魔風恋風〜大正乙女人生譚

花野未季

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事件⑤

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「淡路様でいらっしゃいますか?」
 年配の女性が、建物のほうから私たちに声をかけてきた。初夏の薄闇の迫る頃、彼女は闇の中から、ふいっと突然現れたように見えた。

 彼女は私たちの近くまで来て、にこやかに言う。
「お待ちしておりました。さ、こちらへ」
 地味な濃紺のお召が高級そうで、ここの女主人かしら? と思う。

「福徳さん、こんばんは」
 喜代栄さんが挨拶すると、
「あら、喜代栄さんもご一緒なの?」
 福徳さんと呼ばれた人は、不思議そうである。

「いいえ、あたしは今日は違うお席でござんすよ」
「そうですよね。淡路様、仲居頭の福徳と申します。どうぞこちらへ」

 私と婆やは喜代栄さんに挨拶して、福徳さんの後について建物に入った。途中で振り返ると、喜代栄さんは、まだ私たちを見送ってくれている。私は立ち止まって、もう一度頭を下げた。

 茶屋の玄関で履き物を預けると、
「今日のお席は、離れのほうにご用意させていただいております」
 と言われ、私たちは長い長い廊下を歩くことになる。
 和紙で作られた行灯様あんどんようの照明が、廊下にいくつも置かれていて、廊下は薄暗い。

「静かでございますね」
 婆やが小声で言うのに、私も囁き返す。
「そうね。お客様がいると思えないほど静かだけど、離れだからかしら」

 途中で、
「付き添いの方は、こちらでお待ち下さいませ。お飲み物など、ご用意させていただいております」
 と福徳さんに言われ、婆やは先に小さめの部屋に入った。

 一番奥の突き当たりの部屋に着くと、福徳さんは、
「お客様がお見えでございます」
 と中に声をかけ、私に頷いた。
 彼女は襖を開けて、「では、私はこれで」と、丁寧にお辞儀して廊下を戻って行く。

 私はどきどきしながら部屋の中を覗いたが、しぃんと静かで、人の気配がしない。
「あの……」
 中に片足を踏み入れた時、手を掴まれ引っ張られた。

「あっ!」
 私は悲鳴を上げ、転がるように中に入った。実際、畳に倒れ込んでしまっていた。

 何が起きたかわからず、顔を上げた私の目に飛び込んで来たのは……。
「利晴様!」
 利晴さんが、黙って私を見下ろしていた。
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