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39・呼び出し

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 胸がキュッと傷んで気分が優れない日々が続いても、毎日朝になって夜が来て。梅蜜機械も周年行事本番というその日に向かって着実に準備が進められていく。そんなベルトコンベアを構成する歯車の一つである私は、もくもくと無心で仕事をこなしていた。

 これまでの約五年間も様々なことがあった。正直、辞めようかと思ったことも何度もあった。でも辞められなかったのは、自己嫌悪の塊でありながらも自分の可能性に見切りを付けられなかった私の弱さと……なんだかんだでこの仕事が『好き』という気持ちがあったから。

 あれから一週間。私は余計なことを出来るだけ考えないように努めながら、パソコンに向かい続ける。よく考えてみれば、今の私は少し前の私に戻っただけだ。

 小百合はエアコンの中に籠ることが増えた。人形で外に出てきている時には少しでも私の気持ちが晴れるようにと独特の節回しで話をしてくれるけれど、私が報告という名の仕事の話をあまりしなくなったものだから、それほど会話は続かない。ついには家庭内別居している仮面夫婦みたいな雰囲気になっている。

 そして森さんはこの一週間ですっかり冷たくなった。彼女のお膳立ては素晴らしかったし、私も竹村係長に気持ちが傾いていたことは否めない。だけど、世の中にはそもそもの相性と縁というものがあって、私とお隣の席の彼との間には最低限のソレがなかった。それだけのことだ。クリーニングから戻ってきたあの夜の服は、近所のケーキ屋さんで買い求めたお菓子と一緒に返却し、さらにはもう少しお礼がしたいと森さんに申し出た私。だけど答えはNOだった。

「私は、こんなことになるためにこの服を準備したんじゃありません!」

 森さんは半泣きになりながら私に訴えたけれど、私はそれを無表情に眺めた。私は森さんのために生きてるわけじゃない。私は、私の選択をする。

 私と竹村係長の仲の変化はすぐに部内に影響が出た。まず、張本人の私が言うのは何だが、空気が重くなった。できるだけ当人同士が会話しなくても良いように周囲が気を遣うようになった。皆には申し訳ない事態になってしまったけれど、では私の何が悪かったのだろうか。責任は奴にもあるはずだ。

 そんな折、メールをチェックしていると珍しい人からメールが届いていた。早速開封した途端、私の顔は凍りつく。






 そこは、本社ビルの前にある道を隔てて向かい側にあった。梅蜜機械の製品に使っている部品を製造している工場で、元は別会社だったが昨年買収。今はグループ企業の一つとなっている。私は指定された待ち合わせ場所へ足早に向かった。午後六時。私は呼び出しを受けている。

「お待たせしました」

 少し息を切らせながらノックをし、声をかける。「どうぞ」という返事を待って扉を開くと、ある意味見慣れた形相の彼女がいた。

「谷上さん、お久しぶりです」
「いらっしゃい、紀川さん」

 そこはこの会社の事務方が詰めている狭い事務所で、九時五時勤務が基本のこの会社はもうほとんどの人が退社しているらしい。人気が無いデスクの間を縫って、私は谷上さんに近づいていった。

「いきなり呼びつけて悪かったわね。これでも忙しいのよ。この後保育園のお迎えもあるから、さっさと済ますよ」

 谷上さんがこちらへ完全に異動したのは今年初め。机の脇に積まれている書類とバインダーの山を見れば、こちらでも『仕事ができる良い姉御』をやっていることが窺い知れる。

「あの……」
「用件は分かってるんでしょ?」
「はい」
「それならば早く何とかしなさい。あなた、他人に迷惑をかけていると思わないの? 異動した私が出しゃばらなくちゃいけないぐらい酷いって、大事よ?」
「でも、どうしたらいいのか分からないんです。それに、私は悪くないです」
「そんなこと言ってるから、五年経っても成長が無いのよ!」

 谷上さんの鼻息は荒い。懐かしくてほっとするような、やっぱり身が引き締まるような。だけど、成長が無いとは酷すぎる。

「あの人をやめて、同期の男子……新田くんだったっけ? 彼にしたのは良かったと思うわ。でも職場にこういうことを持ち出して空気汚すのは社会人がすることじゃない。それぐらい分かるでしょう?」
「はい……」
「坂田さんもアンタ達のことで悩んでたわよ」

 なるほど。やはりそこが情報源だったか。

「でも、なんで竹村係長をやめてよかったんですか?」
「だってあの人……」

 ここで谷上さんは、一度口を噤んだ。

「もしかして紀川さん、あれだけ竹村係長とベタベタしておいて、プライベートの話何もしたことないの?」
「え?」
「私の話は聞いてもらったことはありますけど……」
「だったらこれは、私から言わない方がいいわね」

 そんな意味深なこと言わないでほしい。嫌な奴だけれど、同じ部署で上司である以上、今後も関わっていくことになるのだ。どうしても気になってしまう。

「ごめん、ごめん。今の忘れて? 普通に隣で働いている分には何の支障もないから」

 私の困惑ぶりを察したのか、谷上さんは手を激しく振ってこの話を終わらせてしまった。私はそれに対して文句を言うこともできず。

「紀川さん。もう少しだけ私の話を聞いてくれる?」

 谷上さんはパソコンの電源を落として、机の上の書類を片付け始めた。

「私ね、夫と出会う前に十年以上付き合っていた彼氏がいたの。別れはあっけなかったわ。向こうに女ができてね。それも、私と別れるために付き合い始めた女だった。そんな面倒くさいことしなくても、ちゃんと別れてあげたのに。悲しかったな。ずっと隣にいた人に裏切られるのって、本当にキツイ。でもその三ヶ月後に良いご縁があってね。あっという間に結婚して、娘ができて、無事に保育園も見つかったから職場にも復帰できて、今の私がいる。ほんと、人生なんて何が起こるのか分からないのよ」

 谷上さんは、机の下から折り畳んだコートを引っ張り出し、優雅に羽織る。バッグも持った。

「だからね、安心して『次』に行けばいい。次がだめなら、その次。ずっとだめなら、自分が自分を一番大切にして、甘やかせばいい。悪いこともたくさんあるけど、楽しいことだって見つければたくさんあるんだから。ね?」

 ふっと緩む谷上さんの表情。そこには母性があった。谷上さんとの年の差は親子程も無い。でも今の私は幼子(おさなご)と変わらないのだろう。癇癪こそ起こさないし、自立した生活もできている。けれど、確かに私はそういう意味での成長が小学生ぐらいから止まっているのかもしれない。

 谷上さんはひらひら手を振ると、駆け足で事務所を出ていった。私はしばらく、その場を動けないでいた。

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