琴姫の奏では紫雲を呼ぶ

山下真響

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80恋愛演習

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 時間は少し遡って、コトリがヨロズ屋から戻った頃。サヨは先に鳴紡殿の部屋へ帰ってきていた。庭の方を向き、反物の端切れに刺繍をしている。その横顔はどこか鬼気迫ったものがあり、コトリは声をかけていいものかどうか躊躇われたが、しばらくするとサヨがふと気づいたように顔を上げた。

「あ、おかえりなさいませ」

 慌てて刺繍道具を片付けるその背中も、なぜだかいつもと違って見える。そもそも刺繍だって、サヨは好んで日頃からしているわけではないのだ。もうそれは、何かありましたと言っているようなものだった。

「サヨ、大丈夫?」

 何があったのかは気になる。サヨと会っていたのはコトリの兄で、マツリだ。もし、コトリに関係することで悪いことがあったならば、こんな様子にはならないであろう。きっとすぐに報告してくれる。となると、サヨ個人の問題として、想定外の事が起きたのだろう。つまり、元主としてのコトリには、無理に問い正すことができないのである。もしするとなれば、きっとそれは命令として受け止められてしまう。

 サヨは、少し考える素振りをすると、こう答えた。

「おそらくは」

 曖昧な態度に、コトリはどう出るべきか悩んでしまった。

「私にできることはあるかしら? 兄上に何か言われたり、されたりしたの?」
「いえ。マツリ様もお元気そうでしたし、宮中の噂話も聞けましたから、実りある時間でした」
「そう」

 サヨは肝心の事を明かすつもりがないのである。コトリは一瞬唇を噛み締めた後、サヨに向かって一枚の木簡を差し出す。

「これ、届いていたわ」
「すみません、見落としていました」

 部屋の入口に立てかけられていたもの。サヨは余程注意が散漫になっていたのか、気づいていなかったらしい。内容は、ミズキからサヨに向けた伝言である。今夜会いたいというものだ。

「サヨ、ミズキ様とお茶でもすれば気が晴れるのではなくて? 彼女、明るい方だし」

 コトリは努めて明るい声を出したが、サヨの表情は冴えないままだった。

「カナデ様。では、すみませんが、これから出かけてきます。彼女、少し前に、街の方へ行きたいと言ってましたから、その付添の誘いかと思います」
「あら、そうなの。サヨならば、いろいろなお店で顔が効くでしょうし、ミズキ様もお買い物がしやすくなるでしょうね」
「えぇ」

 なぜか視線を合わせてくれないサヨに、コトリは心が折れそうだった。しかし、友だと思ってくれている事は確かなのだ。きっと時期が来れば、何に悩んでいて、何を隠しているのか、教えてくれるにちがいない。コトリはそう信じつつ、サヨをミズキの部屋へ見送った。


 ◇


 サヨとミズキは、ソラ遠征へ行ってからというもの、ますます痴話喧嘩のようなものをするようになっていた。

「へぇ。じゃ、見透かされたってことか。そりゃぁ、いいな」
「全然良くありません! 完全なる誤解なのに!」
「そう思いたいだけだろう? 素直に俺がいると言えば良いじゃないか」
「馬鹿も休み休みにしてください。いつ、私があなたのような人と……」
「そうだな。俺のような女のフリしてる下賤な男と寝所を共にしていたなんて、相手が王子じゃなくたって言えやしないだろう」

 男の姿をしたミズキは、サヨの細腕を掴んで自らに引き寄せる。サヨの抵抗は少ない。

「そもそも、そういう間柄じゃありません。あれは事故であり、あなたの正体がバレないように私が我慢してさしあげていただけであって」

 ミズキの動きが止まった。サヨは、不穏な空気を感じて、おそるおそる視線をあげる。ミズキの中性的な美しい顔が、すぐ目の前にあった。

「そうか、そうか。あんなことをしてまで白を切るならば、この際はっきりと言っておこう」

 女の格好している時の、取り繕ったような甲高い声は、そこにない。その低い声は、サヨが彼の地雷を踏み抜いたことを意味していた。

「お前が貴族だとか、王女の友達だとか関係ない。お前は既に、俺のものだ」

 あまりにも自信をもって言うものだから、サヨはすぐに理解することができない。

「頭でも打ったの?」

 ミズキは、サヨを抱きしめる。遠征中は、あの寝台を共にした夜から毎晩のようにされてきたことだ。初めこそ恥らって拒絶していたサヨも、諦めたのか慣れたのか、もはや抗おうとはしない。初めから、そこが自らの居場所のようにおさまって、ミズキの腕に囚われているのである。それは、洗脳にも近い訓練的な恋愛演習だ。

「そうだな。お嬢さんは、すぐに靡かないのも良いところだよ」
「あなたは、菖蒲殿の娘を甘く見すぎているわ」
「俺はただ、ここにサヨがいるっていう実感が欲しいだけだよ」

 ミズキは自嘲的にそう言うと、ようやく本題を切り出した。ヨロズ屋の仲介で、ソラの暁という組織と手を組む件である。初会合が行われる今夜、サヨにも同席を願ったのであった。

 彼らは、クレナにとって国家転覆を図る組織。できれば関わり合いにならない方が良いのだが、コトリのことを思うと一枚噛まざるを得なくなる。コトリの味方は未だに少ない。王宮にも、楽師団にも、それを求めることができないならば、外部で力をもつしか道はないのだ。そして、その力は必ずや、自由を得るための切り札になる。

「分かったわ。以前からあなた方とは一度顔合わせした方が良いという話でしたものね。でも、場所は私に指定させてちょうだい。王の犬に嗅ぎつけられても、言い逃れができる場所があるわ」
「それはありがたい。後、飯の用意も頼む。とある高貴なお方も来る予定だからな」

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