琴姫の奏では紫雲を呼ぶ

山下真響

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51音の神と恋の神

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 その幼女、髪も肌も衣も白く、淡く光を放ち、大きく見開いた無垢な瞳はただただ紅い。
 いつか王宮の広間で見たことのある神々の姿絵と同じようなれど、その表情の豊かさと庶民的な物言いにはコトリもすっかり驚かされてしまった。

 そもそも神は、絵姿でもその顔を人に見せはしない。雲や霧、はたまた散りゆく花や大きな葉、衣の袖に隠れて描かれるものである。尊き存在は、直視してはならぬと昔から言われてきたのだ。

 しかし今、その姿を目の当たりにしてしまっている。コトリは直感的に不味いと思った。慌てて目を逸すが、もう手遅れだったらしい。

「あたしを見てしまいましたね?」

 鈴の鳴るような声。それでいて、人を威圧するような音は、底しれぬ恐怖をコトリに与えた。

「ならば、罰を与えねばなりませんっ」

 まさかシェンシャンを奏でるよりも早く、神が現れるなど思いもよらなかったこと。しかも、いきなり声をかけられるなんて不可抗力だった。コトリは弁明しようと口を開いたが、それはすぐに悲鳴へと変わる。

 目が切り裂かれたようだった。筆舌に尽くし難い強烈な痛みが、コトリの両目を稲妻の如く走り抜けて、一瞬視界が真っ赤に染まる。見る力、目そのものを奪われた。そう思ったのも束の間、ぼんやりと辺りに煙が立ち込め始めた。

「何、これ」

 知らぬ前に倒れ込んでいたコトリは、ゆっくりのその身を起こして周囲を見渡してみる。その視界には、緑、青、金など、様々な色合いの煙が、水に墨を流した時のようにゆるやかに棚引きながら揺れていた。

 夢の中の景色。お伽噺の中に出てくる天女の羽衣のように優美な動きでたゆたうそれらは、コトリ自身が魂魄となって浮かんでいるかのような心地になる。

「我々、神々は人が生活で苦労せぬよう、日頃はこれらを見えぬようにしてあげていたのよ。でも、そなたはもう駄目。これから一生このもやもやを見て過ごすといいのだわっ!」

 ふんっと鼻をならす幼女。コトリは神の怒りに触れてしまったことを知ったが、それ程危機意識を持てずにいた。なぜなら――――

「これ、神気ですか」
「そうよ。神の息吹を感じて、生きるがよろしいの」

 神はコトリに嫌がらせをしたつもりらしい。しかし、コトリにとっては褒美のようなものだった。

「ありがとうございます」

 予期せぬ幸運。礼を言うコトリに対して神は不満げだったが、すぐに肝心の用件を思い出したようだった。

「して、なぜルリ様を差し置いて、先にこちらへ来ちゃったのよ? 最近までご一緒していたはずでしょ?!」

 ルリと聞いて思い出すのは、全ての神の頂きとなるルリ神のことだ。だが、一緒という意味が分からない。

「ほら、あの子に特別なシェンシャン作ってもらったの、忘れたの?」
「もしかして、あれが……」

 サヨに手配を頼み、ヨロズ屋ソウが作り上げたシェンシャン。確かに、あれは奏でずとも独特の趣がある神秘的な楽器であった。音も格別で、ルリ神の加護を受けていたと言われても頷ける。

「何か勘違いしてるんじゃない? あの依り代には、ルリ様の眷属ではなく、彼女自身が降りていたんだから!」
「え」

 コトリからすれば、今神と対話しているだけでも浮世離れしているというのに、あのルリ神が自身のシェンシャンを依り代にしていたなど信じられないことである。

「本当にまさかのまさかよ。あの男、ソウとか言ったかしら? あなたのためにどうしてもって言うものだから、こうなっちゃったのよ。お陰様で私がこの超立派な御神体に依ることになっちゃって、もう畏れ多いったらありゃしない。それで、あのシェンシャンはどこにいっちゃったの?」

 コトリは、ソウの名前が出てきたことで、ますます頭の中が混乱している。けれど、それを理由に神への応えを疎かにすることはできなさそうだ。

「今は、修理中なのです」
「もしかして、壊しちゃったの? 罰当たりな!」

 コトリがそっと神の顔色を伺うと、完全に青筋を立てていた。

「はい。壊されてしまいまして」
「なるほど、そなた本人の仕業ではないのね。まぁ、良いわ。手にかけた者にも裁きを下さねば」
「根は悪い方ではございませんので、お手柔らかにお願いします」

 どうしても声が震えてしまう。

「それは私の気分次第よ。最近辛いことばかりなんだから。いい加減まいっちゃう」

 その神曰く、彼女はルリ神の代わりにシェンシャンに依ることになった音の神だという。毎日、社に大勢やってくる参拝客の誓いやら願い事や頼み事を日夜聞き続けた結果、ついには、神の癖に頭痛持ちとなってしまったらしい。

「あーもう、頭にきた! そこの恋の神。あなたも黙ってないで、出てらっしゃい!」

 音の神が叫ぶやいなや、いつの間にかコトリの前にもう一柱がその姿を現しているではないか。コトリは二度も同じ轍を踏まぬよう、視線は下げたままでいる。そして聞こえてきた声は、音の神よりも柔らかなものだった。

「ごめんなさい。私としては、音よりも恋を育んでほしかったものだから、ルリ様が早くお帰りになれるよう、修理を急がせたりはしたくなかったのよ」
「お陰であたしは、とんだとばっちりよ。依り代にするなら、もっと小さな社のシェンシャンにして、穏やかな田舎生活を満喫したかったわ」
「でも、私達は人の前に安安と姿を現すことはできないでしょう? どうせ無理なことだったと思うの」

 突然始まる神々の口喧嘩。コトリは唖然としながら聞き届けることしかできない。
 ニ柱はしばらく言い合った後に世間話もしていたが、ふと音の神が我に返ったように呟いた。

「それで、どうしてそなたは、あたしに会いに来たのかしら?」

 コトリの願い、神気を見えるようにしてほしいという事は既に叶えられてしまった。では、どう答えれば良いものだろうか。

 通常神は、人の願いを直接的に叶えることはしない。しかし、見守ったり、助けを出したりすることはできるとされている。ならば、今困っていることを解決する手立てを教えてもらうことができるかもしれない。

「私は王立楽師団に籍をおいております。ですが、全員で合奏する際、私の音がだけが浮いてしまうのです。どうすれば……」
「そんなもの、練習あるのみ!」

 音の神がそう声を張り上げながら、衣の袖を大きく振る。たちまちたくさんの神気が更に寄せ集まって来て、それらはやがて人の姿をなした。全員、シェンシャンを手にしている。

「この子達はあたしの下僕……じゃなくて眷属。早速、大人数で弾く特訓するよ!」

 展開の速さに戸惑うコトリだが、音の神はお構いなしに畳み掛ける。

「ルリ様の依り代を持つ人が楽師団の落ちこぼれだなんて放っておけない。上手くなるまで、元の場所には戻してあげないから!」

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