琴姫の奏では紫雲を呼ぶ

山下真響

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155解き放つ

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「コトリ様」

 その秀麗な出で立ちに、コトリの心臓は止まりそうになる。

 その人物の格好は、窓から見下ろした街にいる民のような異国風のもの。だが、精悍な顔立ちは完全に記憶通り、ヨロズ屋の主人なのである。

「あなた、紫の一員として、こんなところまで来てくださったの?」

 まさか、彼だとは思っていなかった。ヨロズ屋には商売柄、移動も慣れているだろうし、人脈も見込まれる。コトリの捜索に手を割いてくれてるかもしれないとは思っていたが、単身こんな城にまで乗り込んでくるなんて。

 コトリは、柵まで駆け寄った。ここまで来ると、見張りの男が深く眠り込んでいることが分かる。きっと神具によるものなのだろう。

「いえ、個人的な理由がありまして」

 ソウは、挙動不審なコトリに、とろけるような笑みを向けている。ただの安堵だけではない、別の何かをたたえているのだ。

 すると、急にコトリの胸元が熱くなり始めた。驚いて手をやると、そこにはカケルから貰った赤い石があって、光を発している。

「ちゃんと、持ってくださっていて良かった」

 はっとして顔を上げると、ソウも胸元から光る石を取り出してきた。それは、青く輝いている。

「この二つの石は対になっています。国の礎を削り取ったものでもあるのですよ。これらは、大昔、一つの石でもありました。故に、引き合ってしまうのです」
「え、どういう……? これは、ソラの王様からいただいた大切なもので、なぜあなたが」

 コトリは訳が分からず、上手く言葉にならない。話の内容もそうだが、以前ヨロズ屋の屋上で共に甘味を食べた時のような、ふんわりとした空気になってしまうのだ。ずっと張り詰めていた緊張が解けて、優しく壊れてしまいそうな。まだ助かったわけではないのだから、気を抜いてはいけないのに。そんな不安に、心が塗りつぶされてしまう。

 すると、ソウはコトリのすぐ目の前までやってきて、片膝をついて彼女を見上げた。

「まずは、謝罪させてください。そして、どうか許してください」

 そして、手妻のように、どこからか取り出してきた一枚の紙を掲げるようにしてコトリへ差し出す。

「私と、名の交換をしていただけませんか?」
 
 コトリは、それを柵越しに見つめて、息を呑んだ。そこに合ったのは、クレナとソラの古語で書かれた文字。

『架瑠』

 コトリの知識では、こう読めるはずだ。

「カケル……様?」

 目の前にいる人物の名は、ソウのはず。しかし、カケル。そして、紙と続けざまに出された筆。その端には青、紫、黒、銀の色を使った組紐がぶら下がっていて、ご丁寧にソラ王家の紋章が入った金の飾りもついている。さらには、不思議な光る青い石。

「本当に、カケル様?」

 コトリは、ついに自分の気が触れてしまって、幻想を見ているのか、死ぬ直前の走馬灯として願望の世界を覗き見ているのではないかと思った。

 名の交換は、普通、女から申し出るものだ。それを男であり、一国の王である人物がするなんて。

 しかも、長年身を焦がすように想い続けてきた人からなされているのだ。

 現実味が、全く無い。

「これは、夢?」

 もはやコトリの声は蝋燭の灯りのような儚さで、うわ言に近い。彼女が倒れてしまうのではないかと思ったカケルは、柵越しにコトリの手を取った。

「ずっと、ずっと、お慕いしておりました。あまりにも愛しくて、たまらなくて、クレナの商人になりすましたのが十年前です。あなたを一目見たくて、神具師としての腕を磨き、王宮の侍女であるサヨ様に近づきました。そして運良く、あなたのシェンシャンを創らせてもらえただけでも、この上ない幸運でしたが、もう我慢できません」

 コトリは、未だ信じられない気持ちで相対する男の顔を見つめる。ずっと被り布で見えなかったその人が、素顔を晒している。さらには、火傷しそうなぐらい熱い視線を向けられている。コトリ自身も、そうだ。今、二人の間にあるのは帝国が用意した、目の前の重々しい柵だけ。

「名を、いただけませんでしょうか。どうか、我が妻に」

 カケルは懇願するように声を絞り、そっと祈るようにして目を伏せる。

 突然、牢の窓から白い光が差し込み始めた。空に晴れ間が出てきたらしい。それが、舞台の上の照明のようにして、二人の手元に注がれる。

 コトリは、紙と筆を受け取った。

 瞬時、今まで彼の正体に気づけなかった悔しさや恥ずかしさなど、様々な事が頭をよぎったが、もう全てどうでも良い。

 絶体絶命の孤独や死にも近い境地を前に、颯爽と現れた愛する人。他には誰も来てくれないぐらい、故郷から遠く離れた地にまで、ちゃんと迎えにきてくれた。何より、心からの言葉をくれて、行動で示してくれた。

 それに報いたい。
 長年育ててきた自身の想いを今、解き放つ時。

 筆が記す。

『琴璃』
 
 二人の名が紙の上に並んだ。
 カケルが極上の笑みを浮かべる。

「私は貴方の名を支配して、貴方は私の名を支配して、二人は二人の時を支配する。死が二人を分かちても神の下、共に在らんことを誓います」

 カケルは、言葉と共に、神具らしき腕輪の一つを発動させ、二人を隔てる柵に力を加えていった。牢の見張りの話では、国の名にもなっているアダマンタイトという特殊金属が使われているという堅牢な柵が、ものの見事に柔らかくなり、カケルの手に押されて、しなっていく。コトリは、呆気にとられて眺めていることしかできない。
 やがて、柵の間隔が広がって、コトリが抜け出せるぐらいの隙間ができた。

 コトリは名をしたためた紙をカケルに差し出し、大きく頷く。通常、この後は紙を燃やして、灰を互いに持っておくものである。しかし、カケルは別の方法を考えていた。

「私達の場合は、こうしましょう。ほら、もっと近づいて」

 二人の肘が触れそうになるほど近づくと、互いの胸元にある赤と青の光が真ん中で重なり合い、そこだけ紫色になる。カケルは、そこに折り畳んだ名の紙をかざすと、たちまち紙は消えてなくなってしまった。

「これで、お互いの名は、お互いの石に入ります」

 カケルが拘りに拘りに抜いて用意していた仕掛けだった。

「これで私、カケル様と」

 コトリは感極まって、すすり泣きにも近くなっている。身分を捨ててさえ、この人のものになりたかった。それが、ついに叶えられるのだ。

「そうだよ。もう、大丈夫。誰にもやらない。コトリは俺のものだ」

 カケルは筆を片付けると、コトリをそっと抱き寄せた。コトリも、ピタリとカケルに寄り添う。カケルの上衣、大きく空いた襟ぐりから出る、頼もしい鎖骨に、コツンと額をつけると、どこか落ち着く匂いがした。

 たちまちコトリは、自分が現実の世界に在るということ、カケルと共に居るということを実感する。こんなに幸せなことが存在するなんて、知らなかった。

「カケル様、ありがとうございます。私も、ずっと、ずっと、好きでした。これからも、ずっと、ずっと」

 コトリの胸元の石のように、顔を赤らめるカケルは、酔いそうなほどの色気と喜びで溢れている。それを、花を背負っているかのような華やかな愛らしさをもって見つめ返すコトリ。暗黒の地獄の闇が晴れて、神のおわす白い世界にやってきたかのよう。

 どちらからともなく、二人の顔が近づいていって――――。

 合わさる二人の合間から、さらに強い紫の光が眩いばかりに輝き始めた。

 雨の音は、もうしない。

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