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36・夜、会社前にて

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 女子更衣室の電気は、省エネのために半分程外されているので薄暗い。寿命が近づいている電灯はチカチカと不規則な点滅を繰り返していた。

 夜十時。さすがにこの時間になると、梅蜜機械で働いているのは開発の一部の方だけで、更衣室に人はいない。靴を脱ぎ、冷たい床の上にタイツで覆われただけの足で立つ。私はパーティーのために着ていた服を全て脱いで大きな紙袋に入れた。明日の朝、家の近所にあるクリーニング屋へ出しにいこう。

 竹村係長はあの後、私の肩をそっと抱いた。男の人の匂いがした。そしてすぐに信号が青に変わって、近くにあった人肌は離れていった。

 私は竹村係長に頼んで会社へ送ってもらった。着替えを置いたままだからと言うと、着替えて出てくるまで待っていると。そして私を家まで送っていくと強い調子で言われたけれど。私は静かに目を伏せてそれを拒否した。

 千尋さんと私の違いは何だったのだろう。そもそも同じところなんて、通っていた大学と入った研究室、それだけなのかもしれない。知らず知らずのうちに自分の仲間だと思い込んでいた私は、同志を見つけて自分を正当化し、安心しきっていた。でもそれは完全なる間違いで。

 千尋さんとの一番の違いは、プライベートの充実度合いだと思う。千尋さんの結婚相手は、旅先で出会って意気投合した人らしい。偶然近所に住んでいることが判明し、しかも相手は大手の商社マンという優良物件だったことも手伝って、千尋さんは様々な努力を重ねたらしい。

 幸せって、何なのだろう。

 私は結婚だけが女の幸せだとは思っていない。十人いれば、十通りの性格や選択肢があるわけで、全て行き着く先が家庭であるとは限らないはず。それに、何を選んでも楽しいことや苦しいことはついてくるに違いない。

 だから、
 私は羨ましくなんかない。
 私はくやしくなんかない。
 私は寂しくなんかない。



 私はまだ、大丈夫。



 だいたい、プライベートっていうものに対して意識を割ける余裕を与えないほどの膨大な仕事量がいけないのだ。その大半を指示してくるのが竹村係長。そんな人が、こんな時だけ優しそうなフリして手を差し伸べてきたって、私は騙されたりしない。奴は、私を苦しめている人。私の人生からどんどん生気を抜き取り、利用するだけして、いつか使い捨てようと考えているのかもしれない。

 だから、心を許さない。許せるはずもない。
 自宅(悪党の基地)になんか、呼ばれたって行くものか!



 夜の怒りは不思議と私に活力を与え、慣れた制服姿に戻ったこともあって、平静を取り戻しはじめた頃。私は守衛室横に立つ警備員さんに「お疲れ様です」を告げ、会社を出た。そこへ、こちらに向かってくる強いライト。ウインカーを出しているので、その車は梅蜜機械に入るつもりらしい。私は轢かれないように歩道の端を歩き始めた。

「のりちゃん!」

 振り向くと、守衛室前でハザードをたいている車が一台。先程の車だ。近づいてみると、運転席の窓が開いた。

「あ、新田くん。お疲れ様」
「お疲れ様。今、帰り?」
「うん」
「乗っけてこっか?家の場所、知ってるし」
「え、でも、いいの?」
「うん。後は日報出すだけだから。ほら、乗って」

 新田くんは私を乗せると、本社ビルの通用口脇に車をつけた。そして駆け足でビルに入っていき、ものの二、三分で戻ってきた。

「化粧、落としちゃったの?」

 会社から私の家へ向かう車内。新田くんは助手席に座る私を覗き込む。同期のしゃがれ声は、聞いていてなぜか落ち着く。自分が正真正銘の現実に帰ってきたのだと分かり、人心地がつくのだ。

「うん。もう今夜は誰にも会わないと思ってたから。スッピンなんだから、あんまり見ないでよ」

 そう言えば、新田くんの車に乗るのって初めてだ。竹村係長のような高級車ではなく、庶民的な軽自動車。私たちの身の丈にあったサイズとランク。やはり、身の程を知るのが一番だと静かに頷く私を新田くんは不思議そうに眺めていた。

「今日は綺麗だったね」
「今日だけね」
「僕は……いつもののりちゃんも好きだよ」

 新田くんの声がいつも以上にしゃがれたことに、私は気づいていなかった。

「ありがとう。でもお世辞は良いよ」

 私は本音で返事する。新田くんは、何をするのも形から入るのが好きなタイプだ。着ているスーツも名刺入れも、入社当初から背伸びしすぎない程度にキチンとしたものを選んでいた。持っている文具や、表計算ソフトの使い方。どれも、彼らしさで溢れていて、そのちょっと頑張っている感は好感がもてる。それに、話し方が柔らかで声質が変わっているせいなのか、私にとって肩肘張らずに会話ができる数少ない男の子が新田くんであった。

「じゃぁ、欲を言えばなんだけど」
「何?」
「今日の口紅綺麗だったから、プレゼントさせて?」
「え?」
「明日予定ある?」
「……無い。クリーニング屋に行くぐらい」
「朝十時に迎えにくるから」

 ちょうど車は私の古アパートの前に着いた。新田くんはさっと降りて助手席側にまわってくると、私のためにドアを開けてくれる。

「あの、私……」

 新田くんの顔が赤い。そして、近い。



「明日、楽しみにしてるね。結恵ちゃん」



 新田くんの唇が、私の額に触れた。

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