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45・イベントが終わったら
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慣れない経験をした長い夜が明けて翌朝。私は竹村係長と時間差をつけて彼の自宅から直接職場へと出勤した。制服なので、昨日と同じ服だとバレることも無い。
ここ最近では一番落ち着いた気分でいられた。憑き物が落ちたかのようにすっきりしたというか。身体はどことなく疲れが溜まっているはずなのに、足取りは軽い。始業前にお茶でも飲もうと給湯室に入ると、新田くんがやってきた。
「おはよう」
「おはよう」
「今日は、別のを使ってるんだね」
これだけで新田くんが何を言いたいのか分かってしまう。私はもう、あの口紅に頼る必要がなくなったのだ。
「うん」
「それが、のりちゃんの選択?」
選択も何も、よくよく思い返すと私には元々一択しかなかった。結局そこへ戻ってきただけということ。私は一口お茶を啜ってから返事した。
「そうだね」
「そっか。でも、もう一度だけでいいからよく考えてみて?僕は気長に待ってるよ」
新田くんは、少し寂しそうに笑う。それを誤魔化すようにして、結局お茶も飲まずに給湯室を出ていってしまった。
新田くん、もしかして。でも、相手は私だし。よく考えれば考える程自意識過剰な気がしてくる。だから気にしないでおこう。
そして午前中の業務が始まる。私はカタログの校生を行っていた。イベントの際に発表する新機能を搭載した最新機種の開発仕様書がようやく手に入ったのだ。これも、森さんが実の兄である開発の課長を身内ということを活かして強力にプッシュしてくれたおかげ。お陰で製品の外見が微妙に変更されることも判明し、試作機を撮影する段取りも早めにつけることができた。
昼からは職場会議。月に一度の緩い雰囲気の会議なのだが、今回はイベントに向けた部員の業務分担について改めて見直すことになっている。冒頭、私は手を挙げて高山課長に発言の許可をもらった。本来こんなことをするべきではない。でもこの会議をイベントに向けて経営企画部が本当の意味で一丸になる再出発の場にしたい。
私は細かなことは言わずにおいた。
「先日からご迷惑をかけておりますが、問題は解決しました。竹村係長はこれまでもお世話になってきた大切な上司ですし、それはこれからも変わりません。皆様に何かとお気遣いいただくことになって、本当に申し訳ございませんでした」
下げた頭を上げると、会議テーブルを囲む全員の視線が柔らかい。漂う空気もすっと軽くなって鮮度が良くなったような気がした。
その日の定時後、森さんからメールが届いた。隣の席にいるのに、なぜ声をかけてこないのか。何だろうと思いながら内容を見ると……
『のりちゃん先輩
お疲れ様です!
ついに、ついに! ですね!
おめでとうございます!
光一くんからはどんな言葉で告白されたんですか?
ゆきの』
おい、完全にプライベートメールじゃないか。私はすかさず返事する。
『森さん
今日も遅くまでお疲れ様。
いろいろと迷惑をかけて本当にごめんね。
竹村係長との喧嘩状態は解消されたけれど、
私は何も言われていません。
以前よりも仲良くなれたとは思いますが、それだけです』
送信ボタンを押すと、リアクションは生で伝わってきた。隣の席の森さんが椅子ごとこちらへやってくる。
「それ、どういうことですか?」
「え?」
「私の女の勘はこう言ってます。『こいつらは絶対にヤったな』って」
職場で何てことを言うのだ、この後輩は?! 私は慌てて森さんの手を引くと、打ち合わせコーナーに引きずり込んだ。
「あのね、とにかくもう雰囲気悪くしたりしないから、あんなこと大声で言わないで!」
「のりちゃん先輩たら照れ屋さんなんですからぁ。これも大抵の人が通る道なんですし、恥ずかしがることないですよぉ。とりあえず私はほっとしました。お付き合いできることになって良かったですね!」
手を叩いて喜ぶ森さん。私が、竹村係長と、付き合う?!そりゃぁ、昨夜はちょっと深い関係になったかもしれないけれど、それとこれとは別だ。
「だから! 付き合ってないんだってば! 好きとか言われたわけでもなし、きっと竹村係長もそのつもり無いに決まってる」
「う……嘘でしょ……」
森さんはムンクの叫びの如く、可愛らしい顔を引き攣らせている。そこまで驚くことないのに。あの歳でまだ独身の彼。社畜で喪女の私。そう簡単に事は進まないのは当然というもの。
「のりちゃん先輩は、それでいいんですか?」
昨夜感じた竹村係長の温もりをふっと思い出す。ボッチで引きこもりの私が、まさか人生の中であんな体験をする機会がやってくるなんて思ってもみなかった。
「……いいよ」
たぶんあれは、イベントに向けて真面目に働いてる私へ神様がくださったプレゼントなのだ。女の子として、一度でもそういう経験をさせてもらえたら、もう十分。欲は言わない。ましてや、本気になってほしいだなんて望んだら、何かの罰が当たりそう。
でも、そんな私を森さんは許してくれない。
「嘘です。顔は嫌だって言ってます」
「そんなこと、ないよ」
「……好きなんですよね? それとも、まだ嫌いですか?」
嫌いなわけ、ないじゃない。
もう森さんに誤魔化すのは止めた。
観念した私は小さく頷く。
「ほら! じゃ、ちゃんとのりちゃん先輩から伝えないと! こればかりは当たって砕ける心配も無いし、後はぶつかるだけですよ!」
「でも今はイベントが迫ってるし。お互いそれどころじゃないって言うか……」
これには森さんも二の句がつけなかったらしい。盛大にため息をついて、椅子から立ち上がる。
「ま、のりちゃん先輩だから仕方がないですね。でも! イベント終わったら必ず告白してくださいよ。それでないと……さすがの私も浮かばれません」
ごめんね。
「ありがとう」
ここ最近では一番落ち着いた気分でいられた。憑き物が落ちたかのようにすっきりしたというか。身体はどことなく疲れが溜まっているはずなのに、足取りは軽い。始業前にお茶でも飲もうと給湯室に入ると、新田くんがやってきた。
「おはよう」
「おはよう」
「今日は、別のを使ってるんだね」
これだけで新田くんが何を言いたいのか分かってしまう。私はもう、あの口紅に頼る必要がなくなったのだ。
「うん」
「それが、のりちゃんの選択?」
選択も何も、よくよく思い返すと私には元々一択しかなかった。結局そこへ戻ってきただけということ。私は一口お茶を啜ってから返事した。
「そうだね」
「そっか。でも、もう一度だけでいいからよく考えてみて?僕は気長に待ってるよ」
新田くんは、少し寂しそうに笑う。それを誤魔化すようにして、結局お茶も飲まずに給湯室を出ていってしまった。
新田くん、もしかして。でも、相手は私だし。よく考えれば考える程自意識過剰な気がしてくる。だから気にしないでおこう。
そして午前中の業務が始まる。私はカタログの校生を行っていた。イベントの際に発表する新機能を搭載した最新機種の開発仕様書がようやく手に入ったのだ。これも、森さんが実の兄である開発の課長を身内ということを活かして強力にプッシュしてくれたおかげ。お陰で製品の外見が微妙に変更されることも判明し、試作機を撮影する段取りも早めにつけることができた。
昼からは職場会議。月に一度の緩い雰囲気の会議なのだが、今回はイベントに向けた部員の業務分担について改めて見直すことになっている。冒頭、私は手を挙げて高山課長に発言の許可をもらった。本来こんなことをするべきではない。でもこの会議をイベントに向けて経営企画部が本当の意味で一丸になる再出発の場にしたい。
私は細かなことは言わずにおいた。
「先日からご迷惑をかけておりますが、問題は解決しました。竹村係長はこれまでもお世話になってきた大切な上司ですし、それはこれからも変わりません。皆様に何かとお気遣いいただくことになって、本当に申し訳ございませんでした」
下げた頭を上げると、会議テーブルを囲む全員の視線が柔らかい。漂う空気もすっと軽くなって鮮度が良くなったような気がした。
その日の定時後、森さんからメールが届いた。隣の席にいるのに、なぜ声をかけてこないのか。何だろうと思いながら内容を見ると……
『のりちゃん先輩
お疲れ様です!
ついに、ついに! ですね!
おめでとうございます!
光一くんからはどんな言葉で告白されたんですか?
ゆきの』
おい、完全にプライベートメールじゃないか。私はすかさず返事する。
『森さん
今日も遅くまでお疲れ様。
いろいろと迷惑をかけて本当にごめんね。
竹村係長との喧嘩状態は解消されたけれど、
私は何も言われていません。
以前よりも仲良くなれたとは思いますが、それだけです』
送信ボタンを押すと、リアクションは生で伝わってきた。隣の席の森さんが椅子ごとこちらへやってくる。
「それ、どういうことですか?」
「え?」
「私の女の勘はこう言ってます。『こいつらは絶対にヤったな』って」
職場で何てことを言うのだ、この後輩は?! 私は慌てて森さんの手を引くと、打ち合わせコーナーに引きずり込んだ。
「あのね、とにかくもう雰囲気悪くしたりしないから、あんなこと大声で言わないで!」
「のりちゃん先輩たら照れ屋さんなんですからぁ。これも大抵の人が通る道なんですし、恥ずかしがることないですよぉ。とりあえず私はほっとしました。お付き合いできることになって良かったですね!」
手を叩いて喜ぶ森さん。私が、竹村係長と、付き合う?!そりゃぁ、昨夜はちょっと深い関係になったかもしれないけれど、それとこれとは別だ。
「だから! 付き合ってないんだってば! 好きとか言われたわけでもなし、きっと竹村係長もそのつもり無いに決まってる」
「う……嘘でしょ……」
森さんはムンクの叫びの如く、可愛らしい顔を引き攣らせている。そこまで驚くことないのに。あの歳でまだ独身の彼。社畜で喪女の私。そう簡単に事は進まないのは当然というもの。
「のりちゃん先輩は、それでいいんですか?」
昨夜感じた竹村係長の温もりをふっと思い出す。ボッチで引きこもりの私が、まさか人生の中であんな体験をする機会がやってくるなんて思ってもみなかった。
「……いいよ」
たぶんあれは、イベントに向けて真面目に働いてる私へ神様がくださったプレゼントなのだ。女の子として、一度でもそういう経験をさせてもらえたら、もう十分。欲は言わない。ましてや、本気になってほしいだなんて望んだら、何かの罰が当たりそう。
でも、そんな私を森さんは許してくれない。
「嘘です。顔は嫌だって言ってます」
「そんなこと、ないよ」
「……好きなんですよね? それとも、まだ嫌いですか?」
嫌いなわけ、ないじゃない。
もう森さんに誤魔化すのは止めた。
観念した私は小さく頷く。
「ほら! じゃ、ちゃんとのりちゃん先輩から伝えないと! こればかりは当たって砕ける心配も無いし、後はぶつかるだけですよ!」
「でも今はイベントが迫ってるし。お互いそれどころじゃないって言うか……」
これには森さんも二の句がつけなかったらしい。盛大にため息をついて、椅子から立ち上がる。
「ま、のりちゃん先輩だから仕方がないですね。でも! イベント終わったら必ず告白してくださいよ。それでないと……さすがの私も浮かばれません」
ごめんね。
「ありがとう」
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