琴姫の奏では紫雲を呼ぶ

山下真響

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37疑惑払拭

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 体が金縛りにあったように動かなくなる。

 終わった、とコトリは思った。

 コトリの正体が明らかになれば、王女に戻らねばならないだけではない。入団してからコトリへ気安く接してきた者達には、王から不敬罪などの罰が下されて、間接的にコトリを追い詰めようとしてくる可能性もある。まだ短い付き合いだが、楽師団の女達を悪しき事で巻き込みたくはない。それだけの情が、既に湧いているのだ。

 けれど、兄、ワタリが全てを踏みにじってしまった。
 せめて、何か言い返さねば。そう思って顔を上げた時、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。皆が一斉にそちらを向く。

「何をしているの?」

 現れたのは、正妃だった。青い衣にきらびやかな金糸の刺繍が入った背子がよく映えている。その堂々たる風体に相応しい、きら艶やかな出で立ちだ。

「母上、なぜここに?」

 ワタリは明らかに困惑している。正妃はそれに構わず、コトリ達の元へやってきた。

 まさか、ここで天敵とまで遭遇してしまうとは。コトリは意識を飛ばして倒れたくなったが、そうもできず。ただひれ伏せて、小さくなることしかできない。

「これは」

 正妃は、目ざとく割れた茶碗を見つけたようだ。獲物を見つけた大蛇の如く、ワタリをきつく睨みつける。

「感情に任せて乱暴を働き、子女を脅すなど、王太子のすることか」
「いえ、これは、妹を正しき道に導くための」

 正妃の目はさらに釣り上がった。

「妹? お前は、どこの馬の骨か分からぬ女を片っ端から捕まえて、そのように口説いているのか? こんな者が王族であるわけがなかろう。滅多なことを言うでない!」

 一番びっくりしたのはコトリだ。てっきり、ワタリが呼び寄せて、二人がかりでコトリの正体を明らかにするのだろうと思っていたのに。

 なぜか、助けられてしまった。

 驚きのあまり、不敬になるのも忘れて顔を上げてしまう。正妃を直視してしまったが、幸い目は合わなかった。

 正妃は女官を一瞥して、割れた茶碗を片付けるよう指示する。一通り片付くと、ワタリのすぐ隣に座した。ワタリは慌ててコトリ側へ少し引き下がる。

「あの、母上はどのようなご用で」
「忘れたのか。私は楽師団の名誉団長を務めている。管轄する所を時折こうして見回っておる。お前こそ、私を通さずに押しかけてきて、何をするつもりだったのだ。申してみよ」

 元々強者には弱い男だ。ワタリはたじたじになって、すぐには言葉が出なかった。正妃は余裕たっぷりに笑みを浮かべる。

「そんなに楽師団に興味があるのならば、何か寄進してみてはどうだ。最近、王は楽師団をなかなか顧みてくださらぬ。だが、王太子であるそなたが彼女達のために動くのであれば、母としては頼もしく思う」

 正妃はどうだと言わんばかりに、ワタリを見つめたまま、その反応を待っている。とても否と言える雰囲気ではなかった。もし断れば、懐の狭い男だと皆に知れてしまうだろう。ワタリは見栄や体面を大切にしている。悪足掻きするかのように、肯首は微かなものであった。

「楽しみに待っていますよ」

 正妃の笑みは、その場にいる誰から見ても恐ろしいものだった。

 その後は、視線と僅かな手の動きでワタリをその場から追い出してしまい、コトリは正面から正妃と相対することになる。ワタリが去ったので辞したいところだが、正妃の威圧感がそれを許さなかった。

「さて、カナデとやら」

 名を呼ばれたことで、楽師達に静かなざわめきが広がる。妹疑惑は多少晴れたものの、正妃に名を覚えられているとなると、やはり特別な身分と目されてしまうのだ。

「今年の試験では、そなたが首席であった。褒美として、私の宮へまかり越すことを許しましょう。明日にも使いをやります」

 もちろん、断われるわけがない。コトリは顔を伏せたまま、短く「はい」と返事した。

 コトリもちょうど正妃との面会を望んでいたのだ。母、アヤネの遺骨の件である。どうやって接触しようかと考えあぐねていたので、これは渡りに船かもしれない。そう前向きに考えでもしなければ、この精神的苦痛はとても和らぎそうにもなかった。


 ◇


 正妃が鳴紡殿を去っていくと、楽師達はあからさまに安堵の溜息を吐いた。

 カヤもその中の一人である。カヤは元々ハナの派閥に属しているが、比較的歳の近いコトリのことが前々から気になっていた。ようやく話しかけられたと思ったら、この事件である。やはり、事の真相は確かめたくなるのは仕方がない。

「カナデ様、大変でしたね」

 カヤが、心配そうに眉を下げる。実際コトリは、酷い疲労感に襲われていた。

 王宮外で彼ら親子と出くわす際は、大抵被り布をしていることが多いのだが、今日に限って互いに素顔を晒していたことは不運だった。コトリは、あの吊り目気味の鋭い眼光が苦手なのだ。あの女の前では、何一つ取り繕える気がしない。

 そういえば、楽師団試験の際も被り布はしていなかった。正妃にとって楽師団とは、安全で気の休まる場所なのだろうか。そこまで考えた時、カヤがますます身を乗り出してコトリを見上げてきた。

「それで、カナデ様は元々正妃様とご縁がおありなのですか? 何だか親しげなご様子でした」

 あまりに直球な質問。周囲の楽師達に緊張が走ると同時に、興味津々の視線がコトリに集中する。

「いいえ、そんな畏れ多いことは何もありません。以前、私の田舎に視察でいらっしゃった際に、もてなしの宴で一曲演奏したことはありますが、それだけです」

 愛想笑いを浮かべながら、適当なことを言っておく。カヤは、上手く騙されてくれたようだ。ひとしきり、なるほどと頷いている。

 それにしても、あれのどこが親しげなのか。コトリは普段の正妃を知らないので何とも言えないが、胃が痛くなりそうだった。

「ワタリ様も恐ろしかったですね。カナデ様のような庶民のお方にまで、宝を差し出せとおっしゃるなんて、よっぽど困ってらしたんでしょうね」

 ナギもやってきた。

「でも、あのやり口はどうかしら。ワタリ様って、考えていたよりも大したことのない男だと思ったわ」

 あけすけな悪口に、わっと周囲が沸いて同意する。

 しかし、コトリは共に笑っていられる余裕など残っていなかった。何せ、明日にも正妃と会わねばならないのだ。

 手ぶらで向かうわけにもいくまい。だが、土産を用意するにしても何にすれば良いだろうか。時間も無い。

 それよりも、カナデとして行けば良いのか、コトリとして行けば良いのか。その見極めは、難解だ。

 さらには、正体を明かさずにいてくれた事の礼についても悩みどころである。

 ここは早いところサヨと和解して、相談せねばなるまい。コトリは、広間の端でハラハラしながら見守っていたサヨを見つけると、すぐに抱きつく勢いで駆け寄っていった。

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