10 / 214
09合否
しおりを挟む
三日間は飛ぶように過ぎた。世間慣れしていないコトリは、サヨと事前に相談していた通り宿から出ず、ただ部屋の窓から通りを眺めて過ごした。
王宮近くのそこは、実に様々な物、者が往来する。それまで人伝の話でしか知らなかった民衆の暮らしを朝から晩まで観察し続けた。
宿には少し多めの金を握らせているため、三度の飯は一階の食堂ではなく、部屋まで運んできてもらえる。王宮での食事よりもずっと品数は少ないが、温かで素朴な味にコトリは満足した。
女将は、田舎者がわざわざ都へやって来た様子なのに、全く出歩こうとしないコトリを珍しがったが、常にシェンシャンを大事そうに抱えていることから試験のことを察して、そっとしておいてくれた。
唯一不満があるとすれば、シェンシャンが弾けなかったことだ。宿の壁の薄さを考えたこともあるが、試験の際の二の舞になりたくなかったのである。
ついに、合否の結果が出る頃合いとなった。
コトリは、朝餉を済ませるとシェンシャンだけを抱えて宿の外へ出る。
「受からなくても、気を落とすんじゃないよ!」
背後からかけられた威勢の良い女将の声に、コトリは思わず破顔する。試験を受ける前よりも緊張しているのは確かだ。けれど、見に行かないわけにもいくまい。
通りは既に混み合っていた。楽師団の殿へ近づいていくにつれ、人の数はさらに増えていく。決して高いとは言えない背格好のコトリは、苦労して前へ前へと歩んでいった。
目的の場所は、それこそ酷い騒ぎになっていた。喜びの声をあげている者は見当たらない。代わりに嘆き悲しむ者は多くいる。やけを起こしてシェンシャンを振り回した乱暴者は、どこからか出てきた衛士に引っ張られていった。
コトリは、ようやく合否の結果が書かれた立て札の前へやってきた。シェンシャンを抱きしめて、祈るような気持ちでそれを見上げる。
今年の合格者は三名だ。
一行目、二行目と視線を移していく。そして三行目。
コトリは、手元の木札を見やる。もう一度立て札を見る。それを何往復か繰り返した。
一八三七。
コトリの番号である。
一瞬、全ての音がコトリから遠のいた。
コトリの体がじんわりと熱を持ち始める。赤らんだ頬に朝の冷たい空気が心地良い。
そう、これは現実のことなのだ。
コトリは、合格した。
立て札には、さらに注意書きが示されてあった。合格者は楽師団の宮の中へ手続きをしに来るようにとのことだ。
コトリは押し寄せる人の波に逆らいながら、立て札から距離をとっていく。そして、できるだけ目立たぬよう身を小さくしながら、開いていた殿の入り口に飛び込んでいった。
背後から、何か大声が聞こえてきたが、振り向かなかった。
◇
木札を出さずとも、コトリの顔は覚えられていた。
入り口近くに控えていた女官が、コトリを導いて殿の中を進んでいく。
着いた部屋の扉が開くと、そこには一人の女が座していた。
「お待ちしておりました」
「サヨ?!」
コトリは、何度も瞬きをする。見慣れた侍女の衣こそ纏っていないが、それは間違いなくサヨであった。
「え、どうして」
「どうしたもこうしたもありません。ただ、私が好きでついて参っただけです」
コトリは、一応サヨにも別れを告げていたのだ。さらに、すぐに結婚しない場合は宮勤めを続けられるように、希望の職場へ異動できるよう、兄のサトリに推薦状までしたためていたのである。サヨ本人もそれは知っていたはずなのに、なぜか目の前にいるのだ。
「もしかして、サヨも受かったの?」
「お忘れですか? 先にシェンシャンを弾けるようになったのは私です」
コトリは古い記憶を掘り起こした。
姉妹のようにして育った二人。共に、礼儀作法の先生からシェンシャンを学んでいたのだ。貴人の嗜みとして覚えたのがきっかけだったが、それ以上に二人はシェンシャンにのめり込んでいった。
単純に音が鳴るのが楽しいと感じるところから始まり、拍子を取って弾くことで音楽というものの奥行きを知るようになる。やがて、曲を奏でるのが生活の一部となっていった。
そしていつしか、競い合うように腕を磨き、サヨも宮中で一目置かれる腕前になるまで、そう時間はかからなかったことを思い出した。
確かに、サヨならば合格できるのも納得できる。けれど、どこか現実感が無く、不思議な浮遊感に襲われるコトリであった。
「まずは、合格おめでとうございます」
「ありがとう。またサヨと居られて嬉しいわ。でも、あなた、ご両親は」
「ご心配いりません」
サヨは、ぴしゃりと音が鳴りそうな勢いで返事する。
「本当に?」
「本当です」
サヨの笑顔からは、何も読み取ることができない。
「もし合格できなければ、ここの女官になってお側に侍る手筈になっておりましたが、無事にこうして再会できまして安堵しております」
「そんなことまで考えていたの?」
コトリは嬉しいやら申し訳ないやらで、百面相をしていた。今からでも遅くない。実家に戻ることを勧めようとも考えたが、サヨは昔から頑固なところがある。おそらく言っても聞かないだろう。
「では、これからもよろしくお願いいたしますね。カナデ様!」
「えぇ、こちらこそ」
カナデ。
第二の人生を歩まんとする、コトリの新たな名前である。
王宮近くのそこは、実に様々な物、者が往来する。それまで人伝の話でしか知らなかった民衆の暮らしを朝から晩まで観察し続けた。
宿には少し多めの金を握らせているため、三度の飯は一階の食堂ではなく、部屋まで運んできてもらえる。王宮での食事よりもずっと品数は少ないが、温かで素朴な味にコトリは満足した。
女将は、田舎者がわざわざ都へやって来た様子なのに、全く出歩こうとしないコトリを珍しがったが、常にシェンシャンを大事そうに抱えていることから試験のことを察して、そっとしておいてくれた。
唯一不満があるとすれば、シェンシャンが弾けなかったことだ。宿の壁の薄さを考えたこともあるが、試験の際の二の舞になりたくなかったのである。
ついに、合否の結果が出る頃合いとなった。
コトリは、朝餉を済ませるとシェンシャンだけを抱えて宿の外へ出る。
「受からなくても、気を落とすんじゃないよ!」
背後からかけられた威勢の良い女将の声に、コトリは思わず破顔する。試験を受ける前よりも緊張しているのは確かだ。けれど、見に行かないわけにもいくまい。
通りは既に混み合っていた。楽師団の殿へ近づいていくにつれ、人の数はさらに増えていく。決して高いとは言えない背格好のコトリは、苦労して前へ前へと歩んでいった。
目的の場所は、それこそ酷い騒ぎになっていた。喜びの声をあげている者は見当たらない。代わりに嘆き悲しむ者は多くいる。やけを起こしてシェンシャンを振り回した乱暴者は、どこからか出てきた衛士に引っ張られていった。
コトリは、ようやく合否の結果が書かれた立て札の前へやってきた。シェンシャンを抱きしめて、祈るような気持ちでそれを見上げる。
今年の合格者は三名だ。
一行目、二行目と視線を移していく。そして三行目。
コトリは、手元の木札を見やる。もう一度立て札を見る。それを何往復か繰り返した。
一八三七。
コトリの番号である。
一瞬、全ての音がコトリから遠のいた。
コトリの体がじんわりと熱を持ち始める。赤らんだ頬に朝の冷たい空気が心地良い。
そう、これは現実のことなのだ。
コトリは、合格した。
立て札には、さらに注意書きが示されてあった。合格者は楽師団の宮の中へ手続きをしに来るようにとのことだ。
コトリは押し寄せる人の波に逆らいながら、立て札から距離をとっていく。そして、できるだけ目立たぬよう身を小さくしながら、開いていた殿の入り口に飛び込んでいった。
背後から、何か大声が聞こえてきたが、振り向かなかった。
◇
木札を出さずとも、コトリの顔は覚えられていた。
入り口近くに控えていた女官が、コトリを導いて殿の中を進んでいく。
着いた部屋の扉が開くと、そこには一人の女が座していた。
「お待ちしておりました」
「サヨ?!」
コトリは、何度も瞬きをする。見慣れた侍女の衣こそ纏っていないが、それは間違いなくサヨであった。
「え、どうして」
「どうしたもこうしたもありません。ただ、私が好きでついて参っただけです」
コトリは、一応サヨにも別れを告げていたのだ。さらに、すぐに結婚しない場合は宮勤めを続けられるように、希望の職場へ異動できるよう、兄のサトリに推薦状までしたためていたのである。サヨ本人もそれは知っていたはずなのに、なぜか目の前にいるのだ。
「もしかして、サヨも受かったの?」
「お忘れですか? 先にシェンシャンを弾けるようになったのは私です」
コトリは古い記憶を掘り起こした。
姉妹のようにして育った二人。共に、礼儀作法の先生からシェンシャンを学んでいたのだ。貴人の嗜みとして覚えたのがきっかけだったが、それ以上に二人はシェンシャンにのめり込んでいった。
単純に音が鳴るのが楽しいと感じるところから始まり、拍子を取って弾くことで音楽というものの奥行きを知るようになる。やがて、曲を奏でるのが生活の一部となっていった。
そしていつしか、競い合うように腕を磨き、サヨも宮中で一目置かれる腕前になるまで、そう時間はかからなかったことを思い出した。
確かに、サヨならば合格できるのも納得できる。けれど、どこか現実感が無く、不思議な浮遊感に襲われるコトリであった。
「まずは、合格おめでとうございます」
「ありがとう。またサヨと居られて嬉しいわ。でも、あなた、ご両親は」
「ご心配いりません」
サヨは、ぴしゃりと音が鳴りそうな勢いで返事する。
「本当に?」
「本当です」
サヨの笑顔からは、何も読み取ることができない。
「もし合格できなければ、ここの女官になってお側に侍る手筈になっておりましたが、無事にこうして再会できまして安堵しております」
「そんなことまで考えていたの?」
コトリは嬉しいやら申し訳ないやらで、百面相をしていた。今からでも遅くない。実家に戻ることを勧めようとも考えたが、サヨは昔から頑固なところがある。おそらく言っても聞かないだろう。
「では、これからもよろしくお願いいたしますね。カナデ様!」
「えぇ、こちらこそ」
カナデ。
第二の人生を歩まんとする、コトリの新たな名前である。
0
お気に入りに追加
22
あなたにおすすめの小説
見捨てられたのは私
梅雨の人
恋愛
急に振り出した雨の中、目の前のお二人は急ぎ足でこちらを振り返ることもなくどんどん私から離れていきます。
ただ三人で、いいえ、二人と一人で歩いていただけでございました。
ぽつぽつと振り出した雨は勢いを増してきましたのに、あなたの妻である私は一人取り残されてもそこからしばらく動くことができないのはどうしてなのでしょうか。いつものこと、いつものことなのに、いつまでたっても惨めで悲しくなるのです。
何度悲しい思いをしても、それでもあなたをお慕いしてまいりましたが、さすがにもうあきらめようかと思っております。
まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?
せいめ
恋愛
政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。
喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。
そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。
その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。
閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。
でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。
家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。
その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。
まずは亡くなったはずの旦那様との話から。
ご都合主義です。
設定は緩いです。
誤字脱字申し訳ありません。
主人公の名前を途中から間違えていました。
アメリアです。すみません。
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
あの子を好きな旦那様
はるきりょう
恋愛
「クレアが好きなんだ」
目の前の男がそう言うのをただ、黙って聞いていた。目の奥に、熱い何かがあるようで、真剣な想いであることはすぐにわかった。きっと、嬉しかったはずだ。その名前が、自分の名前だったら。そう思いながらローラ・グレイは小さく頷く。
※小説家になろうサイト様に掲載してあります。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】殿下、自由にさせていただきます。
なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」
その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。
アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。
髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。
見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。
私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。
初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?
恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。
しかし、正騎士団は女人禁制。
故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。
晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。
身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。
そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。
これは、私の初恋が終わり。
僕として新たな人生を歩みだした話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる