琴姫の奏では紫雲を呼ぶ

山下真響

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137嵐の予兆

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 コトリが忽然と姿を消した翌日の午前。前日あれ程集まっていた貴族達もそれぞれの屋敷に帰り、後片付けに追われていた侍女や侍従達の姿もまばらになり、王宮は再び静けさを取り戻しつつあった。

 そんな敷地の奥にある、正妃の宮では、庭を望む雅な造りの部屋で茶会が催されている。

「私は今も冷静だ」

 王の荒げた声が、誰もいない庭に空しく響く。

 昨日まで、今こそ満開とばかりに咲き誇っていた桜が、はらりはらりと散り始めていた。枝を離れた花びらは、朝が降った通り雨に濡れ、地面の上で汚くなっている。

「真に落ち着いらっしゃる方は、そのようなことをおっしゃったりはいたしません」

 王は、向かい側に座して、ゆったりと構える正妃を睨んだ。日付を跨いでもなお不機嫌な王は、幼子をあやすかのような声音が耳に障るらしい。

 こうなることは彼も分かっていただろうに、なぜのこのことやって来たのか。おそらくは王の中にある寂しさや孤独が、正妃に母性の片鱗を求めてしまうのだろう。しかし、王がそれを認めることは生涯無いと思われる。

 そもそも王は、自身の妻たる妃達は、飾りぐらいのものにしか思っていない。配下の貴族の娘達が羨むだけの、そこそこの贅沢はさせるが、何か意見してほしいだとは考えていないし、頼りにもしていない。自身の体裁を整える道具でしかないのだ。そして、道具のことは知り尽くし、使いこなせていると思い込んでいる。

 なのに、最近の正妃はますます、知らない女に成り下がっているように見えた。同じように歳を重ねているはずなのに、自身は目が窪み、毛が白くなって、多量に抜ける日もある。肌艶も失くし、ボロを纏えば浮浪者にでもなれそうだ。一方相手は、たとえ裸にしてもその高貴で色っぽい気風は変わらずそこにあるのだろう。そう思えるぐらい、そこにただ在るだけで気圧されるような勢いがある。

 気にくわない。
 何もかもが気にくわない。

 前日の園遊会。なけなしの金を配り、決してコトリの派閥に票が入らないように手筈を整えていたはずだったのだ。それだけではない。言うことをきかなければ、現在の地位を奪うと脅しまでしていた。ハナとかいう娘も、コトリの気を削ぐことに成功しているとの報せが入っていたというのに。

 結果は無残であった。

 会がお開きになった後、個別に金を渡した貴族達を呼び出すも、全て無視される始末。ひとまず式部省の長官の権限をとりあげて、裏切り者の貴族達を庶民に落とそうと試みたが、文官長であるサトリにいろいろと言いくるめられて実現できていない。

 では、武力行使だと考えてマツリを呼び出そうとすれば、もう香山へ向かったというではないか。あそこは王の名の下、新たな社の建設が始まっている。サトリもマツリも、立派な社を建立すれば、王である彼がこの世を去った後も、永く人々がその名を忘れず、感謝し、英雄視し続けると話している。そう言われてしまえば、やみくもにマツリの足を止めることもできなかった。

 いつから、こんな国になってしまったのだろうか。なぜ、自分はこんな目に遭わなければならないのだろうか。

 自問自答を続けていると、正妃の侍女が菓子を運んできた。帝国の使者が土産として持ってきたもので、既に毒見は済んでいるらしい。粉っ気の強い、焼き菓子だ。味は濃厚で、贅沢な異国風の甘みが口の中に広がっていく。

「帝国の使者達はもうお帰りになったとか」

 正妃が話しかけてきた。

「そうだ」

 余計な事は話したくはない。王はつっと正妃から目線を逸らした。

 あれは、王が香山の関から都へ向かって発つ際に、文を出して呼び寄せた一団だった。コトリとの約束では、園遊会が決戦の場となる。あの真面目な娘のことだ。園遊会前後はシェンシャンのことしか考えておらぬだろう。そこにきっと隙ができる。ならば、それを利用するまでだった。

 園遊会では、コトリに対する恨みが募り、彼女を敗北させることに拘ってしまったが、実際は結果などどうでも良かったのだ。首席になろうと、なるまいと、王が為すことは初めから決まっていたのだから。

 正妃は、王が纏う雰囲気が幾分変わったことに気がついた。急に機嫌が直るなど、ただ事ではない。そして、大抵、彼女の悪い予感は当たってしまうのだ。

「それにしても、帝国の方の後押しもありまして、あの子が首席になりましたね。つまり、あなたとの約束を守ったのです。私は、あの子を自由にした、ということになりますが、怒っておいでではないのですか?」

 常であれば、今頃王は剣を正妃に向かって振り上げていてもおかしくはない。何せ、ここまで彼の邪魔建てをしてしまったのは初めてのこと。園遊会でも夫婦喧嘩のようなものをして、恥をかかせてしまった。故に、この茶会では何等かの制裁が加えられることを覚悟をしていたのだ。なのに、今の王は、不気味な程に凪いだ表情をしている。

「自由に、した、だと?」

 ふと、王が嗤った。皺の上に皺が乗りかかって、酷く醜い顔。悪の手先、そのもののよう。

「誰が、そんなことを許した? あやつが、自由に? 今頃、手籠めにされて、帝国へ向かっておるわ」

 王が高笑いを始める。その瞬間、辺りが急激に冷え込んで、下から上へ吹雪く様な風が舞い上がり、王の背後にある桜へ向かって勢いよく通り抜ける。柔らかな花びらが一気にしなびて落ちていった。残ったのは、厳めしい枝だけの老木。

 正妃の顔は、血の気を失くして白くなった。

 空も再び暗くなり、黒雲が王宮の上へ押し寄せてくる。
 ぽたり。ぽたりと降りてくる、誰かの涙ような雨雫。遠雷が轟いている。

 嵐の予兆だった。

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