7 / 214
06恋に落ちたかのような
しおりを挟む
試験の前日になると、コトリの部屋の中はすっかり閑散としていた。コトリとしてはもう王女に戻るつもりがないらしく、新生活で無用な物は高級品であろと周りの侍女達に下げ渡し、身軽となって門出を迎えようとしている。
そこへ、一人の侍女がコトリの部屋へ荷物を持ってやってきた。それを慌ててサヨが受け取って、すぐに中を検める。桃色の見事な薔薇だ。
「姫様、れいの物の準備ができました。そこのあなた、私は少し出てくるから、このお花をそちらの卓の上に飾っておいてちょうだい」
サヨは指示を飛ばすと、赤茶の衣をフワリと翻して、足早に部屋を出ていった。
そして一刻後戻ってきた彼女の手にあったのは、先程届いたものよりも少し大きな箱である。
「姫様、こちらでございます」
待ちきれないコトリは、自らその荷を開封して、頑丈な包みの中身を覗き込んだ。シェンシャンである。
「素晴らしいわ。希望通りね」
まず、外見は王女の目に叶ったようだ。後は、その音色である。
サヨに手伝ってもらいながらシェンシャンを取り出すと、コトリは早速その身に新たな相棒を引き寄せた。卓の引き出しを開けて、手探りでシェンシャンを弾くための弾片を見つける。右手でそれを手に構えた瞬間、コトリの顔は別人のように引き締まった。
シェンシャンは、胴と呼ばれる楽器中央の円形の箱部分があり、音を跳ね返して増幅させることができる。そこに職人によって丹念に描き込まれた無数の花柄は、紫陽花を模したもの。コトリが好きな花だ。この上で弾片が踊ることとなる。
そして、胴から伸びるほっそりとした長い柄のような部分は棹と呼ばれているもの。コトリが握るとしっかりと手に馴染む。棹の上に重なっているのは指板と柱、四本の弦だ。この上に左手指を滑らせて、音階を操ることとなる。
棹の最も高い部分には、これまた花を象ったような控えめな装飾がなされた蓮頭があり、高級楽器にありがちな輝石や金箔の埋め込みはないものの、大変上品で、控えめながらも華やかさのあるシェンシャンである。
コトリは、緊張を滲ませながらも、弾片を弦に当ててみた。
シェンシャンが、鳴いた。
たった一音。それでも、しっかりと立ち上がった存在感ある音色は、確実にコトリの心を捉えた。
さらに、四本の弦を上から順に素早く弾き下ろしてみる。
天女の楽器。という言葉がコトリの中で浮かぶ。それ程に浮世離れした美しくも不思議な和音が目の前に広がったのだ。
「サヨ、どうしよう。私、何だか涙が止まらないの」
音が消えてもなお、その名残がコトリの胸の内側にこだまし続け、どこまでも深くしっとりと浸透していく。自分でも、シェンシャンという楽器との相性が良いことは自負していたが、自らが奏でる音にここまで感動してしまったのは初めてのことだ。
「本当に、素晴らしいわ」
見ると、サヨも放心状態になっていた。その瞳は恍惚としている。唇を震わせているものの、類まれなる体験の尊さのあまり、声を出せずにいるのだ。
コトリは、シェンシャンを少し持ち上げると、胴の部分にある紫陽花にひたっと頬を寄せた。その瞬間、心の臓がトクンっと跳ねる。この感覚をコトリは知っている。
「私、あなたに恋したかもしれない」
シェンシャンを抱きしめる腕に力を込める。これは、運命との出会い。
「あなたとならば、この先、どんな荒波でも乗り越えていける気がするわ」
その日、コトリは夜遅くまでそのシェンシャンを弾き続けた。これまで使っていた物も、初代王クレナの遺品で、かなり良い品であったが、新たなシェンシャンはコトリの心により強く寄り添い、応えてくれる。まるで生まれる前からの親友のように、深い結びつきが生まれていた。
サヨは、音を漏らさぬ墨色の御簾越しにその様子をじっと見守る。主の喜びを我が喜びとする彼女は、ほっと胸を撫でおろし、翌日の試験の成功を祈念するのである。
◇
試験当日、コトリの朝は早かった。まだ空が白み始める前に支度を済ませて部屋を出る。長年住み続けた部屋との別れは呆気なく、薄暗い廊下を足元を潜ませて進むのだった。
辿り着いたのは、コトリが住んでいた所から二つ隣の宮。扉の下へ薄い紙を差し込むと、コツコツと硬い音が返ってきた。コトリはさっと周囲を見渡した後、素早く扉の向こうへ滑り込む。
「朝早くからありがとうございます」
深く下げた頭を元に戻すと、コトリの前には柔和な雰囲気の男が現れた。赤みの強い茶色の長い髪を左肩から垂らしている。
「サトリ兄上にしか頼めないことなのです」
サトリは、二十歳。三人いる男兄弟のうち、一番下の兄だ。今日も徹夜明けなのか、疲労を滲ませていて、実年齢よりも少し老けて見える。彼の背後には山積みの書類もあり、コトリはそれを目にして身を縮めた。
「失敗の多い部下や、要らぬ仕事ばかり増やす古狸ならともかく、可愛い妹からの願いだ。聞かないなんて選択肢はない」
そう言って、サトリはコトリを手招きし、手慣れた様子で椅子に座らせる。
「預かってほしい物が、それなんだね?」
「はい」
「新しいものは、ちゃんと用意したの?」
「はい」
コトリは、昨日まで使っていたシェンシャンの箱を抱えていた。
「嫌な縁談から逃げるために、得意のシェンシャンで生きる、か。羨ましいよ」
サトリの目が鈍い光を放つ。獲物を狙う大鷲のように見えた。
そこへ、一人の侍女がコトリの部屋へ荷物を持ってやってきた。それを慌ててサヨが受け取って、すぐに中を検める。桃色の見事な薔薇だ。
「姫様、れいの物の準備ができました。そこのあなた、私は少し出てくるから、このお花をそちらの卓の上に飾っておいてちょうだい」
サヨは指示を飛ばすと、赤茶の衣をフワリと翻して、足早に部屋を出ていった。
そして一刻後戻ってきた彼女の手にあったのは、先程届いたものよりも少し大きな箱である。
「姫様、こちらでございます」
待ちきれないコトリは、自らその荷を開封して、頑丈な包みの中身を覗き込んだ。シェンシャンである。
「素晴らしいわ。希望通りね」
まず、外見は王女の目に叶ったようだ。後は、その音色である。
サヨに手伝ってもらいながらシェンシャンを取り出すと、コトリは早速その身に新たな相棒を引き寄せた。卓の引き出しを開けて、手探りでシェンシャンを弾くための弾片を見つける。右手でそれを手に構えた瞬間、コトリの顔は別人のように引き締まった。
シェンシャンは、胴と呼ばれる楽器中央の円形の箱部分があり、音を跳ね返して増幅させることができる。そこに職人によって丹念に描き込まれた無数の花柄は、紫陽花を模したもの。コトリが好きな花だ。この上で弾片が踊ることとなる。
そして、胴から伸びるほっそりとした長い柄のような部分は棹と呼ばれているもの。コトリが握るとしっかりと手に馴染む。棹の上に重なっているのは指板と柱、四本の弦だ。この上に左手指を滑らせて、音階を操ることとなる。
棹の最も高い部分には、これまた花を象ったような控えめな装飾がなされた蓮頭があり、高級楽器にありがちな輝石や金箔の埋め込みはないものの、大変上品で、控えめながらも華やかさのあるシェンシャンである。
コトリは、緊張を滲ませながらも、弾片を弦に当ててみた。
シェンシャンが、鳴いた。
たった一音。それでも、しっかりと立ち上がった存在感ある音色は、確実にコトリの心を捉えた。
さらに、四本の弦を上から順に素早く弾き下ろしてみる。
天女の楽器。という言葉がコトリの中で浮かぶ。それ程に浮世離れした美しくも不思議な和音が目の前に広がったのだ。
「サヨ、どうしよう。私、何だか涙が止まらないの」
音が消えてもなお、その名残がコトリの胸の内側にこだまし続け、どこまでも深くしっとりと浸透していく。自分でも、シェンシャンという楽器との相性が良いことは自負していたが、自らが奏でる音にここまで感動してしまったのは初めてのことだ。
「本当に、素晴らしいわ」
見ると、サヨも放心状態になっていた。その瞳は恍惚としている。唇を震わせているものの、類まれなる体験の尊さのあまり、声を出せずにいるのだ。
コトリは、シェンシャンを少し持ち上げると、胴の部分にある紫陽花にひたっと頬を寄せた。その瞬間、心の臓がトクンっと跳ねる。この感覚をコトリは知っている。
「私、あなたに恋したかもしれない」
シェンシャンを抱きしめる腕に力を込める。これは、運命との出会い。
「あなたとならば、この先、どんな荒波でも乗り越えていける気がするわ」
その日、コトリは夜遅くまでそのシェンシャンを弾き続けた。これまで使っていた物も、初代王クレナの遺品で、かなり良い品であったが、新たなシェンシャンはコトリの心により強く寄り添い、応えてくれる。まるで生まれる前からの親友のように、深い結びつきが生まれていた。
サヨは、音を漏らさぬ墨色の御簾越しにその様子をじっと見守る。主の喜びを我が喜びとする彼女は、ほっと胸を撫でおろし、翌日の試験の成功を祈念するのである。
◇
試験当日、コトリの朝は早かった。まだ空が白み始める前に支度を済ませて部屋を出る。長年住み続けた部屋との別れは呆気なく、薄暗い廊下を足元を潜ませて進むのだった。
辿り着いたのは、コトリが住んでいた所から二つ隣の宮。扉の下へ薄い紙を差し込むと、コツコツと硬い音が返ってきた。コトリはさっと周囲を見渡した後、素早く扉の向こうへ滑り込む。
「朝早くからありがとうございます」
深く下げた頭を元に戻すと、コトリの前には柔和な雰囲気の男が現れた。赤みの強い茶色の長い髪を左肩から垂らしている。
「サトリ兄上にしか頼めないことなのです」
サトリは、二十歳。三人いる男兄弟のうち、一番下の兄だ。今日も徹夜明けなのか、疲労を滲ませていて、実年齢よりも少し老けて見える。彼の背後には山積みの書類もあり、コトリはそれを目にして身を縮めた。
「失敗の多い部下や、要らぬ仕事ばかり増やす古狸ならともかく、可愛い妹からの願いだ。聞かないなんて選択肢はない」
そう言って、サトリはコトリを手招きし、手慣れた様子で椅子に座らせる。
「預かってほしい物が、それなんだね?」
「はい」
「新しいものは、ちゃんと用意したの?」
「はい」
コトリは、昨日まで使っていたシェンシャンの箱を抱えていた。
「嫌な縁談から逃げるために、得意のシェンシャンで生きる、か。羨ましいよ」
サトリの目が鈍い光を放つ。獲物を狙う大鷲のように見えた。
0
お気に入りに追加
22
あなたにおすすめの小説
王宮医務室にお休みはありません。~休日出勤に疲れていたら、結婚前提のお付き合いを希望していたらしい騎士さまとデートをすることになりました。~
石河 翠
恋愛
王宮の医務室に勤める主人公。彼女は、連続する遅番と休日出勤に疲れはてていた。そんなある日、彼女はひそかに片思いをしていた騎士ウィリアムから夕食に誘われる。
食事に向かう途中、彼女は憧れていたお菓子「マリトッツォ」をウィリアムと美味しく食べるのだった。
そして休日出勤の当日。なぜか、彼女は怒り心頭の男になぐりこまれる。なんと、彼女に仕事を押しつけている先輩は、父親には自分が仕事を押しつけられていると話していたらしい。
しかし、そんな先輩にも実は誰にも相談できない事情があったのだ。ピンチに陥る彼女を救ったのは、やはりウィリアム。ふたりの距離は急速に近づいて……。
何事にも真面目で一生懸命な主人公と、誠実な騎士との恋物語。
扉絵は管澤捻さまに描いていただきました。
小説家になろう及びエブリスタにも投稿しております。
王様の恥かきっ娘
青の雀
恋愛
恥かきっ子とは、親が年老いてから子供ができること。
本当は、元気でおめでたいことだけど、照れ隠しで、その年齢まで夫婦の営みがあったことを物語り世間様に向けての恥をいう。
孫と同い年の王女殿下が生まれたことで巻き起こる騒動を書きます
物語は、卒業記念パーティで婚約者から婚約破棄されたところから始まります
これもショートショートで書く予定です。
(完結)王子と公爵令嬢の駆け落ち
七辻ゆゆ
恋愛
「ツァンテリ、君とは結婚できない。婚約は破棄せざるをえないだろうな」
ツァンテリは唇を噛んだ。この日が来るだろうことは、彼女にもわかっていた。
「殿下のお話の通りだわ! ツァンテリ様って優秀でいらっしゃるけど、王妃って器じゃないもの」
新しく王子の婚約者に選ばれたのはサティ男爵令嬢。ツァンテリにも新しい婚約者ができた。
王家派と公爵派は、もう決して交わらない。二人の元婚約者はどこへ行くのか。
意地を張っていたら6年もたってしまいました
Hkei
恋愛
「セドリック様が悪いのですわ!」
「そうか?」
婚約者である私の誕生日パーティーで他の令嬢ばかり褒めて、そんなに私のことが嫌いですか!
「もう…セドリック様なんて大嫌いです!!」
その後意地を張っていたら6年もたってしまっていた二人の話。
【完結】聖女になり損なった刺繍令嬢は逃亡先で幸福を知る。
みやこ嬢
恋愛
「ルーナ嬢、神聖なる聖女選定の場で不正を働くとは何事だ!」
魔法国アルケイミアでは魔力の多い貴族令嬢の中から聖女を選出し、王子の妃とするという古くからの習わしがある。
ところが、最終試験まで残ったクレモント侯爵家令嬢ルーナは不正を疑われて聖女候補から外されてしまう。聖女になり損なった失意のルーナは義兄から襲われたり高齢宰相の後妻に差し出されそうになるが、身を守るために侍女ティカと共に逃げ出した。
あてのない旅に出たルーナは、身を寄せた隣国シュベルトの街で運命的な出会いをする。
【2024年3月16日完結、全58話】
モブの私がなぜかヒロインを押し退けて王太子殿下に選ばれました
みゅー
恋愛
その国では婚約者候補を集め、その中から王太子殿下が自分の婚約者を選ぶ。
ケイトは自分がそんな乙女ゲームの世界に、転生してしまったことを知った。
だが、ケイトはそのゲームには登場しておらず、気にせずそのままその世界で自分の身の丈にあった普通の生活をするつもりでいた。だが、ある日宮廷から使者が訪れ、婚約者候補となってしまい……
そんなお話です。
溺愛最強 ~気づいたらゲームの世界に生息していましたが、悪役令嬢でもなければ断罪もされないので、とにかく楽しむことにしました~
夏笆(なつは)
恋愛
「おねえしゃま。こえ、すっごくおいしいでし!」
弟のその言葉は、晴天の霹靂。
アギルレ公爵家の長女であるレオカディアは、その瞬間、今自分が生きる世界が前世で楽しんだゲーム「エトワールの称号」であることを知った。
しかし、自分は王子エルミニオの婚約者ではあるものの、このゲームには悪役令嬢という役柄は存在せず、断罪も無いので、攻略対象とはなるべく接触せず、穏便に生きて行けば大丈夫と、生きることを楽しむことに決める。
醤油が欲しい、うにが食べたい。
レオカディアが何か「おねだり」するたびに、アギルレ領は、周りの領をも巻き込んで豊かになっていく。
既にゲームとは違う展開になっている人間関係、その学院で、ゲームのヒロインは前世の記憶通りに攻略を開始するのだが・・・・・?
小説家になろうにも掲載しています。
巻添え召喚されたので、引きこもりスローライフを希望します!
あきづきみなと
ファンタジー
階段から女の子が降ってきた!?
資料を抱えて歩いていた紗江は、階段から飛び下りてきた転校生に巻き込まれて転倒する。気がついたらその彼女と二人、全く知らない場所にいた。
そしてその場にいた人達は、聖女を召喚したのだという。
どちらが『聖女』なのか、と問われる前に転校生の少女が声をあげる。
「私、ガンバる!」
だったら私は帰してもらえない?ダメ?
聖女の扱いを他所に、巻き込まれた紗江が『食』を元に自分の居場所を見つける話。
スローライフまでは到達しなかったよ……。
緩いざまああり。
注意
いわゆる『キラキラネーム』への苦言というか、マイナス感情の描写があります。気にされる方には申し訳ありませんが、作中人物の説明には必要と考えました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる