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7・手当て、出ますか?

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 木曜日は猛烈なダッシュで終電に滑り込んで帰宅。翌日金曜日は、竹村係長が開発の森課長に絡まれて定時後飲みに行ってしまったため、必要なデータが揃わず私も普通に八時に退社。そんなわけで、企画書が未完成のまま突入した貴重な休息日、土曜日は、久しぶりに休日出勤となってしまった。

 人気のない静かなオフィス。誰も出勤していないので、暖房が入っていない広い空間はかなり寒く感じられる。いつもは事務職らしい白シャツに紺ベスト、控えめなチェックのタイトスカートといった制服で働いている私だが、今日は私服でお仕事だ。お気に入りの膝掛けを腰に巻き付けて、コラボ候補の他社情報をエクセルでまとめていると、背後でガチャリと音がした。

「おはようございま……す?」

 振り向いた瞬間、私の目は点になった。そこに立っていたのは、会社という場においてあまりに不釣り合いな格好の人物。いくら休みの日とは言え、ジャージ出勤は有り得ない!だから、ここは敢えて触れずにおこう。スルーだ、スルー。

「竹村係長、白岡さんから企画書の書式とグラフのデザインはオーケー出ましたので最終確認してください。それと、新田くんがデモンストレーションで作るドレスのデザインは、営業部長の伝手でなんとかするって言ってました。後、福井係長が安全管理委員会に出す部内目標の案をメールしておいてほしいっておっしゃってました」

 せっかく仕事モードで切り出したのに、竹村係長は片手をスボンのポケットに手を突っ込んだまま、デスクの上に積まれた決済書類を眺めているだけで返事は無い。

「竹村係長、聞いてます?」
「紀川、今日は昼から空いてる?」

 こら、ちゃんと私の問いに返事しろ! と、上司に噛み付いてはこの後の二人きりの時間が気まずくなる。本当は今すぐ寝巻きに着替えてベッドにダイブしたいぐらい疲れているのだが、私は渋々返事した。

「空いてますよ?」

 私はサラリーマン。そして従順な部下なのだ。

「その格好ならギリギリかな」

 今日はパステルブルーのふんわりとしたVネックのニットに黒の膝丈スカートを合わせている。ウエストマークのリボンがポイントなのだけれど、どうせクソ真面目なだけが取得の独身貴族にはこの良さが分からないにちがいない。それにしても何がギリギリなのだろう。小百合からもゴーサインをもらったオフィスカジュアルは外していないと思うのだけれど。

「竹村係長は、どこへ行くにしてもギリギリアウトですよ」
「大丈夫。今日は着替え持ってきたから」





 そこからの作業はスムーズに進んだ。元から竹村係長の頭にはある程度しっかりとしたビジョンがあったようで、企画書の文面にはかなり説得力が感じられる。私が必死で調べあげた競合他社とコラボ予定の前後工程の機械を製造しているメーカーの資料も良い補足資料になっている……と信じたい。我社の経営はほぼ社長のワンマンでイエスマンも多いことから、ファイルサーバーをくまなく検索してもこれまで競合の会社について調べられた形跡はほぼ無かった。これまでよく倒産もせずに、お客様がついてきてくれたものだ。これを機に製品の品質向上や機能改善のヒントなども掴めれば良いのだけれど。営業部も内々に共同展示候補の会社にコンタクトして好感触を得ているらしいし、なんとかこの企画は通ってほしい。


 そしてお昼十二時。



 企画書完成したー!!!!!

 飲みたいー!!!
 寝たいーー!!!
 趣味に没頭したいーーー!!!



 うっかり人目もはばからず小躍りしそうになったその時、襟首を引っ張られてすっ転びそうになる。

「竹村係長、お疲れ様でした! お先に失礼……」
「空いてるんだよな?」
「……空いてます」





 その後は、冬なのに汗臭いオジサンに紛れながら駅前の立ち食い蕎麦で昼ごはんを済ませ、竹村係長の車の助手席に押し込まれた私。赤いスポーツカーなんてものに乗るぐらいの経済的余裕があるならば、ちゃんとしたランチに連れて行ってほしかった。

「あの、今更なんですけど、これからどこに行くんですか?」
「デート」
「デートぉ?!」

 とにかく二人きりになるとキャラが変わりすぎて本当に困る。竹村係長ってもっとお硬い人だったはずなのに。

「冗談抜きで教えてくださいよ。客先訪問なら一度家に帰って私もスーツに着替えたいです!」

 そう、竹村係長は一人、ビシッと決まったスーツに着替えていたのだ。私は簡単な化粧直ししかしてないよ。

「そこまで堅苦しいところじゃないから」
「とりあえず仕事なんですね? じゃぁ、手当てって出ますか?!」
「はい、手当て」

 は?! 何が手当てだ? コイツどさくさに紛れて胸触りやがった! コートの上からだけど許さん! 絶対にキャバクラのお姉ちゃんにも同じようなことをしているんだろうな。これだから嫌なんだよ、オジサンは。

「拗ねるなよ、減るもんじゃないし」

 運転する竹村係長は鼻歌でも歌いそうなぐらい機嫌が良さそうだ。

「これから行くのは先端材料技術展だ。面白いぞー」

 全然面白くない。

「顔赤いな」
「係長は運転に集中してください!」

 車は高速に乗った。車窓には海からの光を反射して白く光る工業地帯。小春日和の今日はドライブ日和だ。

 私は首に巻いていたマフラーを耳を覆うほどにしっかりと巻きなおした。久しぶりの遠出でちょっぴり嬉しいとか、ジャージからスーツになったギャップが良かったとか、男性慣れしていないからか狭い所で二人きりになると無駄にドキドキしてしまうとか、絶対にバレるわけにはいかないから。

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