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156裏切り
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カケルは、かつてない程の安らぎを感じていた。
ようやく手に入れた姫、コトリが自分の腕の中にいる。帝国軍にこんな所へ押し込められて、紅い髪は少し色を失くしているが、そっと伏せられた睫毛の長さや、小さな唇、カケルの腕を掴む奏者らしいしっかりとした手、体温。全てが愛おしくてたまらない。
コトリが消えたと聞いた時には、生きた心地がしなかった。いつものことだが、兄弟に無理を言って、すぐさま西へ旅立ち、ようやくの再会。無事でいてくれて良かった。正体を明らかにし、思いの丈を伝えることができて良かった。
名の交換を申し出た際は、コトリから一瞬表情が抜け落ちてしまうという事もあったが、その直後には、彼女からも愛を告げられた。
これを幸せと言わずに何としようか。
幼少期から追いかけてきた愛しの姫。シェンシャンを創っては贈り、少しでも近づきたいとクレナに潜伏し、商人になりすますという、かなり遠回りなことをしてきたが、コトリはソウとして振る舞っていたカケルを責めるようなこともしない。こうして、ぴたりと寄り添い、身を預けてくれるのである。
ここがクレナであれば、カケルも既に理性の箍が外れていたかもしれなかった。しかし、今はアダマンタイトである。
「本来ならば、この後は婚儀を執り行って、共に……過ごすことになりますが、あいにく今はそれどころではないですね」
「えぇ。クレナへ帰りましたら、もう一度あなた様に相応しい形で、やりなおしましょう」
「すみません、堪え性がなくて。あなたが、他の者の手に渡るのだけは、許せなかったのです」
「私もです。私は、ずっと昔から、カケル様のものですもの」
カケルは改めてコトリを抱きしめる。嫌われてはいないと思っていたが、こんなに想い合えるなんて。嬉しくてたまらなかった。
「では、急ぎ、帰りましょう」
「はい」
「ここで、先に一つ確認しておきたいことがあります」
コトリがカケルの胸から顔を上げる。
「クレナの今後についてです」
カケルによると、ソラが帝国軍を蹴散らしてしまうので、クレナ王は帝国と手を組むことができなくなっている状況だという。さらに、今となってはクレナ国内で王の味方となる派閥も風前の灯火。実質上、失脚したことになる。
そして、紫の存在。これはクレナとソラ二国に跨る組織で、貴族、庶民問わず、社も巻き込んだ大きな勢力となっている。ソラは王家が正しく機能しているものの、紫との繋がりが強いことから、新たな国の支部のような機能も果たし始めているというのだ。
「ソラでは、二国が一つになるという話が既に瓦版で出回っているそうですね」
紫が、クレナ王家が機能しなくなる日に備えて、そういったことをしているのはコトリも知るところである。
コトリは元々王女という身分を捨てるつもりであったし、王家というものに未練は無い。民を苦しめる悪しき機関という印象があるだけだ。そこで働くサトリやマツリといった真面目な兄達の存在は気にかかるが、彼らも王位や王族という特権階級に拘りにすぎるきらいはない。コトリとしては、国が新しくなっても、彼らは適材適所で活躍できるだろうと考えている。
「ですから、私としてはクレナという国が無くなっても良いのです。王女の言葉としては、失格なのでしょうけれど、大切なのは、平和な世や、民の生活を守ること、神に守られし土地に生きる者として、神に感謝を捧げることかと思いますから」
カケルは内心ほっとしていた。今後もコトリを守り切るためには、どうしてもクレナという国を王から取り上げる必要があったからだ。
「ご理解いただけて良かった。では、私達がこれから帰る場所は、クレナではなく、新国からもしれませんね」
「はい。私は、新国の王であり、我が夫でもある貴方様に、生涯心を尽くしてお仕えします」
コトリはそう言って、カケルの前に跪こうとするのだが、それはカケルの本意ではない。
「おやめください。お仕えするのは私の方です、琴姫」
結局、二人してしゃがみ込むことになった。カケルはコトリの両手をとって、目を合わせる。
「紫の筆頭に立っているのは貴方です。皆、琴姫であるあなたの存在、奏で、そこからもたらされる平穏と恵みに惹かれて集まっているのですから」
コトリの顔には、緊張が走る。当初はミズキに担がれて、そういった地位にあることは理解していたが、これではまるで、新国の王に就くことになってしまいそうだ。
王族を離れ、庶民の楽師として出直そうとしていただけの小娘に、政の知識もなければ、知恵も人脈も無い。あるのは、神気を見ることができる目と、類稀なるシェンシャンの演奏技術だけ。あまりにも荷が重い。
「でも、私」
「大丈夫です。私もいますし、兄弟達もいる。サヨ様やミズキ様、紫の皆も。一人で抱え込むことはありません。それに、あなた程、神に愛された乙女はおりませんでしょう」
コトリの目が何かに目覚めたかのように、すっと開かれる。
「コトリ様。あなたはもう自由だ。長らく縛っていた鳥籠も鎖も、もうありません。高く羽ばたいて、美しい音を響かせて、新しい世を呼ぶと言われている伝説の紫雲を呼び寄せてくれました。誰かの手駒なんかじゃない。真のあなたの価値に見合った座が、そうなのです」
カケルの言葉は、コトリについていた重りを一つひとつ外していくものだった。どんどん身体が軽くなっていく。羽が生えたかのように。
「カケル様、ありがとうございます」
「いえ。そんな方の夫になれる私は、もしかすると、この世で一番幸せなのですから」
「え、私よりも?」
「そうです」
二人して笑うと目尻に涙が溜まった。カケルは、咄嗟にコトリのそれを吸い取って、頬と頬をくっつける。
「帰りましょう。私達の国に」
「はい」
そうして二人はシェンシャンを持ち、帰り支度をした上で、再び気配を殺すのである。見張りや、城内の兵はまだまだ昏睡しているうちに、早く脱出せねばならない。二人は連れ立って小走りに石の廊下を駆け抜けていく。
そこへ、急に大きな声がした。
「いたぞ!」
カケルが声の方を見る。
「ラピス!」
ラピスは、コトリも知っているヨロズ屋の職人だ。彼もまた、こんな遠くまで助けに来てくれたのかと思うと、胸がじんわりと熱くなる。
しかし、次に離れた言葉は、二人の期待を大きく裏切るものだった。
「琴姫とソラ王はここだ! 早く捕らえろ!」
ラピスの言葉に呼応して、一気に押し寄せてくる帝国兵。鎧が揺れる金属音と硬質な足音が地面の揺れを伴って迫ってくる。
「ラピス、お前、いったい何者なんだ?!」
カケルにも何が起こったのか分からない。しかし、いきなりの帝国への寝返りを問いただしている暇はなかった。帝国兵の集団はもう、目の前なのである。コトリも、恐れをなしてカケルにしがみついていた。
「こうなったら、アレを使うしかないか。ちょっと派手なことをするけど、我慢してくれ」
カケルはコトリの前であっても、感情が高ぶると言葉遣いが荒れるらしい。腕輪の一つを取り外すと、それを地面に叩きつける。たちまち、白い煙があがって、辺りの空気が凍りついたように見えた。
「コトリ、今のうちに!」
カケルがコトリの手を引いて走り出す。兵で埋まった廊下はもう使えないので、低木と花壇が連なる庭を抜ける形だ。神気を大量に動かしているのか、コトリの目には景色が霞んで見えている。
カケルは、必死に悔しさに耐えていた。ラピスは自分が拾って育ててきた初めての愛弟子。これまでも、数々の無茶振りに応えてきてくれた、息のあった相棒の一人でもあった。その忠誠心と絆は本物だと思っていたのに、なぜ――――。
けれど、ぼんやりもしていられない。煙で一度倒れてしまった兵達が、もう起き上がり始めているではないか。逃げきらないことには、二人の未来は無きも等しいのに。
庭の中にある柵を乗り越えた時、カケルは少しだけ背後を振り返った。ラピスと目が合う。その口元が「親方、ごめん」と動いたのが見えた。カケルは、コトリの手を強く握る。泣きそうなのは、悟られたくなかった。
ようやく手に入れた姫、コトリが自分の腕の中にいる。帝国軍にこんな所へ押し込められて、紅い髪は少し色を失くしているが、そっと伏せられた睫毛の長さや、小さな唇、カケルの腕を掴む奏者らしいしっかりとした手、体温。全てが愛おしくてたまらない。
コトリが消えたと聞いた時には、生きた心地がしなかった。いつものことだが、兄弟に無理を言って、すぐさま西へ旅立ち、ようやくの再会。無事でいてくれて良かった。正体を明らかにし、思いの丈を伝えることができて良かった。
名の交換を申し出た際は、コトリから一瞬表情が抜け落ちてしまうという事もあったが、その直後には、彼女からも愛を告げられた。
これを幸せと言わずに何としようか。
幼少期から追いかけてきた愛しの姫。シェンシャンを創っては贈り、少しでも近づきたいとクレナに潜伏し、商人になりすますという、かなり遠回りなことをしてきたが、コトリはソウとして振る舞っていたカケルを責めるようなこともしない。こうして、ぴたりと寄り添い、身を預けてくれるのである。
ここがクレナであれば、カケルも既に理性の箍が外れていたかもしれなかった。しかし、今はアダマンタイトである。
「本来ならば、この後は婚儀を執り行って、共に……過ごすことになりますが、あいにく今はそれどころではないですね」
「えぇ。クレナへ帰りましたら、もう一度あなた様に相応しい形で、やりなおしましょう」
「すみません、堪え性がなくて。あなたが、他の者の手に渡るのだけは、許せなかったのです」
「私もです。私は、ずっと昔から、カケル様のものですもの」
カケルは改めてコトリを抱きしめる。嫌われてはいないと思っていたが、こんなに想い合えるなんて。嬉しくてたまらなかった。
「では、急ぎ、帰りましょう」
「はい」
「ここで、先に一つ確認しておきたいことがあります」
コトリがカケルの胸から顔を上げる。
「クレナの今後についてです」
カケルによると、ソラが帝国軍を蹴散らしてしまうので、クレナ王は帝国と手を組むことができなくなっている状況だという。さらに、今となってはクレナ国内で王の味方となる派閥も風前の灯火。実質上、失脚したことになる。
そして、紫の存在。これはクレナとソラ二国に跨る組織で、貴族、庶民問わず、社も巻き込んだ大きな勢力となっている。ソラは王家が正しく機能しているものの、紫との繋がりが強いことから、新たな国の支部のような機能も果たし始めているというのだ。
「ソラでは、二国が一つになるという話が既に瓦版で出回っているそうですね」
紫が、クレナ王家が機能しなくなる日に備えて、そういったことをしているのはコトリも知るところである。
コトリは元々王女という身分を捨てるつもりであったし、王家というものに未練は無い。民を苦しめる悪しき機関という印象があるだけだ。そこで働くサトリやマツリといった真面目な兄達の存在は気にかかるが、彼らも王位や王族という特権階級に拘りにすぎるきらいはない。コトリとしては、国が新しくなっても、彼らは適材適所で活躍できるだろうと考えている。
「ですから、私としてはクレナという国が無くなっても良いのです。王女の言葉としては、失格なのでしょうけれど、大切なのは、平和な世や、民の生活を守ること、神に守られし土地に生きる者として、神に感謝を捧げることかと思いますから」
カケルは内心ほっとしていた。今後もコトリを守り切るためには、どうしてもクレナという国を王から取り上げる必要があったからだ。
「ご理解いただけて良かった。では、私達がこれから帰る場所は、クレナではなく、新国からもしれませんね」
「はい。私は、新国の王であり、我が夫でもある貴方様に、生涯心を尽くしてお仕えします」
コトリはそう言って、カケルの前に跪こうとするのだが、それはカケルの本意ではない。
「おやめください。お仕えするのは私の方です、琴姫」
結局、二人してしゃがみ込むことになった。カケルはコトリの両手をとって、目を合わせる。
「紫の筆頭に立っているのは貴方です。皆、琴姫であるあなたの存在、奏で、そこからもたらされる平穏と恵みに惹かれて集まっているのですから」
コトリの顔には、緊張が走る。当初はミズキに担がれて、そういった地位にあることは理解していたが、これではまるで、新国の王に就くことになってしまいそうだ。
王族を離れ、庶民の楽師として出直そうとしていただけの小娘に、政の知識もなければ、知恵も人脈も無い。あるのは、神気を見ることができる目と、類稀なるシェンシャンの演奏技術だけ。あまりにも荷が重い。
「でも、私」
「大丈夫です。私もいますし、兄弟達もいる。サヨ様やミズキ様、紫の皆も。一人で抱え込むことはありません。それに、あなた程、神に愛された乙女はおりませんでしょう」
コトリの目が何かに目覚めたかのように、すっと開かれる。
「コトリ様。あなたはもう自由だ。長らく縛っていた鳥籠も鎖も、もうありません。高く羽ばたいて、美しい音を響かせて、新しい世を呼ぶと言われている伝説の紫雲を呼び寄せてくれました。誰かの手駒なんかじゃない。真のあなたの価値に見合った座が、そうなのです」
カケルの言葉は、コトリについていた重りを一つひとつ外していくものだった。どんどん身体が軽くなっていく。羽が生えたかのように。
「カケル様、ありがとうございます」
「いえ。そんな方の夫になれる私は、もしかすると、この世で一番幸せなのですから」
「え、私よりも?」
「そうです」
二人して笑うと目尻に涙が溜まった。カケルは、咄嗟にコトリのそれを吸い取って、頬と頬をくっつける。
「帰りましょう。私達の国に」
「はい」
そうして二人はシェンシャンを持ち、帰り支度をした上で、再び気配を殺すのである。見張りや、城内の兵はまだまだ昏睡しているうちに、早く脱出せねばならない。二人は連れ立って小走りに石の廊下を駆け抜けていく。
そこへ、急に大きな声がした。
「いたぞ!」
カケルが声の方を見る。
「ラピス!」
ラピスは、コトリも知っているヨロズ屋の職人だ。彼もまた、こんな遠くまで助けに来てくれたのかと思うと、胸がじんわりと熱くなる。
しかし、次に離れた言葉は、二人の期待を大きく裏切るものだった。
「琴姫とソラ王はここだ! 早く捕らえろ!」
ラピスの言葉に呼応して、一気に押し寄せてくる帝国兵。鎧が揺れる金属音と硬質な足音が地面の揺れを伴って迫ってくる。
「ラピス、お前、いったい何者なんだ?!」
カケルにも何が起こったのか分からない。しかし、いきなりの帝国への寝返りを問いただしている暇はなかった。帝国兵の集団はもう、目の前なのである。コトリも、恐れをなしてカケルにしがみついていた。
「こうなったら、アレを使うしかないか。ちょっと派手なことをするけど、我慢してくれ」
カケルはコトリの前であっても、感情が高ぶると言葉遣いが荒れるらしい。腕輪の一つを取り外すと、それを地面に叩きつける。たちまち、白い煙があがって、辺りの空気が凍りついたように見えた。
「コトリ、今のうちに!」
カケルがコトリの手を引いて走り出す。兵で埋まった廊下はもう使えないので、低木と花壇が連なる庭を抜ける形だ。神気を大量に動かしているのか、コトリの目には景色が霞んで見えている。
カケルは、必死に悔しさに耐えていた。ラピスは自分が拾って育ててきた初めての愛弟子。これまでも、数々の無茶振りに応えてきてくれた、息のあった相棒の一人でもあった。その忠誠心と絆は本物だと思っていたのに、なぜ――――。
けれど、ぼんやりもしていられない。煙で一度倒れてしまった兵達が、もう起き上がり始めているではないか。逃げきらないことには、二人の未来は無きも等しいのに。
庭の中にある柵を乗り越えた時、カケルは少しだけ背後を振り返った。ラピスと目が合う。その口元が「親方、ごめん」と動いたのが見えた。カケルは、コトリの手を強く握る。泣きそうなのは、悟られたくなかった。
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