琴姫の奏では紫雲を呼ぶ

山下真響

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65俺は諦めない

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 カケルが廊下に出ると、柱にもたれながら腕を組んで空を見上げるゴスの姿があった。この男は図体が大きいので、今日のような文官服よりも職人の衣の方がしっくりくる。だが、どこか厳しい目つきで佇んでいると、暦年の戦士のような風格も滲み出てくるので、意外と武官の服も似合うかもしれない。

「ゴス」
「浮かない顔をしてるな」

 父親が寝たきり状態なのだ。当たり前ではないかと抗議しようとしたが、止めた。

 どこか、無気力だった。

 カケルの纏う浅葱色の衣は、廊下に設置された神具から流れるそよ風で軽やかに靡いている。それに反して、足は酷く重たい。汗で、足裏が床にくっついて離れなくなった気がした。

「明日のこと、任されたんだろう? ほら、見ろ」

 ゴスが指差した方を見ると、隣の宮の壁にある雲窓の向こうで、数人の男が忙しなく動き回っていた。手には様々な衣があるあたり、明日カケルが着る衣装の支度をしているのだろう。

「さっき、ここの侍従達に話を聞いた。随分と悪いらしいな」
「うん、思ってた以上に弱ってた」

 カケルは、暫しぼんやりとして、庭に生えた下草に視線を落とした。ゴスはその背中を乱暴に叩く。

「しっかりしろ!」
「ごめん」

 王が伏せっている今、一番年上の王子としてカケルが求められている役割は分かっているつもりだ。こんな時こそ、気丈に振る舞い、周囲の者の不安を取り除かねばならない。けれど、心の中のもやもやしたものは、いっこうに晴れる様子がなかった。

 ゴスが尋ねる。

「もしものことを考えてるのか?」

 図星だった。

「そうだな。もし王が身罷った場合は、カケルが王になる。そしたら、クレナの都で商人なんて続けることはできない。下手したら、もう二度とソラから出られなくなるかもしれない。そうすれば――――」
「コトリとは、もう会えなくなるかもしれない」
「いや、『かも』ではなく、会えなくなるだろうな」

 ゴスが言い直した。
 カケルが懸念していることを腹が立つぐらいによく理解している男である。

「縁起でもない話だが、そろそろ覚悟して、腹を決めるべきなんじゃないか?」

 ゴスに言われずとも、何が正しいのかなんて明らかだ。コトリさえ諦めれば、きっとカケル自身も楽になれる。もう、王子であることを隠す生活をしなくてもいい。クレナとソラの間の長旅を繰り返すことも無い。王宮の人間も、いつも不在の王子が、ようやく腰を落ち着けるとなれば安心するだろう。さらに有力貴族の娘あたりを娶れば、万々歳だ。

 けれど、そんなこと、できるわけがない。

 どうして人を好きになることは、こんなにも辛いのだろうか。おそらく、楽なことが幸せとは限らないのだろう。そして、苦労の向こう側に、必ずしも幸せがあるとは限らないのかもしれない。

「なぁ、カケル。前々から聞きたかったんだが、お前、コトリ様とどうなりたいんだ?」

 ゴスは、苛立った様子だった。声は落としているが、妙な気迫がある。

「いつになったら、ソウがカケルだって知らせるつもりなんだ?って聞いてるんだ」
「それは……」

 カケルもずっと悩んできたことだ。ソウとしては、コトリと随分気安い関係になりつつある。手の者からの知らせで、ヨロズ屋へコトリからの返事が届き、二人で会う約束ができたことも確認できていた。けれど、まだ一歩が踏み出せそうにない。

「俺は分からないんだ。お前は、神具師として彼女に認められたいのか? それとも、王子として見染められたいのか?」

 カケルは少し考えてから答える。

「俺は、コトリのために誠心誠意、最高のシェンシャンを作った。作ったつもりだったけど、コトリを守ることはできなかった」

 ルリ神を降ろしたシェンシャンがあんな姿になった理由は、後にサヨから詳しい報告を受けていたのだ。女の園は恐ろしい所だと思うと同時に、その場でコトリを庇うことができなかった自分が不甲斐なくて仕方がなかった。不思議と、コトリに害をなした女達よりも、自分に罪がある気がしていたのだ。

「それに、王子としては……既に落第だろう? 今更、正体を明かしても、カケルとしての俺に対して幻滅されるのがオチだから」
「だから?」

 言い訳ばかりを並べていた。目の前にいるのに、手を伸ばすことができないのは何故なのか。

「結局、自分には届かない高嶺の花だと思いこんでしまってるんじゃないか?」
「そうかもしれない」

 認めるしかなかった。
 なにせ、今までは何をやっても駄目だった。シェンシャンを作っても受け取ってもらえず、クレナ王には袖にされ、文のやり取りも阻まれて。しかも、コトリは別の男を想っているらしい。もう運命がカケルに諦めろと囁かんばかりの仕打ちばかりだ。

 それでも、コトリが欲しい気持ちは変わらない。となると、これはもはや、恋ではなく執念なのか。それならば、結局コトリのことを想う心は偽りで、彼女を幸せにする資格なんてないのではなかろうか。

 考えれば考える程、身が谷底へ真っ逆さまに落ちていくようだった。

「たぶんな、お前は考えすぎだ」

 俯いたままのカケルの肩に、ゴスが手を置いた。力付けるように、何度かとんとんと優しく叩く。

「臆病なのも、慎重になるのも悪くない。でもな、本当はどうすればいいかなんて、分かってるんだろ?」

 カケルがゆっくりと顔を上げる。夏の強い日差しが、その横顔に麗しい陰影を作る。

「俺は、俺として、コトリに認められたいし、好きになってもらいたい」

 神具師とか、王子だとか、そんな肩書きではなく、カケル個人として見てほしい。型破りかもしれないが、一途さだけは、誰にも負けないのだから。

「やっと、いい目をするようになったな。カケル、欲しいものは全力で取りにいけ」

 ゴスの言葉に熱が入る。

「お前の本気は、この程度なのか?」
「んなわけないだろ!」

 カケルの前には様々な障害が立ちはだかっている。

 まずは、コトリから自由を奪い続けるクレナ王。やはり彼は、何らかの形で倒さねばならないだろう。

 いずれカケルがソラ王になった暁には、昨今力をつけ始めている宰相一派とも、一戦あるかもしれない。コトリを妃として迎え入れるためには、王宮内をしっかりと掌握して安定させておくことが必須なので、重要だ。

 そして、コトリが慕っているという、名も分からぬソラの男。調べてはいるが、まだ候補すら上がっていない。コトリの手前、格好つけて応援するようなことを文で言ってしまったが、少なくとも疎遠な相手であることは確かなのだ。より身近な異性であるソウ――――カケルの方が有利なはず。

 カケルの体に少しずつ気力が漲り始めた。

「俺は諦めないからな」

 それはゴスに言うというよりも、自身に向けた宣誓であった。

 クレナに帰ったら、道中に仕上げた約束の神具を持って、コトリと会う。その時に、全てを正直に打ち明けよう。そして、思いの丈を伝えよう。


 ◇


 翌日。朝も早くから儀式が始まった。場所は王宮の一画にある広場。ソラの禁色の色合わせをした鮮やかな旗が、強い風にあおられて、泳ぐようにはためいている。白い石畳の上、青で統一された衣を纏うソラの文官と武官が整列して見守る中、奥にある社の前へ楽師団がやってきた。

 それを見下ろすように設えられた高舞台。カケルは、その手前の方にある御座の上だ。薄紺の御簾が日差しと外からの視線を遮っている。彼の背後には、兄弟や、義母など、他の王族達がそれぞれ被り布をして座していた。傍目には、王の不在が気づかれにくいものとなっている。

 ソラ最大の社、紅社から派遣された神官が進み出て、祝詞をあげた。巫女達が鈴を鳴らして舞を舞い、ソラの各地から集められた供物が供えられると、ようやくシェンシャンの奉奏となる。

 楽師団を率いていた女は、アオイと名乗った。彼女以外の全員が各自のシェンシャンを抱えると、アオイは黒い箱のようなものを自らの前におき、他の楽師達に合図を送る。
 演奏が始まった。
 一糸乱れぬ旋律。
 静かな王宮に、地面に、空に、その音がしゃらしゃらと広がっていく。

 整った機械的な奏では、単純に美しく感じられた。だがカケルには、それだけのことだった。心が踊るような、例えばコトリの奏でを聞いた時のような高揚感は、いつまで経ってもやって来ない。

 最後に、その場を去る楽師団へ、カケルから礼の言葉をかける場を設けられた。カケルは型通りの貴族らしい回りくどい言い回しの礼を述べる。アオイも、楽師団を代表して返事をしたが、異例の事態が起きた。

 カケルが御座から降りて、アオイを手招きしたのである。途端に、楽師達にざわめきが広がった。

 カケルは尋ねる。

「此度はご苦労であった。重ねて礼を言う。さて、美しき奏でであったが、より心躍らされるような、破格の弾き手はいないだろうか」

 アオイは一瞬驚いた顔をしたが、意を得たとばかりに頷いた。

「お望みであられましたら、今から私が弾かせていただきます」

 実は、ワタリの指示で、アオイは奉奏の折に弾いていなかった。首席の奏でをわざわざソラへくれてやる必要はない、というお達しだったのだ。その事に、カケルが気がついたのだろうとアオイは思ったのである。

 しかし、カケルは小さく首を振る。

「また、別の機会に頼む」

 そう言うと、カケルは再び御簾の向こうへ戻ってしまった。

 後にアオイは、ワタリから報告を求められた際に、このように話している。

「声が若こうございましたので、王子であらせられたかと思います。序列を考えると、カケル様かと。今回の奉奏にご不満があったのかもしれません。または、楽師団から腕の立つ者を娶りたいということかもしれませんわ」

 そして、次の事件に繋がっていくのである。

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