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92天上の喜び
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カケルが去った後の鳴紡殿は、一時騒然となった。カケルの言動は、コトリ以外の楽師に興味が無いというものだったからだ。
カケルの前では、しおらしく振る舞っていた女達の化けの皮が剥がれる。
「王子に見初められたからって、いい気にならないことね」
「あの曲は自作したのかしら? やたらと耳につく、嫌な旋律だったわ」
「新人が目立とうとするなんて、十年早いのに!」
カケルが手をとったのが、アオイやハナならばこうはならなかっただろう。しかし選ばれたのは、入団して一年も経たない新人で、遠征にも行けなかった落ちこぼれ。憤るのも無理はない。
そこへ、アオイが立ち上がり、手を叩いて注目を集めた。
「静まりなさい。まだ、かのお方は敷地内にいらっしゃるかもしれませんよ」
途端に大人しくなる楽師達。そこへハナも立ち上がる。
「皆様、興奮なさらないで。おそらく此度のお話は、政治的な取引の一環なのでしょう。王子も本気で楽師を引き抜くつもりではなかったのだと思われます。きっと角が立たないように、一番最後に奏でた者へ声をかけたにすぎません」
すると、そういうことだったのかという呟きが広がり、広間の空気が徐々に和らいでいった。
「だいたい、私達、由緒正しきクレナ国の楽師が、ソラごときに飼われるなど不名誉なこと。誰も連れて行かれずに済んで、本当に良かったですわ」
二位であるハナの言葉は重く、日頃から尊重されているものである。楽師達は、すっかりいつもの穏やかさに戻り、その場は自然解散となった。
「カナデ様、お話が」
サヨがコトリに耳打ちする。コトリは、落ち着かない様子で頷き、連れ立ってシェンシャン練習用の御簾が下がった一角へ移動した。
「まずは、おめでとうございます」
それまで、他の楽師の目を気にして取りすましていたサヨが相好を崩す。
「王子から選ばれましたね」
「えぇ。しかも、名を呼ばれました」
コトリはまだ夢見心地だ。カケルが鳴紡殿にやってきて、その姿を見ることができただけでも奇跡なのに、コトリの手を握り、ソラへ連れ帰りたい意思を伝えられたのだ。それも、コトリ本人だと知った上でのことなのである。
「あの選曲は、よろしゅうございました」
「咄嗟に思いついたのよ。どうしても私がここにいるって気づいてもらいたくて。でも……」
コトリの顔が少し曇る。カケルは意思こそあれ、実際にはコトリを連れ出すことができなかった。邪魔建てする者、ワタリの存在があったからである。
「元気を出してください。確か、王子は、『今回は見送る』『他の楽師は要らぬ』と仰せでした。いずれ機会を見て、迎えに来てくださるはずです」
王女が身分を隠して楽師団に在席している様子は、かなり奇異に映ったであろう、とサヨは考える。そしてワタリのあの態度。今のコトリが置かれた窮状は、カケルにも伝わったと思いたい。
「そうね。お姿を拝見して、お言葉を頂戴して、手まで握っていただいて……。私は、信じて待つことにするわ」
望んでいたことが突然叶えられて、コトリはまだ頭がくらくらしている。こんなにも良い事が起こると、次は最悪なことが降りかかってくるのではないかと心配になる程に。
カケルの顔は相変わらずの被り布で見えなかったが、その洗練された所作はコトリの心を掴んで離さない。そして、優しい声も耳心地が良く、しっとりと乾いた心を潤してくれるのである。と同時に、どこか既視感も残るのであった。
誰かに似ている。
コトリは、ふとヨロズ屋のソウの事を思い出していた。
そうだ、この興奮を誰かに伝えたい。以前、想い人の話を聞いてくれたソウには、今日の日の事を是非とも報告すべきだろう。
コトリはいそいそと部屋に戻ると、文机に向かった。愛する人に会えたこと、その人がソラへ連れて行ってくれるかもしれないことなどを、女らしい美麗な文字でしたためていく。
カケルが来ると聞いた時は、期待半分、不安半分だった。もしかすると、以前ハナから聞いた話の通り、カケルはアオイを迎えにくる可能性が高かったからだ。
けれど、コトリが選ばれた。
もうこれは、天上の喜び。
コトリが奏でを通してカケルに語りかけ、カケルがそれに応えた。実質的に、想いが届いたことになる。
頬が上がったまま下りてこない。どこまでもこみ上げてくる嬉しさを、ソウ宛の文に書き散らしたコトリだった。
◇
その頃、香山の関は、物々しい雰囲気に包まれていた。
「どうしてソラへ通してくれないんだい?」
関所の衛士に突っかかっているのは、旅芸人の一座に属する一人の女。長い緑がかった髪は複雑に編み込まれて、腰のあたりまで垂らされている。衣もどこか派手で、見るものが気圧されてしまうような気風がある。
「シェンシャン奏者は通さない事になっているのだ」
身の丈よりも長い槍を持った衛士は、女の剣幕にたじろぎながらも言い返す。それでも女は諦めなかった。
「なんだってそんな事になってるんだよ?」
「王のご意向だ」
ソラへ奏者を通してしまうと、ソラを喜ばせるだけなので通さぬよう命令されていたのだ。
「じゃぁ、シェンシャンをここに置いていけばいいのかい? 最近、クレナはどこも景気が悪くてね。こんな国で芸を見せたところで、全然稼げないのさ。早くソラへ行かせてくれないと、あたし達まで死んじまうよ」
しかし、いくら言い募っても、関は旅芸人達を通さない。非番だった衛士までやってきて、徹底的に追い返されてしまったのだった。
カケルの前では、しおらしく振る舞っていた女達の化けの皮が剥がれる。
「王子に見初められたからって、いい気にならないことね」
「あの曲は自作したのかしら? やたらと耳につく、嫌な旋律だったわ」
「新人が目立とうとするなんて、十年早いのに!」
カケルが手をとったのが、アオイやハナならばこうはならなかっただろう。しかし選ばれたのは、入団して一年も経たない新人で、遠征にも行けなかった落ちこぼれ。憤るのも無理はない。
そこへ、アオイが立ち上がり、手を叩いて注目を集めた。
「静まりなさい。まだ、かのお方は敷地内にいらっしゃるかもしれませんよ」
途端に大人しくなる楽師達。そこへハナも立ち上がる。
「皆様、興奮なさらないで。おそらく此度のお話は、政治的な取引の一環なのでしょう。王子も本気で楽師を引き抜くつもりではなかったのだと思われます。きっと角が立たないように、一番最後に奏でた者へ声をかけたにすぎません」
すると、そういうことだったのかという呟きが広がり、広間の空気が徐々に和らいでいった。
「だいたい、私達、由緒正しきクレナ国の楽師が、ソラごときに飼われるなど不名誉なこと。誰も連れて行かれずに済んで、本当に良かったですわ」
二位であるハナの言葉は重く、日頃から尊重されているものである。楽師達は、すっかりいつもの穏やかさに戻り、その場は自然解散となった。
「カナデ様、お話が」
サヨがコトリに耳打ちする。コトリは、落ち着かない様子で頷き、連れ立ってシェンシャン練習用の御簾が下がった一角へ移動した。
「まずは、おめでとうございます」
それまで、他の楽師の目を気にして取りすましていたサヨが相好を崩す。
「王子から選ばれましたね」
「えぇ。しかも、名を呼ばれました」
コトリはまだ夢見心地だ。カケルが鳴紡殿にやってきて、その姿を見ることができただけでも奇跡なのに、コトリの手を握り、ソラへ連れ帰りたい意思を伝えられたのだ。それも、コトリ本人だと知った上でのことなのである。
「あの選曲は、よろしゅうございました」
「咄嗟に思いついたのよ。どうしても私がここにいるって気づいてもらいたくて。でも……」
コトリの顔が少し曇る。カケルは意思こそあれ、実際にはコトリを連れ出すことができなかった。邪魔建てする者、ワタリの存在があったからである。
「元気を出してください。確か、王子は、『今回は見送る』『他の楽師は要らぬ』と仰せでした。いずれ機会を見て、迎えに来てくださるはずです」
王女が身分を隠して楽師団に在席している様子は、かなり奇異に映ったであろう、とサヨは考える。そしてワタリのあの態度。今のコトリが置かれた窮状は、カケルにも伝わったと思いたい。
「そうね。お姿を拝見して、お言葉を頂戴して、手まで握っていただいて……。私は、信じて待つことにするわ」
望んでいたことが突然叶えられて、コトリはまだ頭がくらくらしている。こんなにも良い事が起こると、次は最悪なことが降りかかってくるのではないかと心配になる程に。
カケルの顔は相変わらずの被り布で見えなかったが、その洗練された所作はコトリの心を掴んで離さない。そして、優しい声も耳心地が良く、しっとりと乾いた心を潤してくれるのである。と同時に、どこか既視感も残るのであった。
誰かに似ている。
コトリは、ふとヨロズ屋のソウの事を思い出していた。
そうだ、この興奮を誰かに伝えたい。以前、想い人の話を聞いてくれたソウには、今日の日の事を是非とも報告すべきだろう。
コトリはいそいそと部屋に戻ると、文机に向かった。愛する人に会えたこと、その人がソラへ連れて行ってくれるかもしれないことなどを、女らしい美麗な文字でしたためていく。
カケルが来ると聞いた時は、期待半分、不安半分だった。もしかすると、以前ハナから聞いた話の通り、カケルはアオイを迎えにくる可能性が高かったからだ。
けれど、コトリが選ばれた。
もうこれは、天上の喜び。
コトリが奏でを通してカケルに語りかけ、カケルがそれに応えた。実質的に、想いが届いたことになる。
頬が上がったまま下りてこない。どこまでもこみ上げてくる嬉しさを、ソウ宛の文に書き散らしたコトリだった。
◇
その頃、香山の関は、物々しい雰囲気に包まれていた。
「どうしてソラへ通してくれないんだい?」
関所の衛士に突っかかっているのは、旅芸人の一座に属する一人の女。長い緑がかった髪は複雑に編み込まれて、腰のあたりまで垂らされている。衣もどこか派手で、見るものが気圧されてしまうような気風がある。
「シェンシャン奏者は通さない事になっているのだ」
身の丈よりも長い槍を持った衛士は、女の剣幕にたじろぎながらも言い返す。それでも女は諦めなかった。
「なんだってそんな事になってるんだよ?」
「王のご意向だ」
ソラへ奏者を通してしまうと、ソラを喜ばせるだけなので通さぬよう命令されていたのだ。
「じゃぁ、シェンシャンをここに置いていけばいいのかい? 最近、クレナはどこも景気が悪くてね。こんな国で芸を見せたところで、全然稼げないのさ。早くソラへ行かせてくれないと、あたし達まで死んじまうよ」
しかし、いくら言い募っても、関は旅芸人達を通さない。非番だった衛士までやってきて、徹底的に追い返されてしまったのだった。
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