魔風恋風〜大正乙女人生譚

花野未季

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乾杯の歌

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「あっ、第二幕が始まるみたい」
 近くで女性の声が聞こえてきて、舞台下に立っている男性が、拡声器越しに「シーッ」と言った。客席のざわめきが瞬時に消える。

 今日の歌劇は、お芝居というのではなく、歌手たちが入れ替わり立ち替わり現れて、様々な歌曲を朗々と歌い上げるものだった。

「素敵」
 私の横で舞台に見入っている千代がつぶやいた。
 私は千代の様子を微笑ましく眺める。

 そのとき、千代の斜め後ろに座っている男性と目が合った。ハイカラーの襟が気障きざに見えない、背広姿が板についた男性である。
 鼻筋の通ったきりりとした顔立ち、重そうな一重まぶたのまなじりは切れ長で、武士のような風貌だった。

 その人が軽く会釈してくれた気がしたが、私は恥ずかしくて目を伏せ、慌てて舞台に視線を戻した。
 でも、先程までとは違って舞台に集中できない。ふわふわした気持ちで、胸がどきどきしている。

 意識し始めると、背中に男性の視線が突き刺さるように感じて、緊張のあまり身じろぎも出来なくなってしまった。
 舞台上では、ふたりの男女が歌う『乾杯の歌』が最高潮クライマックスを迎え、舞台袖から本日の出演者が続々と現れて合流し、大合唱になっていた。

 その曲が終わると、客席の人たちが立ち上がり、拍手や「ブラボォ!」と大きな掛け声をかける。舞台上の歌手たちは深々とお辞儀をし、万雷の拍手が鳴り止まないまま、緞帳どんちょうがするすると降りてきた。

 拡声器を持った男性が再び現れて終劇を伝え、観客たちは余韻さめやらぬまま、渋々と席を立っていく。
 私はそうっと後ろを見た。男性はまだ腰掛けたまま、隣にいる人と楽しげに談笑している。
 笑うと、目尻が下がって優しげな顔つきになっていた。

 立ち上がった際に、私はもう一度男性のほうを見た。すると、なんということだろうか、彼は私のほうを見ている!

 気のせいなんかじゃない。じっと私の顔を見て頭を軽く下げている。
 私はどぎまぎしながらも、お辞儀をしてから後方扉に急いだ。
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