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30・アイドル?!

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 腐っても入社五年目。遅刻ギリギリに出勤してきた森さんは未だ頭の上にクエスチョンマークを浮かべているけれど、私は事態の重さを理解し始めていた。

 まずは現状把握から行おう。

 まず、福井係長は仕事帰りにサッカーチームに入っている息子さんを迎えに行った。その際、調子に乗って少年たちの輪に入ろうとしたらしい。もう何年ぶりかの分からないぐらい久々のサッカーだ。ところが運動不足の中年男性が水揚げされたばかりの魚のごとくピチピチ(死語)の少年達と対等に渡り合うことなんて叶わない。これがサッカーの中で返り討ちにされただけならば何の問題もなかったのだが、あろうことか機敏な動きをしようとした福井係長は何も無い真っ平な地面の上で足を捻って盛大に転んでしまったのだ。出血はそれ程ではないが、たちまち赤く膨れ上がる足首。しかも、ありえない方向に向かって曲がっている。慌てて駆けつけた周囲の保護者達によって救急車が呼ばれ、福井係長は運ばれていったのだった。

 そんなうっかりさん……と言うには可愛げのない年齢の福井係長の仕事は、製造計画の立案及びそれに伴う社内調整である。

 裁断機やそれに付属する機器は、何十という細かな工程を経て製造される。今のところ人間にしかできない微調整も必要な作業も多い上、たいていが各お客様に合わせたオーダーメード機械となるため、製造は金太郎飴の如く同じ形のものを大量生産して箱詰めまでオートメーションという訳にはいかない。そもそも、オプションの種類がものすごく多いのだ。でも、お客様の様々なニーズに対応するには致し方ない。

 これから細かな工程を担うのが製造部の方々。それぞれが自分の持ち分というのがあって、一つの工程に何分何秒程かかり、一日で最大いくつ分作業できるかがあらかじめ計算されている。それらを把握して、効率よくお客様に納める機械を製造するために、各工程をパズルのごとく組み合わせていく。誰も暇になってはいけないし、だからと言って最終の機械完成が遅れてもいけない。

 さらに気にかけなければいけないのは、調達関連だ。梅蜜機械では、一本のネジから裁断機の要となる制御装置の部品に至るまで全てメイドインジャパンである。国内の様々な企業と取引して部材を取り揃えているのは資材部だが、福井係長はそことも連絡を密にして、立てた製造計画に合うように調達依頼を出している。

 そしてもちろん、営業部とも関わることは多い。どんな引き合いが来ているのか、また来そうなのか。納期をいつ頃に設定すると買ってもらえそうなのか。そういった情報を集約して、どんな機械を毎月どれだけ作り、どれだけ在庫にしてどれだけ売るのかということを考えている。もちろん、毎月末に行われる製造計画会議では部課長クラスと交えて現状の確認やら今後の方針やらも決めるのだが、やはり細かなさじ加減は福井係長の肩にかかっている。と、つまり会社にとって重要かつ非常にバランス感覚の求められる仕事なのだ。

 なのに、福井係長の入院期間はおそらく二週間程度という長期の見込み。その間、この仕事を誰がすることになるのかというと……

「紀川さん、悪いけどこれ、直接副社長に確認とっておいてくれないか。僕は入院先へいろいろ確認に行ってくる」

 高山課長はコートを羽織ると、ふらふらの足取りで二階フロアから出ていった。そう、福井係長の仕事を引き継げるのは彼しかいない。でも、高山課長だって仕事をたくさん持っているのだ。果たして山積みの書類をはじめ、製造、資材、営業の間の社内調整はうまく捌ききれるだろうか。もちろん新機種絡みのことになると開発も絡んでくるし、イベントのことも加えるとオーバーワークは必至。だけど、やるしかない。

 高山課長がエンスト起こしそうになると、周囲の部下にも影響が出る。決済が下りるまでに時間がかかるようになるし、これまでのように気軽に業務について相談しにいけなくなる。すると情報共有が滞ったり、もしかすると二次災害とも呼べるトラブルが発生するかもしれない。

 リアルに頭が痛いな。と額を手で押さえながらも、高山課長の苦労も忍ばれる私は、渡された書類に目を通した。ありふれた社内書類だ。右上に日付と発行元である総務部の名。左側には経営企画部高山課長の名前。そこまでは良かった。その下に書かれてあった案件のタイトルは……

『創立三十周年行事スペシャルゲストについて』

 スペシャルゲストぉ?! 業界の偉い人か、大学教授や業界団体の会長級がやってくるのだろうか。そんな想像をしながら書類の下の方へ目を移していく。そして、そのまま何事もなく読み終えるつもりだったのだが、決して見逃せない一文が書かれてあった。

『アイドルグループ羽衣雅(はごろもみやび)をゲストとして招き、スペシャルステージを披露し……』

 羽衣雅。これは私の朧気な記憶によると、十代から二十代の一部で人気のバンド。アイドルと呼ぶに相応しい見目麗しい風貌の男女合計五人組で、その和風コスプレとも言える独特の服飾は人気に一役買っている。慌ててネットで検索してみると、歌は普通のJポップだけれど、和風な楽器を使っているメンバーもいるとか。クールジャパンが流行りの昨今、海外にも知名度はあるらしい。

 で、なんでこんな人達がうち程度のイベントに?! テレビでの露出はまだまだ少ないけれど一定層のファンを抱えるそれなりに有名な人達を呼ぶなんて、お金もかかるだろうし、コネも必要だろう。だいたい、うちみたいなお固いメーカーなんかには似合わない。誰だ、こんなことを言い出したのは!……って、発信元の総務部の誰かにはちがいないのだけれど。

 それにしても、こんなことは秘密裏に進められては困る。既に会場設営については内容を煮詰めていて金額の交渉にまで入っているのに、このタイミングで大幅変更を入れることは余儀なくされるだろう。

 元々、ただの地味な式典しか考慮していなかったので、アイドルグループが立つような大きなステージは用意していない。音響やライトなんてどうしたらいいのだろう。せっかくお弁当の価格まで削減しにいったのに、そんなのすぐに吹き飛んでしまいそうなお金が必要になりそうだ。

 とにかく今は真相や詳細を確認しよう。先に竹村係長に報告しようかとも思ったけれど、ちょうど誰かに呼ばれて席を立ってしまったので、一人で副社長の元へ向かうことにした。

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