琴姫の奏では紫雲を呼ぶ

山下真響

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76屋上で

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 三日後、コトリは意気揚々とヨロズ屋へ向かった。店に着くと、店主であるソウが直々に出迎えて、すぐに奥の部屋へと導かれていく。こっそりと付いてきていた護衛達も、そこまでは入っていくことができなった。

 貴族向けと思しきその部屋に入るのは、もう何度目かになる。コトリは、すぐに椅子にかけようとしたが、カケルはコトリの手を引いたまま、壁際の屏風を少し移動させた。すると、人が一人通れるぐらいの木戸が現れる。

「隠し扉なのですね」

 コトリが言うと、カケルは小さく頷いた。
 戸の向こう側にある幅の狭い階段を上がっていくと、やがて視界が開けて外に出る。屋上だ。まるで屋根の上に登ったかのような景色に、コトリは目を丸くする。

「高い所は苦手ですか?」

 カケルの問に、コトリはかぶりをふった。
 周囲は背の高さ程まで瓦屋根があるので、実際には地面が見えているわけではなく、あまり高さは感じられないのだ。ただ、往来の喧騒はしっかりと耳に届いている。

「いいえ。ただ、こんな街中で空をゆっくりと見上げられる場所があることが不思議で」

 通常、クレナの建物には屋上が無い。ヨロズ屋も傍目には他と同じなのだが、瓦に覆われた一段高い屋根に囲まれた中庭的な屋上を設けている。ソラでは、時折見られる形式だ。お陰で、今日のような秋晴れの日には、開放的な場所での密会が叶うのである。

 コトリとカケルは、一画に敷かれた布の上に腰を下ろした。そこに座卓があり、その上には橘子があるからだ。微妙な間を空けて座る二人は、揃って無言。既に、帰国や留守を労い、体調を厭って、無事を喜ぶ定型的な挨拶は済ませている。ようやく会えたのだから、すぐに本題を切り出せばよいものの、妙な緊張感に包まれている。

 一方で、何も話さずとも二人で居るというだけで、どこか心地の良い空間でもあるのだ。できるだけコトリを店に引き留めておきたいカケルは、時折横目でコトリを盗み見しながら、千切れ雲の数を無意味に数えている。それ故、口火を切ったのはコトリの方だった。

「あの、実は一つお願いがあるのです」
「いいですよ」

 コトリの願いならば何でも叶えたいカケル。コトリは、用件を聞く前にも関わらず快諾されたことに小さく笑うと、持ってきたシェンシャンを差し出した。

「ずっとお借りしているこのシェンシャンですが、最近酷使してしまっているからなのか、少し音がブレるようになってしまって……」

 カケルはすぐさま受け取って、シェンシャンを水平にしたまま少し持ち上げた。

「弦が僅かに柱へ当たってしまっているのかもしれませんね。あ、少し棹が反っているようです。山口をもうちょっと高さのあるものに交換してみましょう」
「大切なシェンシャンを歪めてしまってごめんなさい……」
「楽器は気候などに影響されやすいですし、よくあることですよ。カナデ様は悪くありませんので、気にしないでください」

 コトリは、取り返しのつかない壊れ方をしていないことが分かって、ほっとしている。カケルはにっこりすると、一度シェンシャンを袋の中に片付けた。

「それに、以前のシェンシャンの修理が終わりましたから、今日はお持ち帰りいただけますよ」

 しかし、コトリの顔は冴えない。

「どうかされましたか?」

 すると、コトリからは驚愕の事実がもたらされたのだ。
 まず、このシェンシャンには音の神ではなく恋の神が降りていて、神気が見えるようにされてしまったということ。そして、神に名づけまでしてしまったということだ。

 カケルは、恋愛成就を祈るばかり、若気の至りで例外的に変なことをしてしまっていたのを思い出す。途端に赤面して何か言い訳しようとしたが、しどろもどろになってしまった。その様子をコトリは優し気な笑顔で見守る。

「ソウ様もお慕いされている方がいらっしゃるのですね。その方ではなく、私が使ってしまったことも、申し訳なく思います」
「いや、そうではなくて」
「お気持ちは分かりますよ。私も、もし自分で神具を作れたならば、恋の神を降ろして好きな人に贈っていたと思います。ただ……私の場合は父親が厳格な人なので、あの方と連絡をとることすら禁じられていますから、どの道叶わぬことかもしれませんが」

 カケルは、今日こそ身分を明かし、想いを伝えようと考えていた。けれど、これでは雲行きが怪しいどころか、不戦敗しそうな雰囲気である。

 しかし、転んでもただでは起きないのがカケルだ。何とか取り繕うと、あらかじめ用意してあった朱塗りの木箱を出してきた。

「カナデ様がご入用の神具は、全て私が作ります。いや、作らせてください。手始めに、お約束のものをお渡ししますね」

 カケルは箱の蓋を開けて、中身をコトリに見せる。

「神気の色を見る神具です。演奏の際に傍へ置いても良し、シェンシャンの胴に張り付けても良しです。カナデ様はもう神気が見れるようになってしまわれたようですが、サヨ様などと練習される折にはお役に立てるかと思います」

 それは、地方の社で御神体とされている鏡にも似た金属製の薄い小さな板であった。細かな装飾がなされた涙型をしたそれは、女ならば誰もが愛らしく思えるであろう趣がある。色は、その板に嵌めこまれた丸く白っぽい石が変化することで示されることになるらしい。

「どうもありがとうございます。神具というよりも、高価な装飾品のようです」

 コトリの満面の笑みが見られて、カケルも意匠まで拘ったかいがあったと嬉しくなる。

「では、お代は……」
「結構です」

 カケルはぴしゃりと言う。

「でも……」
「これは、私からカナデ様への贈り物ですから。確か、もうすぐ十七回目の誕辰をお迎えになりますよね」
「なぜそれを」
「以前サヨ様に伺いましたので」

 というのは実は嘘で、前々から知っていたことなのだが、カケルは黙っておく。コトリは素直に受け取ってよいものか迷っていたが、あまりにも好みに合っていたので、結局は手に取ることにした。

「ずっと大切にします」

 カケルは、その言葉だけで全てが報われた気がした。
 その後は、シェンシャンの話に戻る。

「せっかく仲良くなった神が降りているシェンシャンとお別れするのは、寂しくもあります。でも、ソウ様も恋の神のククリ様に応援していただくべきですし、予定通りお返ししますね」

 カケルにとっては、弱冠微妙な話ではある。だが、コトリが夏の間ずっと共にしていた楽器を入手できるというのは、良い話でもあったので、ありがたく受け取ることにした。代わりに、修理が完了した元のシェンシャンを手渡す。コトリは早速試奏して、またもやカケルを喜ばせた。最後に、二人で蜜子を食べさせ合いながら他愛のない話をすると、コトリは暗くならないうちにということで鳴紡殿へ帰って行った。





 道に出てコトリを見送ったカケルは、軽い足取りで店の中へと戻っていく。ゴスが近づいてきた。

「ソウ。上手くいったか?」
「また次の機会があるはずだ」
「浮かれていると思いきや、結局言えず仕舞いか。ヘタレが」
「ほっといてくれ」
「とりあえず、その気持ち悪い顔を片付けろ。ユカリ殿がこっちに着いたらしいぞ」
「分かった。一席設けてくれ」
「承知」

 コトリのために、そして自分の想いのためにできることは、まだまだあるはずである。カケルは頬をぱちんと叩くと、改めて気合いを入れなおした。

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