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57・これが、その理由

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「え……」

 友達を、やめる?!

「結恵、落ち着いて!」

 竹村係長は咎めるような声を出すけれど、落ち着いていられるわけがない。小学生の頃に起きたあの事件以降、初めてできた私の大切な友達。かけがえのないそのポジションにいるのが小百合だ。小百合がいなくなったら、私はどうやって生きていけば良いのだろう。

 私が慌ててベッドから起きだそうとしてよろめくと、竹村係長が肩を支えてくれた。

「私、わたし、ワタシ……」

 ここは病院。目の前には会社でお世話になっている方々がいる。イベント終了直後というややこしいタイミングで倒れて既に迷惑をかけているのに、さらにこんなに取り乱してはいけないことも分かっている。でも! これは私の人生に関わるあまりに大きな問題。とても普通じゃいられない。

「小百合! 小百合!」

 泣き叫ぶ私を新田くんと雪乃ちゃんはオロオロしながら見守っている。

「もう面会時間はとっくに過ぎている。紀川は本当に疲れてるんだ。お前達は先に帰れ!」

 そう厳しい調子で告げる竹村係長に新田くんは負けじとその場に踏みとどまろうとしていたが、雪乃ちゃんが強引に病室の外へ連れていった。

 残されたのは、私、竹村係長。そして、小百合。急に辺りが静かになった。私の左腕に刺さっている点滴が細い管をゆっくりと流れる音が聞こえそうな程に張り詰めた静寂。

「結恵」
「小百合」

 小百合がこちらへ一歩近づく。再びベッドへ横になった私の前髪をそっと横に分けて、額に白い手を乗せた。体温のようなものは感じられないが、圧倒的な何かの重みを感じる。

「結恵は勘違いしているよ」

 小百合は私の顔を覗き込む。その瞳からは怒りと悲しみ以外にも慈愛が読み取れる。小百合の髪が彼女の肩から一束流れ落ちて、私の頬に当たった。

「私があやつらと同じ『友達』だなんて、我慢ならないね。私は結恵にとって、そんな安い間柄なのかい? 私はもっと特別扱いされていると思っていたよ」
「小百合」
「私は怒っているし安心しているよ。そして申し訳なくも思っている。私が友達じゃなくなると聞いてここまでに取り乱すとはね。でもよく考えてご覧よ。『友達をやめる』。そんな一言きりで私達の縁が本当に無くなってしまうと思うのかい? そんな薄っぺらな関係だったのかい?」
「違うよ、そんなわけない」

 小百合の綺麗な顔とその迫力に負けて、私の歯はカチカチ鳴っている。

「そう。そうだろう? 私達は、特別なんだ。だからこそ、もう友達じゃない。私達は親友なんだよ」
「親友……」

 『し』と『ん』と『ゆ』と『う』の音がぽたりぽたりと雫になって、胸の中に広がる静かな湖の水面にこぼれ落ち、金色の大きな波紋となって広がっていく。身体の細胞レベルにまで染み渡っていくような高い浸透性。なんて温かなのだろう。それでいて芯にしなやかな強さをもち、私と小百合の間を結びつける絆の縄になっている。



 竹村係長は私が落ち着いた頃を見計らって、明日の朝迎えにくると言い残し、病室を出ていった。私と小百合は、一緒にいた。








 翌朝、久方ぶりにまとまった睡眠時間をとれたせいか、目覚めはかなりすっきりしていた。糊がききすぎた硬い掛け布団のシーツはあまり肌に馴染まない。布団から這い出ると一瞬脳しんとうを起こしたが、今回は倒れずに済んだ。運ばれてきた朝食を見て、結局一日入院という形になってしまったということに気づく。やってきた看護師さんに促されるままにお医者様の診察を受けて、退院の準備を進める。竹村係長は十時前にやってきた。

「家に帰ろう」
「はい」

 竹村係長に返事をして初めて気づく。近頃ずっと、『家』とは竹村係長の自宅のことだった。でもイベントが終わった今、本来の私の家であるあの古アパートが私の『家』である。

「小百合は、そちらへ帰ってるの?」
「今朝起きたら、うちにいたよ」

 私達は病院の駐車場へ向かって歩き出した。

「お化けは合鍵ぎがなくても勝手に出入りできるのね」
「鍵、欲しい?」
「まさか」

 竹村係長の赤い車は少し汚れている。あの忙しさだと洗車どころではなかったのだろう。

「そっか」

 竹村係長の声のトーンの低さは、微かに冷ややかさを含むものだった。これが、私が鍵を欲しがらなかったことを残念に思った上でのことならば、私は嬉しい。車は緩やかに発進した。

 竹村係長は法定速度通りのスピードで運転する。見慣れているはずの景色が流れていく。いつの間にか解体が始まっているビル。コンビニだったところが美容室になっていたり。私はそれらの変化に全く気がついていなかった。この街と同じ時間、空間を生きていたはずなのに。私はイベントという不思議体験の中で浦島太郎になっていたのかもしれない。

「着いたよ」との声で我に返り、車を降りた。

「何から何までどうもありがとうございました」

 私はアパートの階段下で竹村係長に向かって頭を下げる。下げたまま、反芻する。

 イベントとは、それすなわち非日常空間である。それは準備も含まれる。その特殊な演劇のキャストであった私はいろんな夢を見させてもらっていた。億単位のお金が投入された華やかな舞台では、疲労と神経の高ぶりがイリュージョンを引き起こす。その雰囲気に酔って、その場限りのダンスを踊るけれど、もう音楽は止まってしまった。

 竹村係長が竹村さんでいてくれるのも、この瞬間がきっと最後だ。私はコンクリートの乾いた地面を見つめたまま、顔を上げた。

「お茶ぐらい出してくれるんだろ?」
「え?」
「病人をこき使うなってか。じゃ、俺が勝手にキッチン使う」

 ここでサヨナラだと思っていた私は、竹村係長の意外な行動にすぐについていけない。私の鞄を奪ってスタスタと階段を登り始めた彼の後ろを未だフラフラする足取りで追いかける。

「あの、もう大丈夫ですよ。病院でしっかり休ませてもらいましたし」
「それで昼からの撤去作業に参加しようとか思ってるんだろう」
「当たり前じゃないですか」

 竹村係長は、私の鞄のポケットからうちの鍵を取り出すとまるで自分の家のように解錠する。久しぶりに帰宅した家は、扉の外にまで少しカビっぽい臭いがした。

「空気悪い」
「……そうですね」

 干しっぱなしの洗濯物がいけなかったのか。そもそもこの古アパートに寿命が近づき、ますます人の住まいとして適さなくなってきているのか。

「で、大掃除はまだしていないみたいだな」

 竹村係長は私の部屋を見渡した。だいたい毎回アポ無しで来るのが悪いのだ。しかも今はイベント明け。唯一、私の家の中の清掃具合を気にかけていた小百合も竹村係長の家に行ってしまったし、綺麗だと期待する方が間違っている。

「また来週末にでもやりますよ。竹村係長もお疲れだと思いますし、今日はもうお引き取りください」
「でもせっかく来たんだ。今日こそ。今日こそ、用事を済ませて帰る」
「用事?」

 この家に用事なんて、検討もつかない。何だろうと思いあぐねている隙に、竹村係長は奥の部屋に入って行き、ベッドの前でしゃがみ込んだ。

「少なくとも、ここは掃除してないみたいだからな」

 ベッドの下を覗き込む竹村係長。ベッドの下って……あぁ!!

「そこは駄目です! そこは! そこだけはやめてー!」

 だってここには、興味本位でうっかり買ってしまったR十八小説を置いてあるのだから! こんなのを上司であり、す……好きな人に見られてしまうとか、どんな罰なの?!

「へぇ、結恵ってこういうのが好みなんだ?」

 竹村係長は、あっという間にジョーカーを引き当ててしまった。表紙からしてエッチなそれらの本をわざわざ中身まで確認してこちらに見せつける。しかも、なぜか嬉しそう。気持ち悪い! 失礼! 最悪! あぁ、穴があれば入りたい。入口を岩で塞いで、一生シャバに出たくない。

「もう! 勝手に人の家の中を漁って何なんですか?! それに私、まだそれは読んでませんから!!」

 私はもうヤケクソだ。

「いや、まさか、こんなのが出てくるのは俺も思ってなかったから」

 竹村係長はカラカラと笑いながら、その場で胡座をかいた。やけにこの部屋に馴染んでいる。

「探してたのは、こっち」

 竹村係長はもう一度頭を低く屈めると、ベッドの下から薄く埃が被った細長い箱を取り出した。

「それ、何ですか?」
「何って、お前ん家にずっとあったものだろ?」
「え、でも私、心当たりがありません」

 竹村係長は、ニヤリと笑った。

「半年遅れの誕生日プレゼント」

 その箱はタータンチェックの模様の包装紙にくるまれていて、赤いリボンがかかり、大きな金色の飾りがくっついている。竹村係長は、近くにあったティッシュペーパーで埃を拭い、私に向かって恭しく差し出した。

「えっ?」

 確かに、私の誕生日は約半年前に過ぎて、二十七歳になってしまった。でも。

「あの日、何ですぐに叫び声に気づいて駆けつけたか分かる?」

 そんなシチュエーション、後にも先にもアレしかないだろう。小百合と初めて出会った夜。そして、初めて竹村係長が家に押しかけてきた日のことだ。竹村係長が「開けて」と急かすものだから、早速開封してみる。マットで質感の良い白い箱が出てきた。それを開けると、さらに箱。このベルベットのような生地感。こういった仕様の箱に入っているものは、かなり限られている。

私はなぜか緊張してしまい、そこで手を止めてしまう。竹村係長を見る。竹村係長は箱を持つ私の手をそのまま自分の手で包み込んだ。

「開けてくれないの?」
「いえ、開けます」

 なぜか敬語になってしまう。私は一度深呼吸をして、そのパールグレーの箱の蓋をそっと開けた。

「これが、その理由」

 あれ、もう夏になったのかな。桜が散ったばかりなのにおかしいな。すごく暑い。そして眩しい。天井の蛍光灯の光を反射して、ありえない程に強く輝いている。

 ふと視線をずらすと、白い箱の中には鑑定書までついていた。

「ダイヤ……モンド?」
「どうせ、こういうのは持っていないだろうと思って」
「こんな高価なの、持ってるわけない」
「貰ってくれる?」

 その声が甘くて、優しすぎて、愛おしくて。

「つけるから、おいで」

 私は楚々と彼に近づいた。それを受け止めるようにぎゅっと抱きしめられる。じっとしていると、首の後ろ側に金属特有の冷たい感覚が降り立った。くっついていた身体を離して、自分の胸元を覗いてみる。ちょうど制服のオレンジのリボンは外していていたので、一番上のボタンを外したシャツの隙間から一粒の宝石が揺れているのが見えた。

「綺麗」
「似合ってる」

 角度が変われば、その度に違う表情を見せるダイヤモンド。白の光。虹色の光。とても小さいのに目が離せない程の存在感。私みたいな女は一生身につけることがないだろうと決めてかかっていた宝石が、今、ネックレスとなって胸元にあるなんて。

「何と御礼を言ったらいいのか、分からない」
「そんなの要らない。でも、伝わればいいな」

 竹村さんは、ダイヤモンドの上に彼の手指を乗せて目を閉じた。お互いに、とても無防備になっていた。

「結恵」

 彼の瞳が開く。そこには、私の姿だけが映り込んでいる。静かな土曜の午前。無音という音が広がっている。




「好きだよ」




 私は、彼の息遣いを吸い込んだ。

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