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29・エアコンお化けじゃない?!

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 これが恋愛小説ならばこのまま『お持ち帰り』になるルートかもしれないけれど、これは現実。そんな甘くて心臓に悪い展開はファンタジーの中だけで十分だ。森さんと長瀬課長の登場であっという間に正気に戻ってしまった私は、竹村係長と共に一度会社へと戻った。外部スタッフ廃止と社員のスタッフ起用についてGOサインが出たということは、社員スタッフの指揮や教育をどうするのかという問題が浮上する。その辺りの擦り合わせが必要だからだ。

「担当するのって、やっぱり私ですかね」
「そうだな。言い出しっぺっていう奴だしな」

 竹村係長のすげない回答に脱力し、そのまま座り込む私。こうして自ら仕事を増やしてしまった入社五年目の馬鹿な喪女は、結局少し残業をした後、夜のくせに満員の電車に揺られて友が待つ自宅へと帰ったのであった。








「うん。光一の匂いがするねぇ。今日はずっと一緒だったのかい?」
「え?! 何で……」

 帰宅してエアコンの電源を入れると、すぐにお風呂へ直行。やはり冬の屋台は寒すぎた。しっかりと肩まで湯船のお湯に浸かってあたたまり、タオルを巻いただけの状態でベッドへダイブ。そこへやって来たのが小百合なのだ。お風呂ではお気に入りの薔薇の香りのボディーソープを使ったので、奴の残り香など全て洗い流せたはずなのに。

「何でって、私は風の妖(あやかし)だよ?」
「え? エアコンお化けじゃなかったの?!」
「当たり前じゃないか。エアコンなんてものは昔からあったわけじゃないんだよ」

 じゃ、小百合っていったい何年生きてるの?! でも、女性に年齢の質問はタブーだ。

「妖かぁ。でも小百合はそういう悪いモノのような気配がないんだよね。もちろん初登場の時は目玉だけだったからびっくりしたけれど」
「どちらかと言えば良い妖のつもりだよ。私と出会って以来、結恵にはいつも良い追い風が吹いているだろう?」

 良い風? 首を傾げた瞬間、急にこちらへ突風が吹きつけた。身体がふわっと浮き上がって、壁に貼り付け状態になる。思わず顔のあたりを手で覆ってみると、あら不思議。身体に巻いていたはずのタオルが部屋の彼方へ飛んでいったではないか。残ったのは一糸纏わぬ妙齢の女。私である。

「小百合、何やってるのよ?! さすがに女同士でも、急にこんなことされたら恥ずかしいじゃない!」

 足元にあった布団で慌てて身体の大切な部位を覆う。でも背中とお尻は丸出しで、射すくめられた小鹿のごとく心許ない。

「うむ。結恵よ。今しがた見たところ、乳の形も悪かないし、大きさもそれなり。腰も細いし、足もどちらかと言えば長めで大変見晴らしは良かった。顔も幼子のような雰囲気が拭いきれんが、相手によってはそれが美徳になることもあるだろう。健康的な色艶に加えて肌のハリも良くなってきたようだな。となると、その身体、そろそろ光一に差し出してみたらどうだ?」
「お断りします!」

 一瞬、お腹の奥の方がギュンっと熱くなったけれど、小百合に気づかれてはいないだろう。私は一応怒った顔のまま、服を着た。やっぱり、褒められて嬉しかったのは隠しきれていないかもしれないけれど、仕方がない。こうも立て続けに他人から励まされると、さすがの私も立ち直れそうな気がしてくる。

「小百合、ありがと」

 聞こえないように小声で言ったつもりだったけど、小百合はニヤニヤ笑っていた。ま、友達に変な隠し事は良くないよね。






 翌朝。出勤してみると社内の皆様から感じる視線がどれも生暖かい。この雰囲気には身に覚えがある。まさか昨日の……。でも上司と部下が一緒に飲みに行くなんておかしなことではない。堂々としていればいいのだ!

 岸部さん達のグループからはブリザード並の冷えきった視線が投げかけられているけれど、これもまぁ、いつものことだ。昨夜、長年自分の中に溜め込んでいた誰にも言えない本音をぶちまけたせいか、随分とすっきりしている。多少は心が広くなって、かつ図太くなるというもの。

「竹村係長、おはようございます」

 席について隣を振り返り、挨拶をする。今朝も竹村係長の方が先に出勤していた。パソコンの画面にはメーラーやいくつかのフォルダが既に立ち上がっているあたり、すっかり仕事モードに突入している模様。

「おはよう」

 挨拶は返してくれたものの、なぜか視線を合わしてくれない。もしかして、恥ずかしがってる? 顔を覗き込もうとすると、私の頭を押さえつけるようにして髪を撫でくりまわしてきた。別にきちんとセットしているわけでもないけれど、私のセミロングと呼ぶには少し短い髪がぐしゃぐしゃ。抗議しようとしたその時だ。

 それまで自席で電話をしていた高山課長が荒々しく立ち上がった。椅子が後ろにひっくり返りそうになった。

「竹村係長、紀川さん! 他の皆も! 緊急事態だ!!」

 慌てて竹村係長、私、白岡さん、出勤してきたばかりの浜寺主任が課長の元に集まる。

「どうされたんですか?」

 白岡さんが高山課長に尋ねた。

「福井係長が……入院した」

 一瞬辺りが静かになる。その次の瞬間は、直前に空いた間を埋めて有り余るほどにたくさんの声が飛び交った。

「病気だったんですか?」
「私、何も知りませんでした」
「馬鹿。病気とは限らないだろう」
「そうだ。僕みたいにイビキが酷すぎて医者にかかったのかもしれないし」
「え?! そんな酷いんですか?!」
「それより、病院はどこですか?」
「で、容態は?!」

「ええーい! 静かにしろ!!」

 皆を沈めるのに高山課長は朝っぱらから体力の三分の一は使い果たしたかのような疲れた顔をしている。顔色も悪い。ふと見ると、竹村係長も顔つきを厳しくしていた。そんな顔をしていると、ますますオジサン化が進んでしまうよ。

 いつの間にか黒いカーテンが降りたかのように場の雰囲気は暗くなっている。呑気な私は、その理由にまだ気づいていなかった。

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