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55・祭りの後

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 夕飯を食べ終わると、スタッフ控え室内のゴミをまとめ、撤収の準備をする。森さんとペットボトルの烏龍茶を飲んでいたら、もう午後七時半になっていた。

「遅いね……」
「そうですね」

 もちろん、冊子の到着のことだ。新田くんのおじさんの印刷屋さんからは、既にこちらへ向かっていると連絡があったのだけれど。

「お客様がお帰りになるのって、八時ですよね」

 森さんは分かりきったことを尋ねてくる。

「そうよ」
「あと三十分ですよね」
「そうよ」
「どうしましょう?」

 どうもこうもない。冊子が届くのはおそらくこの会場である市民ホールの裏手、関係者通用口だ。そので入口付近に駐車場があるので、そこで待つしかない。私達は、取るもの手につかず、転びそうな勢いで通用口へ向かった。すると。

「あ、あの車!」

 森さんが、ちょうど駐車場に入ってきた白いセダンを指さして叫ぶ。その車は通用口の自動ドアへ体当たりするぐらいの猛スピードで突っ込んで来たかと思うと、耳をつんざくようなブレーキ音と共に停止した。

「お待たせ!」

 慌てて車から出てきたのは長瀬課長だった。なるほど。彼女の失敗は彼氏がフォローするのね。

「長瀬くん、遅い!」
「ごめんごめん。これでも高速ぶっ飛ばしてきたんだよ」

 じゃれつく森さんを長瀬課長は『よしよし』している。イチャイチャするのは他所でやってほしい。こちらが恥ずかしくなってくるではないか。

「長瀬課長、ありがとうございます。受付に運ぶの手伝ってください」

 冊子は百部ずつ五箱に分かれていた。私と森さんが一箱ずつ、長瀬課長が三箱を担いでエントランスホールへ急ぐ。

 到着すると、頭から湯気をあげそうなぐらいお怒りモードの彼女達がいた。

「遅いわよ!」
「すみません。これ、早速お願いします」

 私は岸部さんと越智さんに頭を下げた後、受付のカッターを借りるとテーブル裏でダンボール箱を開封。受付の女性陣に配って歩いた。

「間もなくお客様があちらの扉から出てきます。基本的に一人一部ずつですが、各国の団体様には担当営業マンへ必要部数をまとめて渡してください。ホテルへ帰るバスの中で配布してくれますから」

 海外からのお客様のほとんどは国ごとにツアーが組まれていて、営業マンが空港でのピックアップから観光、梅蜜機械の式典、出国間際のお食事まで全て担当している。そのため、バスをチャーターしているのだ。

「分かったわ。任せなさい!」

 岸部さんの声で、それまでしばし休憩をとっていた受付スタッフの面々も再び仕事向けの引き締まった表情になる。私も数部を手に取ってスタンバイ。後は、イベントの全てのプログラムが終わってお客様がエントランスへ出てくるのを待つだけ。




 結局、イベントが終了したのはそれから五分後のことだった。予定よりも早く終了したのだ。本当にギリギリだったと背中に冷や汗を感じながら、必死にお客様へ冊子を配る。あらかじめワインやお菓子を入れたお土産の袋の中にセットしながら渡すので、受け取らない人はいない。梅蜜機械と三十周年ロゴが入った白と梅色のカバンを持つ人達が、どんどん会場から流出して去っていく。どうか、読んでもらえますように。少しでも、梅蜜機械のことを好きになってもらえますように。そう祈りながら、笑顔でお客様を見送り続けた。







 全てのお客様がお帰りになったのは午後九時だった。人がまばらになったエントランスホールは足元が少し冷える。つい先程、ほとんどの社員スタッフは帰ってしまった。残っているのは営業マンの一部と、経営企画部だけ。

「本社では工場の見学も好評だったらしいな」

 高山課長は福井係長に話しかける。

「そうですね。記者会見も問題なく終了しましたし」

 そこへ、浜寺主任もやってきた。

「よくこれだけのことを、この少ない人数でこなしましたよね」

 坂田さんもこれに加わる。

「そうですよね。この部署って社内で一番人数が少ないですけれど、扱っている分野も仕事量もとても多くて本当に驚いています」

 私は受付のテーブルを畳みながら、そんな会話を聞いていた。

「のりちゃん先輩、終わっちゃいましたね」

 森さんの声には疲れが滲んでいる。若い彼女も今回ばかりは最後まで勢いだけで乗り切れなかったようだ。きっと今回のイベントはこれから梅蜜機械で働いていく中でなかなか変え難い良い経験となることだろう。

 メイン会場となった大きなホールでは、早速設営業者が入って撤去作業が開始されている。黒い幕や壁はあっという間に取り外され、元の白とクリーム色の壁が覗いていた。テーブルや椅子も次々に搬出されて、イベントを彩っていた数々のものが消えるように無くなっていく。



 祭りの後。今はそんな一時だ。



 準備は半年近くにも渡った。長かった。いろいろあった。私なりに画期的なアイデアを出せた時もあったが、最後の最後で大きな失敗もした。けれど、経営企画部というチーム力が全ての困難や前例を打ち破り、今日のイベントを創造した。梅蜜機械は、間違いなく一皮むけた。

 あぁ、終わったんだな。どこか物悲しい。あんなに苦しくて辛くて、でも楽しかった準備と本番が終わってしまった。それも、あっという間に。もう明日からはイベントのことばかり考えなくても良い。嬉しいことのはずなのに、なぜこんなにも寂しいのだろう。

 私は首から下げていたストラップ付きのスタッフ証を取り外す。この半年間が夢だったのではないかと思える程に、身体がふわふわしていた。

「紀川、お疲れ様!」

 竹村係長も外からやってきた。お客様の見送りに出ていて、戻ってきたのだ。

「橋本部長、飯塚部長、そして副社長からも大絶賛だったよ!商売の方も何件か成約が出たみたいだし、社長もずっと機嫌が良かった」
「そうだな。もちろんイベントは事後のフォローを徹底することでより効果を上げられる。全ての評価はずっと先に行うものだろうが、少なくとも僕は『このイベントは成功した!』と思っている」

 高山課長も竹村係長と共に、まだ興奮冷めやらぬままに語り続ける。



 そっか。成功か。

 成功して、良かった。



 そう思った瞬間、視界に広がる薄暗がりのエントランスホールがゆっくりと回転しはじめた。スローモーション。あ、天井が見えた。


 私は意識を手放した。

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