオイの部屋には決して入ってこないし、音入れの他は頼み事もしてこない。時折、知らぬ間に共同で使っている居間のような部分を掃除されていたり、花が活けられていたりもする。何をやらせても、そつなくこなす男だ。

 ミズキやアオイを悩ませていた楽師団内の派閥争いも、最近ではほとんど下火である。今年は、入団試験で合格できたのはクロガだけだったということもあり、皆に可愛がれている。と同時に、クロガは年下楽師として他の楽師に教えを乞うフリをしつつ、それぞれの悩みや不満を聞き出して、ひとつひとつ解決すべく取り組んでいた。

 このようなきめ細かなこと、アオイなど絶対にできそうにないし、やりたくもない。こまめな男もいるものだ、と感心するばかりである。

 しばらくすると、クロガは伸びをして机の前に立った。

「やっとできました。ミロク様の故郷の村が貧しいのは、どうやら社の敷地が穢かったり、社屋が清掃されていなかったりで、神の力が届きにくい状態にあったようなんです」

 クロガは、カケルやコトリ達と別に、各地を巡っている元クレナの大巫女が集めた情報を、ミロクに伝えようとしていた。

「これらが解決すれば、少しは豊かになるかもしれませんね。一番は、ミロク様が里帰りして、奉奏することなんですけど」
「そうね。でも、彼は戻りたくないと言っているのでしょう?」
「はい。一度は捨てた村に顔を出すのは格好が悪いだとか話してました。でも、これだけ気に掛けて、村のために何かしようとしている人を、残された家族も邪見にしたりしないと思うんですけど」
「そこは、あの男なりの矜持か、何かがあるのでしょうよ」
「かもしれません」

 この分では、鳴紡殿が再び平穏になり、皆が一丸となって奉奏できるようになる日も近いだろう。すると、クロガは楽師団に籍を置く必要性もなくなってしまう。きっと彼は、王に別の任務を申しつけられて、ここから去ってしまうにちがいない。

 アオイは、言うに言えぬ寂しさで支配されてしまった。

「それでは、僕はもう失礼します。おやすみなさいませ、アオイ様」

 クロガは、いつものように寝る前の挨拶をすると、自分の寝台がある部屋へと向かっていく。アオイは、唇を軽く噛んだ。気づいたら、手を伸ばしていた。

「ねぇ、少し、話さないかい?」

 知らぬ間に、素が出ているが、アオイ本人は気づいていない。クロガは、一瞬きょとんとしたが、すぐに笑顔になった。

「実は僕も、同じ気分でした」

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