琴姫の奏では紫雲を呼ぶ

山下真響

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68クロガの葛藤

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 再び、カケルが王宮を去った。王子の姿が見えなくなるのはいつものことだが、どこで何をしているのかは関係者以外には漏らしたくない。そういった配慮から、草木も眠る漆黒の闇夜に紛れての出立であった。地味な馬車が下男下女用の通用門から出ていくのを見送る者は誰もいない。しかしクロガだけは、宮の屋根に登り、都大路の彼方へ消えていく仄明るい光の神具をつけたそれを見つめていた。

 思えば、長男王子たるカケルがふらふらと他所ばかりを放浪しているというのに、それについて宰相から全くの咎めが無いというのもおかしな話だ。こうして王宮を出ていくのは昔から黙認されてきたことだが、やはり今のソラ王宮は歪んでいるとクロガは感じるのである。

 ついぞカケル達と思しき光が見えなくなると、クロガは足元の瓦へ静かに手を翳した。瓦からふわりと神気が立ち上る。一瞬それが強く濃密になった後、クロガの脳内に直接、望む景色が流れ込んできた。昼間、通用門にたくさんの荷が出入りしている様子が視える。行き交う人の顔まで分かった。

「上手く行きそうだな」

 瓦の神具の取り扱いについては、カケルから文を通じて知らされたものだ。もちろん重要機密故に、読んだ後は即燃やした。

 王族だけが扱えるよう調整されたこの神具は、その瓦の付近で起こった事が記録されている。数代前の王と当時の王族が力を出し合って手作りしたと言われている傑作で、光の神と時の神、石の神、土の神、風の神など、多くの神が、その特殊な瓦を形作る部分それぞれに降ろされているようだ。

 記録は、そう古くまでは遡れないのだが、数ヶ月以内のことであれば、扱う者からの問いかけの答えを直接頭に映像として見せてくれる。常時屋根裏に隠密を置いているようなものだろう。

 記録に関する神具は、ソラでも一般的には流通していない。制作するのは、知識、素材調達、技術、あらゆる方面でかなり難しく、引退した年寄りの神具師が道楽で数年かけて作れるかどうかといった物である。それが王宮の屋根全てを覆っているというのは、今更ながら凄いことだ。クロガは先人の偉業に舌を巻きつつ、屋根を伝って自室へと戻るのである。

 朝まで遠いこの時間は、涼をとる神具が無くともひんやりとした空気に包まれていた。なのにクロガは、どこか興奮が抑えきれず、寝台で横になる気にはなれなかった。自身も神具師である。良い神具を目にすると、どうしてもそれに感化されてしまう。

 けれど、新たな神具など、なかなか開発することはできない。ふと、兄のことを思った。音の無い溜息をつく。自分にも、あのような発想力の豊かさがあれば良かったのに。

 いや、足りないのは別のものかもしれない。前日の昼間、ゴスと話したことを思い出す。

「なんでゴスは兄上を止めないの?」
「どういう意味だ?」
「コトリ様を追いかけたい気持ちは分からなくもないけれど、最近は少し、不毛な気もしてきたよ。聞けば、兄上はかなり微妙な立場みたいじゃないか。コトリ様には別の想い人がいるというし、勝ち目はあるのかな?」

 ゴスは、一応カケルのお目付け役である。まだ年若い彼が暴走しすぎないように、父である王の差配で任じられた立ち位置だ。本来であれば、いつまでも他国の女にうつつを抜かさず、自国へ戻って落ち着くように諭さねばならぬところ。だがゴスは、それどころか、もっとやれ!と背中を押しているように見える。

 コトリにそれだけの価値があることは、クロガ自身も認めるところだが、ここまでの長期戦ともなると、自分ならば心が折れてしまうだろう。

 ゴスは真面目な顔になった。

「ここだけの話にしてくれ」
「うん」
「俺は、勝ち目うんぬんはどうでもいい。むしろ、負け戦になればなる程、カケルは神具師としての才能をさらに開花させていくんだ。それを間近で見ることができるってのは、正直言ってぞくぞくするな」

 兄カケルは、これまでもコトリのためにと言っては、自身の神具師としての腕を高めてきた。今回土産に貰った見守りの神具も、一つの物に二柱以上の神を同時に降ろすという常識外れな事をやっている。物自体に施された装飾も、熟練の技が光っていた。

「確かに、コトリ様へ想いの強さが、神具師として成長させてくれているのだろうけれど」

 かつて、クロガもコトリを見初めて、彼女を欲しいと思っていたことがあった。なぜならコトリは、神気に愛された存在であり、もし彼女が人ではなく物であったなら、神具向けの最高の素材媒体と成り得ただろうからだ。庇護欲をそそられる愛らしい見目以上に、神具師としては惹きつけられてやまない逸材なのである。

 だが、兄程病的にまで、その魅力に取り憑かれることはなかった。つまり、恋にはならなかったのだ。

 王族である限り、何もしなくとも女は勝手に寄ってくる。クロガもまだ十六歳の身ながら、数え切れぬ程の回数、数多の女共から名の交換をせがまれてきた。けれど、まだ、これだと思える女には出会えていない。もし出会えたならば、兄と同じ視界が見えるようになるのだろうか。

「なぁ、クロガ。言いたいことはだいたい分かる。俺もこの歳まで結局妻帯しなかった。女を相手にしてるぐらいなら、工具の手入れをした方がいい、とぐらいに思ってる。でもな、コトリ様は間違いなく良い女だ。あれで、案外努力家なところがあるしな。どうしてか、俺でも手を貸してやりたくなるような、そういう不思議な気を纏った御仁なんだよ」
「そうだね。僕も年に一度は会ってるから知ってるよ。聴くと、魂が飛びそうになるぐらい綺麗なシェンシャンの音色もね」

 クロガは、カケルが羨ましい。

 自分は次男なので、あくまでカケルに何かがあった際の備えだ。王族として、そして神具師としての教育を一通り受けている。基本的な能力や資質は兄と然程変わらぬはずなのに、なぜ自分はこんなにも縮こまって生きているのだろう。

 やはり、好いた者がいれば、何かが変わるのだろうか。

 顔が曇ったままのクロガ。ゴスは、それに気づいて、励ますようにクロガの背中を叩いた。

「あんまり拗ねるなよ。大好きな兄貴がいなくて寂しいのかもしれんが、人にはそれぞれ適材適所ってものがある。カケルはソラに恵みをもたらす女を追いかけるのが仕事みたいなもんだ。王の肝いりだしな」

 クロガは渋々頷く。

「兄上はいいな。僕は……駄目だ」
「クロガ、ちょっと会わないうちにお前、馬鹿になったのか?」
「え?」
「言っておくがカケルは、政はからっきしだぞ。それに、良い意味でも悪い意味でも、周りの目を気にしない奴だ。でもお前、クロガは違う。ちゃんと弟として何をしたら良いか考えているし、ソラ王家としても冷静に物事を良く見ているだろう?」
「まぁね」

 ゴスに褒められるのはくすぐったい。

「他人と比べるのは止めろ。お前にはお前の良さがある。これだけは他人には負けないってものを作るんだ。それを磨いて走り抜けろ。お前が駄目かどうかは、お前が死んでから他人が決める。けど、お前みたいに他人のために頑張れる奴は、必ず報われるべきだし、絶対に駄目じゃない」
「ゴス」

 クロガが、王宮を不在にするカケルに代わって宰相の事を探る話は、もうゴスに伝わっていたようだ。

「少なくとも、俺とカケルはクロガのことを認めてるんだからな」

 礼を言おうとしたが、声はくぐもって出ない。クロガは、目から溢れ出るものが流れ落ちないように、空を見上げた。

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