琴姫の奏では紫雲を呼ぶ

山下真響

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06恋に落ちたかのような

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 試験の前日になると、コトリの部屋の中はすっかり閑散としていた。コトリとしてはもう王女に戻るつもりがないらしく、新生活で無用な物は高級品であろと周りの侍女達に下げ渡し、身軽となって門出を迎えようとしている。

 そこへ、一人の侍女がコトリの部屋へ荷物を持ってやってきた。それを慌ててサヨが受け取って、すぐに中を検める。桃色の見事な薔薇だ。

「姫様、れいの物の準備ができました。そこのあなた、私は少し出てくるから、このお花をそちらの卓の上に飾っておいてちょうだい」

 サヨは指示を飛ばすと、赤茶の衣をフワリと翻して、足早に部屋を出ていった。
 そして一刻後戻ってきた彼女の手にあったのは、先程届いたものよりも少し大きな箱である。

「姫様、こちらでございます」

 待ちきれないコトリは、自らその荷を開封して、頑丈な包みの中身を覗き込んだ。シェンシャンである。

「素晴らしいわ。希望通りね」

 まず、外見は王女の目に叶ったようだ。後は、その音色である。

 サヨに手伝ってもらいながらシェンシャンを取り出すと、コトリは早速その身に新たな相棒を引き寄せた。卓の引き出しを開けて、手探りでシェンシャンを弾くための弾片を見つける。右手でそれを手に構えた瞬間、コトリの顔は別人のように引き締まった。

 シェンシャンは、胴と呼ばれる楽器中央の円形の箱部分があり、音を跳ね返して増幅させることができる。そこに職人によって丹念に描き込まれた無数の花柄は、紫陽花を模したもの。コトリが好きな花だ。この上で弾片が踊ることとなる。

 そして、胴から伸びるほっそりとした長い柄のような部分は棹と呼ばれているもの。コトリが握るとしっかりと手に馴染む。棹の上に重なっているのは指板と柱、四本の弦だ。この上に左手指を滑らせて、音階を操ることとなる。

 棹の最も高い部分には、これまた花を象ったような控えめな装飾がなされた蓮頭があり、高級楽器にありがちな輝石や金箔の埋め込みはないものの、大変上品で、控えめながらも華やかさのあるシェンシャンである。

 コトリは、緊張を滲ませながらも、弾片を弦に当ててみた。

 シェンシャンが、鳴いた。

 たった一音。それでも、しっかりと立ち上がった存在感ある音色は、確実にコトリの心を捉えた。

 さらに、四本の弦を上から順に素早く弾き下ろしてみる。

 天女の楽器。という言葉がコトリの中で浮かぶ。それ程に浮世離れした美しくも不思議な和音が目の前に広がったのだ。

「サヨ、どうしよう。私、何だか涙が止まらないの」

 音が消えてもなお、その名残がコトリの胸の内側にこだまし続け、どこまでも深くしっとりと浸透していく。自分でも、シェンシャンという楽器との相性が良いことは自負していたが、自らが奏でる音にここまで感動してしまったのは初めてのことだ。

「本当に、素晴らしいわ」

 見ると、サヨも放心状態になっていた。その瞳は恍惚としている。唇を震わせているものの、類まれなる体験の尊さのあまり、声を出せずにいるのだ。

 コトリは、シェンシャンを少し持ち上げると、胴の部分にある紫陽花にひたっと頬を寄せた。その瞬間、心の臓がトクンっと跳ねる。この感覚をコトリは知っている。

「私、あなたに恋したかもしれない」

 シェンシャンを抱きしめる腕に力を込める。これは、運命との出会い。

「あなたとならば、この先、どんな荒波でも乗り越えていける気がするわ」

 その日、コトリは夜遅くまでそのシェンシャンを弾き続けた。これまで使っていた物も、初代王クレナの遺品で、かなり良い品であったが、新たなシェンシャンはコトリの心により強く寄り添い、応えてくれる。まるで生まれる前からの親友のように、深い結びつきが生まれていた。

 サヨは、音を漏らさぬ墨色の御簾越しにその様子をじっと見守る。主の喜びを我が喜びとする彼女は、ほっと胸を撫でおろし、翌日の試験の成功を祈念するのである。


 ◇


 試験当日、コトリの朝は早かった。まだ空が白み始める前に支度を済ませて部屋を出る。長年住み続けた部屋との別れは呆気なく、薄暗い廊下を足元を潜ませて進むのだった。

 辿り着いたのは、コトリが住んでいた所から二つ隣の宮。扉の下へ薄い紙を差し込むと、コツコツと硬い音が返ってきた。コトリはさっと周囲を見渡した後、素早く扉の向こうへ滑り込む。

「朝早くからありがとうございます」

 深く下げた頭を元に戻すと、コトリの前には柔和な雰囲気の男が現れた。赤みの強い茶色の長い髪を左肩から垂らしている。

「サトリ兄上にしか頼めないことなのです」

 サトリは、二十歳。三人いる男兄弟のうち、一番下の兄だ。今日も徹夜明けなのか、疲労を滲ませていて、実年齢よりも少し老けて見える。彼の背後には山積みの書類もあり、コトリはそれを目にして身を縮めた。

「失敗の多い部下や、要らぬ仕事ばかり増やす古狸ならともかく、可愛い妹からの願いだ。聞かないなんて選択肢はない」

 そう言って、サトリはコトリを手招きし、手慣れた様子で椅子に座らせる。

「預かってほしい物が、それなんだね?」
「はい」
「新しいものは、ちゃんと用意したの?」
「はい」

 コトリは、昨日まで使っていたシェンシャンの箱を抱えていた。

「嫌な縁談から逃げるために、得意のシェンシャンで生きる、か。羨ましいよ」

 サトリの目が鈍い光を放つ。獲物を狙う大鷲のように見えた。

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