206 / 214
外伝20 僕は弱い
しおりを挟む
走った。その獣の名は知らない。しかし、後宮で見かけたことのある愛らしい猫や鳥というわけではない。明らかに、害のある人間以外の生き物。
すぐに息が切れた。あ、と思った時には地面が目前に迫る。こけていた。歯を食いしばって立ち上がる。しかし、背後に迫る異様な気迫は、もう彼の命運が決まり切っていることを物語っている。
死ぬる前に現れると言われている、走馬灯が見えた。
「ははうえ」
けれど、いつになってもダヤンに衝撃はやってこない。いつの間にか、唸り声も消えていた。
「大丈夫?」
ゆっくりと振り返る。つっと、膝小僧から生温い血が伝っていった。
「だれだ」
「神苑の笛吹、ハクアだよ」
「しんえん?」
「この国は神に守られてるんだ。中には僕みたいに、神の力を音色に乗せて運び、獣を操る者もいる」
「おまえが、ぼくに、獣をけしかけたのか!」
「まさか。たまたま通りかかっただけ。助けちゃまずかった?」
「いや」
「なら、よかった。父ちゃんも、いつも弱い人を助けてたから、僕もそうするようにしてるんだ」
ダヤンは、ハクアと名乗る少年を見た。薄汚れた衣。腰帯に差してある長い笛だけが異質な空気を纏っているものの、どう見てもただの貧民だ。歳も、まだ成人しているとは思えない。そんな少年に言われてしまった。弱い人、だと。
「ぼくは、弱いのか」
ダヤンは王子だ。紫の王宮でも、文化や技術は帝国から何歩も遅れた生活環境だが、不自由しないように衣食住を与えられ、守られ、人々にはかしづかれるようにして扱われていた。
こんなに、あっさりと見下されたことはない。
「そうか。僕は弱い」
ダヤンは、急に視界が明るくなった気がした。ずっと分からなかったことが、今ならば分かる気がしてくる。
「獣は、その笛で操るのか?」
「そうだよ。吹いてみる?」
ハクアは、自身の笛をダヤンに渡してきた。
「お前、これは大切な物なんだろう? 僕が悪い人だったら、今頃奪って逃げている」
「それぐらい分かってるよ。でも、今の君には、笛が必要な気がしたんだ」
ハクアの話す内容は、完全に人を見くびっているというのに、トゲがない。紫に来てからというもの、たくさんの人間を観察し、話をしてきたが、信頼しても良いと思えたのはこれが初めてだった。
「僕も笛を覚えたい」
「それは、嬉しい。僕も父ちゃんみたいに、いずれ誰かに継がなきゃいけなかったんだ。ちょうどいいよ」
「継ぐ?」
「そうだよ。神苑の笛吹は、琴姫の系譜よりも古くから、延々と受け継がれてきた名だ。父ちゃんに叩き込まれたから、そのうち歴史を教えてやるよ」
ダヤンは、ぽかんと呆けていた。この少年が、只者でないことを、じわじわと理解し始める。しかも、「継ぐ」などと、とてつもないことを言い出した。五歳の頭でも、それが大事であることは、すぐに分かる。
「いや、やっぱりいいや」
「まぁ、そう言うなって。君みたいに、何か光るものがある人って少ないんだよ。っていうか、初めて見た。昔、父ちゃんに、それと出会えばすぐ分かるって言われたことあるんだけど、本当にそうなんだね」
ハクアは満足気に頷くと、ダヤンの両手をとって、さらに、にじり寄る。
「この小さな手は、いつか大きくなって数多の人々を助けることになるだろう。それには必ず『力』がいる。その汚れ無き眼で見定めた者に手を貸すんだ。決して驕らず、卑下せず、神が守りしこの地の民のために力をふるえ。常に真摯で、誠実さを忘れるな。それが守れるならば、きっと神は、笛を通じてお前を助けてくれる」
ハクアは、急に大人のような気迫になった。ダヤンは驚いて、ただただ目を瞠る。二人は見つめ合っていた。如何ともし難い張り詰めた空間。
どれだけ経ったろうか。それを打ち破るように、ハクアが、へらっと笑った。
「っていうのはね、父ちゃんからの受け売りなんだ。僕は、こうして今代の笛吹になったんだよ。で、どうする?」
荒野に風が吹き抜ける。良い風だ。いつの間にか、空も晴れ渡っている。新たな決断をするには、佳き日に思えた。
「継ぐ」
力が欲しかった。帝国で見たような軍事的な力。アダマンタイトまでの道中で見た金の力。祖父、アダマンタイト王の政治的な力。母親をぶった、腕の力。様々な力がこの世にはあるが、ダヤンは優しくて、しなやかな力を求めていた。
力があれば、今度こそダヤンは母親の役に立ち、母親を守ることができるかもしれない。
「僕はダヤン。皇帝の息子だ」
「皇帝?!」
ハクアの声が裏返る。
対する、金髪、青い目をした幼子は、凛とした気を纏った。
「僕は、この地の民になる。ハクア、弟子にしてくれ」
いかにも異国の子供という風体のダヤン。その澄み切った瞳に決意の炎が灯った。
「分かった。笛を、シャオを教えよう」
その瞬間、ひゅっと、人の唸り声のような音と共に、ハクアの頬から鮮血が飛び散る。ハクアはダヤンから笛を取り上げると、さっきまでの気の抜けた無邪気な少年とは思えぬ素早い動きで、地面を蹴った。
音が広がる。
音というよりも、体を震わせる強い波が押し寄せる。
あっという間に、近くの林や茂みの影から、たくさんの獣が飛び出した。都方面に見えるのは、槍や弓をつがえた男達の集団。獣達は、たちまちダヤンを守る壁のように、男達の間に立ち塞がった。
「ダヤン、逃げろ!」
ハクアが吠える。
しかし、ダヤンは歓喜の表情を浮かべていた。
「母上だ! 母上!!」
ダヤンは、獣達の間を縫って駆け出した。彼方に見えるのは、場違いなぐらい着飾った異国の女。ハクアは、呆れと複雑さ抱きつつ、女の腕に飛び込んでいくダヤンの背中を眺めていた。
すぐに息が切れた。あ、と思った時には地面が目前に迫る。こけていた。歯を食いしばって立ち上がる。しかし、背後に迫る異様な気迫は、もう彼の命運が決まり切っていることを物語っている。
死ぬる前に現れると言われている、走馬灯が見えた。
「ははうえ」
けれど、いつになってもダヤンに衝撃はやってこない。いつの間にか、唸り声も消えていた。
「大丈夫?」
ゆっくりと振り返る。つっと、膝小僧から生温い血が伝っていった。
「だれだ」
「神苑の笛吹、ハクアだよ」
「しんえん?」
「この国は神に守られてるんだ。中には僕みたいに、神の力を音色に乗せて運び、獣を操る者もいる」
「おまえが、ぼくに、獣をけしかけたのか!」
「まさか。たまたま通りかかっただけ。助けちゃまずかった?」
「いや」
「なら、よかった。父ちゃんも、いつも弱い人を助けてたから、僕もそうするようにしてるんだ」
ダヤンは、ハクアと名乗る少年を見た。薄汚れた衣。腰帯に差してある長い笛だけが異質な空気を纏っているものの、どう見てもただの貧民だ。歳も、まだ成人しているとは思えない。そんな少年に言われてしまった。弱い人、だと。
「ぼくは、弱いのか」
ダヤンは王子だ。紫の王宮でも、文化や技術は帝国から何歩も遅れた生活環境だが、不自由しないように衣食住を与えられ、守られ、人々にはかしづかれるようにして扱われていた。
こんなに、あっさりと見下されたことはない。
「そうか。僕は弱い」
ダヤンは、急に視界が明るくなった気がした。ずっと分からなかったことが、今ならば分かる気がしてくる。
「獣は、その笛で操るのか?」
「そうだよ。吹いてみる?」
ハクアは、自身の笛をダヤンに渡してきた。
「お前、これは大切な物なんだろう? 僕が悪い人だったら、今頃奪って逃げている」
「それぐらい分かってるよ。でも、今の君には、笛が必要な気がしたんだ」
ハクアの話す内容は、完全に人を見くびっているというのに、トゲがない。紫に来てからというもの、たくさんの人間を観察し、話をしてきたが、信頼しても良いと思えたのはこれが初めてだった。
「僕も笛を覚えたい」
「それは、嬉しい。僕も父ちゃんみたいに、いずれ誰かに継がなきゃいけなかったんだ。ちょうどいいよ」
「継ぐ?」
「そうだよ。神苑の笛吹は、琴姫の系譜よりも古くから、延々と受け継がれてきた名だ。父ちゃんに叩き込まれたから、そのうち歴史を教えてやるよ」
ダヤンは、ぽかんと呆けていた。この少年が、只者でないことを、じわじわと理解し始める。しかも、「継ぐ」などと、とてつもないことを言い出した。五歳の頭でも、それが大事であることは、すぐに分かる。
「いや、やっぱりいいや」
「まぁ、そう言うなって。君みたいに、何か光るものがある人って少ないんだよ。っていうか、初めて見た。昔、父ちゃんに、それと出会えばすぐ分かるって言われたことあるんだけど、本当にそうなんだね」
ハクアは満足気に頷くと、ダヤンの両手をとって、さらに、にじり寄る。
「この小さな手は、いつか大きくなって数多の人々を助けることになるだろう。それには必ず『力』がいる。その汚れ無き眼で見定めた者に手を貸すんだ。決して驕らず、卑下せず、神が守りしこの地の民のために力をふるえ。常に真摯で、誠実さを忘れるな。それが守れるならば、きっと神は、笛を通じてお前を助けてくれる」
ハクアは、急に大人のような気迫になった。ダヤンは驚いて、ただただ目を瞠る。二人は見つめ合っていた。如何ともし難い張り詰めた空間。
どれだけ経ったろうか。それを打ち破るように、ハクアが、へらっと笑った。
「っていうのはね、父ちゃんからの受け売りなんだ。僕は、こうして今代の笛吹になったんだよ。で、どうする?」
荒野に風が吹き抜ける。良い風だ。いつの間にか、空も晴れ渡っている。新たな決断をするには、佳き日に思えた。
「継ぐ」
力が欲しかった。帝国で見たような軍事的な力。アダマンタイトまでの道中で見た金の力。祖父、アダマンタイト王の政治的な力。母親をぶった、腕の力。様々な力がこの世にはあるが、ダヤンは優しくて、しなやかな力を求めていた。
力があれば、今度こそダヤンは母親の役に立ち、母親を守ることができるかもしれない。
「僕はダヤン。皇帝の息子だ」
「皇帝?!」
ハクアの声が裏返る。
対する、金髪、青い目をした幼子は、凛とした気を纏った。
「僕は、この地の民になる。ハクア、弟子にしてくれ」
いかにも異国の子供という風体のダヤン。その澄み切った瞳に決意の炎が灯った。
「分かった。笛を、シャオを教えよう」
その瞬間、ひゅっと、人の唸り声のような音と共に、ハクアの頬から鮮血が飛び散る。ハクアはダヤンから笛を取り上げると、さっきまでの気の抜けた無邪気な少年とは思えぬ素早い動きで、地面を蹴った。
音が広がる。
音というよりも、体を震わせる強い波が押し寄せる。
あっという間に、近くの林や茂みの影から、たくさんの獣が飛び出した。都方面に見えるのは、槍や弓をつがえた男達の集団。獣達は、たちまちダヤンを守る壁のように、男達の間に立ち塞がった。
「ダヤン、逃げろ!」
ハクアが吠える。
しかし、ダヤンは歓喜の表情を浮かべていた。
「母上だ! 母上!!」
ダヤンは、獣達の間を縫って駆け出した。彼方に見えるのは、場違いなぐらい着飾った異国の女。ハクアは、呆れと複雑さ抱きつつ、女の腕に飛び込んでいくダヤンの背中を眺めていた。
0
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説

家出したとある辺境夫人の話
あゆみノワ@書籍『完全別居の契約婚〜』
恋愛
『突然ではございますが、私はあなたと離縁し、このお屋敷を去ることにいたしました』
これは、一通の置き手紙からはじまった一組の心通わぬ夫婦のお語。
※ちゃんとハッピーエンドです。ただし、主人公にとっては。
※他サイトでも掲載します。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】愛も信頼も壊れて消えた
miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」
王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。
無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。
だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。
婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。
私は彼の事が好きだった。
優しい人だと思っていた。
だけど───。
彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。
※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。

旦那様、そんなに彼女が大切なら私は邸を出ていきます
おてんば松尾
恋愛
彼女は二十歳という若さで、領主の妻として領地と領民を守ってきた。二年後戦地から夫が戻ると、そこには見知らぬ女性の姿があった。連れ帰った親友の恋人とその子供の面倒を見続ける旦那様に、妻のソフィアはとうとう離婚届を突き付ける。
if 主人公の性格が変わります(元サヤ編になります)
※こちらの作品カクヨムにも掲載します
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる