琴姫の奏では紫雲を呼ぶ

山下真響

文字の大きさ
上 下
35 / 214

34香火の契

しおりを挟む
 その夜のことだ。
 サヨはコトリが寝入った頃を見計らって、そっと部屋を抜け出した。廊下に出ると、音を出さないように慎重に足を運び、隣の部屋の戸を三度叩く。ミズキはすぐに顔を出した。

「いらっしゃい」

 今夜訪れることは、夕餉の前に伝えてあった。ミズキは着替えていて、楽師団で揃いの衣は衣桁に干されている。赤の簪も既に取り去られていた。

「もっと早く来るかと思ってたよ」

 時間のことではない。日が暮れてすぐに眠ってしまうのは、王女上がりのコトリぐらいのものだ。他の楽師は、まだ起きているだろう。

「期待に沿えなくて悪かったわね」

 サヨは、ヨロズ屋と繋ぎをつける件だろうと予想する。ミズキは、まだサヨと詳細を詰めていなかったにも関わらず、あらゆる場面でコトリを守りに動いていた。早速仕事をさせているのに、報酬が曖昧なままだったのは不味かったかもしれない。

「いいさ。夜は長い。ゆっくりと話をさせてもらおう」

 男を隠さないミズキに見据えられると、サヨはどこか尻込みしてしまう。けれど、今夜こそミズキに伝えねばならない用件もあった。

 サヨは卓を挟んでミズキの向かい側に座る。夜になっても気温が下がらない季節になった。妙な汗が額に滲む。

「あなたの仕事ぶりには満足しているわ。まず、これを」

 サヨは、懐から出した紙を突き出した。ヨロズ屋への紹介状である。カケルにも、ミズキのことを文で伝えていると説明した。

「それと、もう一つ新たな依頼があるわ」

 ミズキが片眉を上げる。

「ソラ国に関わる情報が手に入れば、流してほしいの。中身は何でも構わないわ。内容の重要性に応じて、報酬は決めさせてもらうつもりです」
「出来高制か」

 ミズキの反応を見るに、手応えは悪くないように思えた。

 最近のサヨは、楽師団から身動きが取りづらく、以前のように王宮内のことも、国内外のことも、ほとんど噂を集めることができなくなっている。井の中の蛙のままでは、コトリを守ることができない。ミズキ達を使うことは、手っ取り早い方法なのである。

「それにしても、お嬢さんと姫さんは、ソラに何か拘りがあるのかね? 今日も、ソラ行きの話で騒いでたじゃないか」

 サヨは、どこまで正確に答えるべきか考えあぐねた。

「政治的な話ではありませんが、詮索はしないでください」
「それじゃあ、どんな情報を持ってきたらいいのか分からなくて困る。物価の話か? それとも女だから、流行りの衣の話とか?」
「その手のものは不要です」

 答えながら、サヨは次第に全てを隠し通す自信がなくなってしまった。そもそも、コトリの正体を見抜かれてしまった時点で、ミズキの前で悪足掻きするのは無駄だと気づいているのだ。

「そうですね。では、ソラ国王族の話を。特にカケル王子の話ですと助かります」
「そうか。姫さんは王子様が好き、か」

 ミズキは面白そうに笑った。サヨは肯定も否定もしない。この男にかかると、何を喋ってもサヨの弱みにされてしまうには変わりないのだから。

「姫様は王子との再会をお望みです。何としても楽師団としてソラへ行く必要があるのです」
「でも、それじゃ矛盾がありゃしないか? 遠征したら、どうしても護衛は難しくなる。何が起こるか分からない見知らぬ土地への長旅だぞ。誰が襲ってくるか分からないんだ。対策なんてしようもない」
「それは承知の上。これは姫様の変わらぬ決意なのです」

 昼間のコトリは、半ばソラ行きを諦めた様子だった。それでいて、部屋に帰れば王子のことばかりを口走る。ならば、主の本音に寄り添った準備が必要だ。シェンシャンについての具体的な助言はできないが、もし無事にソラへ行けた際の心づもりはしておきたい。

「そこまで懸想してるとはな。無謀なのに、よくやる」

 ミズキの言葉は図星が多い。サヨはキッと睨み返した。仮想敵国の王子を好きになるなど、馬鹿らしいことなど分かっている。けれど、そんな論理的な話で片付かないのが乙女心というものだ。

「あなたに何が分かるっていうんですか? 彼は、姫様の特別なのです」

 身分の低い母を持つコトリは、王女にも関わらず不遇だった。幼き日は味方もおらず、完全に孤立していた。しかし、新年の宴の際には、必ずカケルから労りの言葉を貰い、シェンシャンの腕や女らしい立ち振る舞いを褒め称えられる。カケルは、唯一コトリを認め、寄り添ってくれる存在だった。

 彼がいたからこそ、コトリは自死に走ったりもせず、淡々と現実を受け止めて生き延びてきたとも言える。もはや、命の恩人であり、永遠にコトリの心の支えなのだ。

 コトリ本人は、カケルの全てが尊いなどと宣うが、本当はこういった事情が彼女を駆り立てている。と、少なくともサヨは考えている。

「懸想などと軽い言葉をおっしゃらないでください。これは、恋を超えた崇高な愛なのです」

 実は、当初サヨがコトリの元へ遊び相手として侍ることになったのも、カケルの言葉がきっかけだった。王女にも関わらず、専属の侍女も持たない不思議を、遠回しに王へ指摘したのである。娘をまともに養う金も無いなどと国内外で囁かれてしまっては、たまったものではない。面目と見栄を大切にするクレナ王は、仕方なくそれに応じたのだった。

 サヨがコトリという主と巡り会えたのも、カケルのお陰。主の恋を応援しようという気持ちが芽生えるのも自然なことだ。

 そこまでの話を聞き終えたミズキは、卓に片肘をついて、鼻を指でかっぽじっていた。今ばかりは、いくら美しくとも、さすがに女には見えない。

「正直、姫さんって重いな。王子も可哀想に。俺なら、もっと自立してる女が良い」

 ミズキの視線が強くなる。サヨは、慌てて顔を逸らした。まさか、自分のこととは思えないが、完全に否定することもできない。先日、押し倒された記憶は、あまりにも生々しく残っていた。

「あなたの好みに興味はありません」

 サヨは何となく身の危険を感じて、立ち去ろうとした。が、卓の下から伸びてきたミズキの手が、サヨの下衣を掴んでいる。こんな下衆な事をされたのは、初めてだった。

「いいじゃないか。ここは女同士、そういう話もしてみようや」
「離してください」
「で、お嬢さんはどんな男が好きなんだ?」

 ミズキの手はぴくりとも動かない。サヨは溜息をついて、少しだけ付き合うことにした。

「私には婚約者がおります。そのような事を語る意味がありません」
「そうか。ああいう、厳しい体に組伏せられるのも悪くはないと」

 サヨは頬が熱くなった。この種の手合いには慣れていない。そもそも、貴族の生まれだ。そして、女ばかりの職場。こんな明け透けな物言いをする者は、これまで側にはいなかった。

「私は、そのようなことに現を抜かす女ではありませんから! それよりも、素晴らしい主と出会い、その縁を大切にすることこそ、尊く感じているのです」

 次の瞬間、ミズキの瞳が勝ち誇ったかのように煌めいた。サヨには、その理由が分からない。

「そうだよな。女同士の縁ってのは大切だ。だから、俺とも仲良くしてもらおう」

 ミズキは、サヨを捕まえていない方の手を使い、卓の引き出しから小箱を出してきた。

「これを使いたい。今回の報酬は、これで受け取ったことにしよう」

 サヨが小箱を開けると、中には几帳面に並んだ丸い煉香があった。これは、しばらく前に、楽師団の稽古で作ったものだ。香の調合が初めてのミズキは、サヨに手伝ってもらいながら、何とか形にしたものである。

「もしかして、香火の契ですか?」

 ミズキは重々しく頷いた。
 香火の契とは、近頃巷で流行している簡単な儀式だ。仲の良い女達が、その近しい間柄を確認し合い、その絆を周囲に知らせるためのもの。

 方法は簡単だ。共に香を聞き、その同じ香りを互いの衣に焚きしめる。元々、妓女達が姉妹の契として行っていたものが広まったらしい。

 サヨは、もっと酷い報酬を要求されるのではないかと身構えていただけに、懐も傷まぬ提案に安堵してしまった。

「良いですよ」

 そこからのミズキは早かった。香炉が用意され、銀葉の上に煉香の粒が乗る。近くの蝋燭からとった火で炭をおこすと、ふわりと香りが漂い始めた。

 確か、主に使った香木は白檀だったか。爽やかながらも深みのある優美な香り。たちまち癒やされて体の力が抜けていく。

「お嬢さん、疲れてるんじゃないか?」

 知らぬ間に、サヨは他人の部屋なのを忘れて目を閉じていたのだ。

「誰かさんのせいでしょうね」
「そうやって気が強いところも悪くない」
「別に好かれたいとは思っておりません。良い取引さえできれば、それでよろしいのです」
「固いこと言うなよ。せっかく香も焚いた。ソラ行きの時は、どうせ新人同士、宿も同室になるんだ。もっと仲良くやろう」

 途端に、サヨが顔を強張らせる。
 同室。それすなわち、この男と夜を過ごさねばならないということだ。

「心配しなくとも、俺達が鳴紡殿を留守にする間は、うちの手の者が姫さんの警護にあたる」
「そういう意味ではありません!」

 サヨは、ミズキの手がようやく離れていたのに気づいて、今度こそはと立ち上がった。だが案の定、ミズキの声が追いかけてくる。

「待って。まだ衣に香りが移っていないよ。つまり、まだ報酬は全て受け取っていない」

 サヨは、ようやく自分が見落としていたものに気づいた。もうミズキの方を振り向きはしない。
 
「報酬は、また別のものにしましょう」

 足が震える。このまま、振り切るつもりだった。

「報酬は、俺が決める」

 その声は、サヨのすぐ耳元からした。いつの間にか側に来て、腰を抱かれていたのだ。男の息が、女をくすぐる。

「女官から、伏せ籠も借りてあるんだ。ほら、早く全部脱いで。俺の香りで染めてやる」

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

あの子を好きな旦那様

はるきりょう
恋愛
「クレアが好きなんだ」  目の前の男がそう言うのをただ、黙って聞いていた。目の奥に、熱い何かがあるようで、真剣な想いであることはすぐにわかった。きっと、嬉しかったはずだ。その名前が、自分の名前だったら。そう思いながらローラ・グレイは小さく頷く。 ※小説家になろうサイト様に掲載してあります。

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈 
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

麗しのラシェール

真弓りの
恋愛
「僕の麗しのラシェール、君は今日も綺麗だ」 わたくしの旦那様は今日も愛の言葉を投げかける。でも、その言葉は美しい姉に捧げられるものだと知っているの。 ねえ、わたくし、貴方の子供を授かったの。……喜んで、くれる? これは、誤解が元ですれ違った夫婦のお話です。 ………………………………………………………………………………………… 短いお話ですが、珍しく冒頭鬱展開ですので、読む方はお気をつけて。

政略より愛を選んだ結婚。~後悔は十年後にやってきた。~

つくも茄子
恋愛
幼い頃からの婚約者であった侯爵令嬢との婚約を解消して、学生時代からの恋人と結婚した王太子殿下。 政略よりも愛を選んだ生活は思っていたのとは違っていた。「お幸せに」と微笑んだ元婚約者。結婚によって去っていた側近達。愛する妻の妃教育がままならない中での出産。世継ぎの王子の誕生を望んだものの産まれたのは王女だった。妻に瓜二つの娘は可愛い。無邪気な娘は欲望のままに動く。断罪の時、全てが明らかになった。王太子の思い描いていた未来は元から無かったものだった。後悔は続く。どこから間違っていたのか。 他サイトにも公開中。

拝啓 お顔もお名前も存じ上げない婚約者様

オケラ
恋愛
15歳のユアは上流貴族のお嬢様。自然とたわむれるのが大好きな女の子で、毎日山で植物を愛でている。しかし、こうして自由に過ごせるのもあと半年だけ。16歳になると正式に結婚することが決まっている。彼女には生まれた時から婚約者がいるが、まだ一度も会ったことがない。名前も知らないのは幼き日の彼女のわがままが原因で……。半年後に結婚を控える中、彼女は山の中でとある殿方と出会い……。

処理中です...