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07兄の期待
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サトリは、現在文官長という全ての文官の頂点たる役目に就いていた。幼少期から剣よりも筆を持ち、常に書物を携えていた。頭の回転の良さやキレも兄弟一。その優秀さから抜擢された現在の職であるが、周囲も本人も、彼が王族故の人事だということを忘れていない。
「僕も王子を辞められたらいいのだけれど」
サトリの日々の苦労を察することができるだけに、コトリは何も言えなくなってしまった。
「念の為に聞くけれど、王女としての責任は放棄するんだね?」
「いえ、そういうわけでは」
咄嗟に返事した。コトリは母親が元庶民だが、生まれも育ちも王宮。言葉を覚えるよりも早くから、王族の心構えを繰り返し教え込まれてきた身だ。今、自らがしようとしていることの重大さは理解できている。けれど、譲れないものはあるのだ。
コトリは深呼吸した後、ゆっくりとサトリを見上げた。兄もまた、少し威嚇するように目を細めてコトリを見据えている。
「私は王女を辞めますが、今後も国の発展には貢献したいのです。その方法は人それぞれ。兄上はその明晰な頭脳がおありですし、私の場合はシェンシャンがあります」
「父上はシェンシャンをただの楽器だと思っているみたいだけど」
「兄上は、そうでないことをご存知なのでしょう?」
サトリは悪戯っぽく笑った。
「コトリは、楽師団の活動を知っているんだね」
王立楽師団は、全員女人で構成されている。シェンシャンを演奏できることが基本だが、中には別の楽器を嗜む者もいる。その腕前が優秀でなければならないのはもちろんのこと、教養も必要で、容姿も端麗でなければならない。
これは、国賓を迎えるような行事や、王族が催す年中行事に華を添える役目を担っているからだ。そのため、都会的な派手な印象を持たれがちな楽師団だが、実際の活動は地方で行われることも多い。
そもそも楽師団は、初代王が国の各地方でシェンシャンの演奏を奉納し、土地の神々へ平和と豊穣を祈念していた行事を引き継ぐために創立された。今でも、かなり簡略化されてはいるが、細々とその習わしは受け継がれているのである。
「はい。儀式がどれ程の効果を生み出しているのかは分かりませんが、今の世まで続いているということは、きっと意味のあることなのだと思っています」
サトリは、コトリの返事に満足した様子だった。
「その通り。父上は形骸化した儀式など金の無駄だと言って予算を減らし、遠征の回数を減らすよう仕向けているようだが、早速明らかな支障が出ている。ほら、これを見てごらん」
コトリは、サトリから差し出された綴じ本に視線を落とした。
「こちらはシェンシャンを使った祈祷を行った土地。で、こっちは行わなかった土地」
それは、国民の主食たる穀物を始めとする、農産物の生産高の書き付けである。もちろん、その土地によって気候条件などの環境は異なるため、元々農業の向き不向きはあるだろう。しかし、そこにある数字は見るからにして数倍の差が開いていたのである。
「農産物だけではないよ。畜産も、織りなどといった工業もだ」
「兄上、ここまでとは存じておりませんでした」
「だから、コトリ程の奏者が楽師団に入ることは国にとって悪いことではない。シェンシャンの良い音色は、土地に幸福をもたらすと言われているからね。でも、君の目的は別にあるだろう?」
コトリはうっかり動揺してしまい、平静を保つことはできなかった。
「私はもう、これ以上親子二代に渡り、あの人に振り回され続けるのは御免ですから」
「それも、そうだろう。でも、他にもある」
サトリの笑みが怖い。逃げられないと思ったコトリは渋々口を開く。
「好きな人を好きでいることは、そんなに罪でしょうか?」
コトリの中で、在りし日の母親の顔が浮かびあがる。まだコトリが大きなシェンシャンを抱えるにも苦労していた幼い頃のことだ。
「コトリは好きな人と一緒になってね」
母親の声が、シェンシャンの音色のように穏やかで優しく響く。
「でもコトリは王女です。選べる立場にはないのです」
「そうね。でも、王女以前にあなたは女の子だもの。人を好きになることは苦しいし、難しい。でも、きっとコトリを幸せにすると思うわ」
コトリは、母親の深い色合いの瞳から悟った。母親にも好きな人がいたこと。そして、それは父親ではないことを。
「分かりました」
気づいたら、そう答えていた。
「ありがとう、コトリ。好きな人を好きでいることを諦めないで」
「はい」
当時は理解していたつもりでいた言葉も、今となっては全くそうでなかったことが分かる。同時に、その言葉が今のコトリを支え、背を押してくれていることに感懐を覚えるのであった。
サトリは困ったように眉を下げる。
「僕の妹は想像以上に大人になっていたようだね」
「ごめんなさい」
コトリは、何だか謝らなければならない気がしていた。
「いいんだ。結局のところ、コトリの決心には賛成している」
その理由は、コトリの想像をはるかに超えたものだった。
「このままでは、我が国だけでなく、ソラ国も危ない。つまり、カケル王子も危ない」
サトリによると、コトリは帝国への人質どころか、完全なる捨て駒扱いだったというのだ。父親である王は、クレナ王家の一人娘を帝国の道楽のために宛がうことで、軍事的な支援を受けようとしていた。そして一気にソラ国へ侵攻し、クレナに吸収するという作戦があると言う。
「まず狙われるのは王族だろう。地方都市を一つ一つ陥落させて実行的支配していくよりも、都と司令塔たる王家を抑える方が効率的だ。ソラ国は神具の生産や研究が盛んだけれど、クレナよりも軍事の分野は遅れている。そこに帝国の兵器と鍛え抜かれた軍隊が攻めかかるとなると、ひとたまりもない」
いつの間にか、コトリの顔からは血色が無くなっていた。
「でもね、帝国にとって我が国もソラ国も取るに足りない規模だ。わざわざ攻め滅ぼす価値すら感じていない」
「ならば!」
「ただし、今のところ、の話だ。今後はどうなるかは分からない」
「そんな……」
コトリは頭が真っ白になっていた。恋だの何だのと浮かれていた自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。
しかし、サトリは問題提起だけで終わる男ではない。コトリにここまで話したのには、考えあってのことだった。
「大丈夫だよ、コトリ。コトリが今すべきことは、立派な楽師になることだ。我が国の歴史を振り返ると、何度も楽師が奇跡を起こして国を外敵から守ってきた」
「でも、それは事実を大袈裟にした作り話では……」
「そんなことはない」
サトリはきっぱりと否定する。
「それとね、覚えておいて? ソラ国は神具を創る国。クレナ国はそれを奏でる国。互いに互いの存在があるからこそ、長く発展してこれた。人は誰しも一人だけでは生きていけないし、必ず誰か支えとなる人が必要になるものなのさ」
「だから、クレナ国はソラ国を見捨ててはいけない」
「その通り。父上は間違っている。単なる己の自己顕示と支配欲のためだけに、国を、そして娘を破滅させるなんて許されない」
コトリは、心の中がすっと凪いでいくのを感じた。どこか、後ろめたいものはあったのだ。それが、サトリによって正当化された。女として、コトリ個人としての決意が、王女としての責任感をもって増強されていく。
サトリは、ようやくコトリの手にあったシェンシャンの箱を受け取った。
「そうだ、コトリ。楽師団としてソラ国へ行った際は、殊更心を込めて演奏をすると良い。それがソラ国の守りを固めることになるよ」
ソラ国には、クレナ国ほど良い奏者に恵まれていない。そのため、楽師団を迎えた折には、国を上げての豊穣と平和の祈祷を行うのが通例なのだ。
コトリは元気よく頷いた。
「兄上、ありがとうございます」
「後は、無事に入団試験に合格するだけだね。入った後も大変なことはあるだろうけれど、きっと切磋琢磨できる良き仲間にも巡り会えるだろう。それがいずれコトリの力になるはずだ」
外は、もうすっかり夜が明けている。そろそろ人が起き出して、宮の外も騒がしくなってくることだろう。サトリはコトリに暫くの別れを告げた。コトリは来たときよりも軽やかな足取りで去っていく。
王宮を秘密裏に抜け出すために、侍女の変装をした妹。被った頭巾からはみ出た紅の髪が跳ねている。その後ろ姿が見えなくなるまで、サトリは廊下に立ち尽くしていた。
生まれたばかりの朝の白い光が、彼の口元を照らす。
「姉上は元気だろうか。これで、兄上を追い越せるだろうか」
サトリが忙しく、疲労困憊な中、コトリを相手していたのには幾分打算もあった。
古い書物で確認した限り、初代王の先祖返りのような容姿と、シェンシャンの腕前を持つ少女。この人物に懸けてみたい。そう思わせるだけの何かを持っているのは確かなのだ。
「僕も王子を辞められたらいいのだけれど」
サトリの日々の苦労を察することができるだけに、コトリは何も言えなくなってしまった。
「念の為に聞くけれど、王女としての責任は放棄するんだね?」
「いえ、そういうわけでは」
咄嗟に返事した。コトリは母親が元庶民だが、生まれも育ちも王宮。言葉を覚えるよりも早くから、王族の心構えを繰り返し教え込まれてきた身だ。今、自らがしようとしていることの重大さは理解できている。けれど、譲れないものはあるのだ。
コトリは深呼吸した後、ゆっくりとサトリを見上げた。兄もまた、少し威嚇するように目を細めてコトリを見据えている。
「私は王女を辞めますが、今後も国の発展には貢献したいのです。その方法は人それぞれ。兄上はその明晰な頭脳がおありですし、私の場合はシェンシャンがあります」
「父上はシェンシャンをただの楽器だと思っているみたいだけど」
「兄上は、そうでないことをご存知なのでしょう?」
サトリは悪戯っぽく笑った。
「コトリは、楽師団の活動を知っているんだね」
王立楽師団は、全員女人で構成されている。シェンシャンを演奏できることが基本だが、中には別の楽器を嗜む者もいる。その腕前が優秀でなければならないのはもちろんのこと、教養も必要で、容姿も端麗でなければならない。
これは、国賓を迎えるような行事や、王族が催す年中行事に華を添える役目を担っているからだ。そのため、都会的な派手な印象を持たれがちな楽師団だが、実際の活動は地方で行われることも多い。
そもそも楽師団は、初代王が国の各地方でシェンシャンの演奏を奉納し、土地の神々へ平和と豊穣を祈念していた行事を引き継ぐために創立された。今でも、かなり簡略化されてはいるが、細々とその習わしは受け継がれているのである。
「はい。儀式がどれ程の効果を生み出しているのかは分かりませんが、今の世まで続いているということは、きっと意味のあることなのだと思っています」
サトリは、コトリの返事に満足した様子だった。
「その通り。父上は形骸化した儀式など金の無駄だと言って予算を減らし、遠征の回数を減らすよう仕向けているようだが、早速明らかな支障が出ている。ほら、これを見てごらん」
コトリは、サトリから差し出された綴じ本に視線を落とした。
「こちらはシェンシャンを使った祈祷を行った土地。で、こっちは行わなかった土地」
それは、国民の主食たる穀物を始めとする、農産物の生産高の書き付けである。もちろん、その土地によって気候条件などの環境は異なるため、元々農業の向き不向きはあるだろう。しかし、そこにある数字は見るからにして数倍の差が開いていたのである。
「農産物だけではないよ。畜産も、織りなどといった工業もだ」
「兄上、ここまでとは存じておりませんでした」
「だから、コトリ程の奏者が楽師団に入ることは国にとって悪いことではない。シェンシャンの良い音色は、土地に幸福をもたらすと言われているからね。でも、君の目的は別にあるだろう?」
コトリはうっかり動揺してしまい、平静を保つことはできなかった。
「私はもう、これ以上親子二代に渡り、あの人に振り回され続けるのは御免ですから」
「それも、そうだろう。でも、他にもある」
サトリの笑みが怖い。逃げられないと思ったコトリは渋々口を開く。
「好きな人を好きでいることは、そんなに罪でしょうか?」
コトリの中で、在りし日の母親の顔が浮かびあがる。まだコトリが大きなシェンシャンを抱えるにも苦労していた幼い頃のことだ。
「コトリは好きな人と一緒になってね」
母親の声が、シェンシャンの音色のように穏やかで優しく響く。
「でもコトリは王女です。選べる立場にはないのです」
「そうね。でも、王女以前にあなたは女の子だもの。人を好きになることは苦しいし、難しい。でも、きっとコトリを幸せにすると思うわ」
コトリは、母親の深い色合いの瞳から悟った。母親にも好きな人がいたこと。そして、それは父親ではないことを。
「分かりました」
気づいたら、そう答えていた。
「ありがとう、コトリ。好きな人を好きでいることを諦めないで」
「はい」
当時は理解していたつもりでいた言葉も、今となっては全くそうでなかったことが分かる。同時に、その言葉が今のコトリを支え、背を押してくれていることに感懐を覚えるのであった。
サトリは困ったように眉を下げる。
「僕の妹は想像以上に大人になっていたようだね」
「ごめんなさい」
コトリは、何だか謝らなければならない気がしていた。
「いいんだ。結局のところ、コトリの決心には賛成している」
その理由は、コトリの想像をはるかに超えたものだった。
「このままでは、我が国だけでなく、ソラ国も危ない。つまり、カケル王子も危ない」
サトリによると、コトリは帝国への人質どころか、完全なる捨て駒扱いだったというのだ。父親である王は、クレナ王家の一人娘を帝国の道楽のために宛がうことで、軍事的な支援を受けようとしていた。そして一気にソラ国へ侵攻し、クレナに吸収するという作戦があると言う。
「まず狙われるのは王族だろう。地方都市を一つ一つ陥落させて実行的支配していくよりも、都と司令塔たる王家を抑える方が効率的だ。ソラ国は神具の生産や研究が盛んだけれど、クレナよりも軍事の分野は遅れている。そこに帝国の兵器と鍛え抜かれた軍隊が攻めかかるとなると、ひとたまりもない」
いつの間にか、コトリの顔からは血色が無くなっていた。
「でもね、帝国にとって我が国もソラ国も取るに足りない規模だ。わざわざ攻め滅ぼす価値すら感じていない」
「ならば!」
「ただし、今のところ、の話だ。今後はどうなるかは分からない」
「そんな……」
コトリは頭が真っ白になっていた。恋だの何だのと浮かれていた自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。
しかし、サトリは問題提起だけで終わる男ではない。コトリにここまで話したのには、考えあってのことだった。
「大丈夫だよ、コトリ。コトリが今すべきことは、立派な楽師になることだ。我が国の歴史を振り返ると、何度も楽師が奇跡を起こして国を外敵から守ってきた」
「でも、それは事実を大袈裟にした作り話では……」
「そんなことはない」
サトリはきっぱりと否定する。
「それとね、覚えておいて? ソラ国は神具を創る国。クレナ国はそれを奏でる国。互いに互いの存在があるからこそ、長く発展してこれた。人は誰しも一人だけでは生きていけないし、必ず誰か支えとなる人が必要になるものなのさ」
「だから、クレナ国はソラ国を見捨ててはいけない」
「その通り。父上は間違っている。単なる己の自己顕示と支配欲のためだけに、国を、そして娘を破滅させるなんて許されない」
コトリは、心の中がすっと凪いでいくのを感じた。どこか、後ろめたいものはあったのだ。それが、サトリによって正当化された。女として、コトリ個人としての決意が、王女としての責任感をもって増強されていく。
サトリは、ようやくコトリの手にあったシェンシャンの箱を受け取った。
「そうだ、コトリ。楽師団としてソラ国へ行った際は、殊更心を込めて演奏をすると良い。それがソラ国の守りを固めることになるよ」
ソラ国には、クレナ国ほど良い奏者に恵まれていない。そのため、楽師団を迎えた折には、国を上げての豊穣と平和の祈祷を行うのが通例なのだ。
コトリは元気よく頷いた。
「兄上、ありがとうございます」
「後は、無事に入団試験に合格するだけだね。入った後も大変なことはあるだろうけれど、きっと切磋琢磨できる良き仲間にも巡り会えるだろう。それがいずれコトリの力になるはずだ」
外は、もうすっかり夜が明けている。そろそろ人が起き出して、宮の外も騒がしくなってくることだろう。サトリはコトリに暫くの別れを告げた。コトリは来たときよりも軽やかな足取りで去っていく。
王宮を秘密裏に抜け出すために、侍女の変装をした妹。被った頭巾からはみ出た紅の髪が跳ねている。その後ろ姿が見えなくなるまで、サトリは廊下に立ち尽くしていた。
生まれたばかりの朝の白い光が、彼の口元を照らす。
「姉上は元気だろうか。これで、兄上を追い越せるだろうか」
サトリが忙しく、疲労困憊な中、コトリを相手していたのには幾分打算もあった。
古い書物で確認した限り、初代王の先祖返りのような容姿と、シェンシャンの腕前を持つ少女。この人物に懸けてみたい。そう思わせるだけの何かを持っているのは確かなのだ。
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