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その五
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驚いた裕子が声を上げる前に、雅也の声がした。
「マダム、本当ですか?」
呆気に取られたような雅也に対する徳子の返事は、まるで歌っているかのように、のんびりしたものだった。
「うん、本当に本当。ごめんなさいね、勝手に決めちゃって。でも、あなたに迷惑はかけないわ。ひとりで産んで育てますから。認知して欲しいけど、無理なら全然構わない」
裕子は予想外の出来事に、どう対応すればいいのかわからない。『一番大切な人』って、こんな時、どうするんだろう?
怒る?
それとも泣く?
息を詰めている裕子の耳に、カタカタカタ、とかすかな音が聞こえてきた。何かが動いているのを、裕子の目の端が捉える。
リビングの隅に置かれたアンティーク調の白い飾り棚。その棚の最上段に収められた物が小刻みに動いている。
(あれはたしか、今日問い合わせがあった宝石箱じゃないかしら! なぜ、あれが動いているの? あっ、もしかして地震?)
裕子は「地震!」と叫んで、椅子を引いて立ち上がる。
え? という顔をして、雅也と徳子も立ち上がった。
「地震? 揺れてないけど」
「でも、あれが、あの飾り棚の中の物が動いてました」
あわてる裕子の声に、徳子が飾り棚を見る。彼女はしずしずと近づいて、飾り棚のガラス扉を開いた。
「本当に? 小さな地震でもあったのかしら」
彼女が裕子の方を振り返り、そう言った瞬間、宝石箱がまた動いた。
「あっ、 ほら!」
裕子も飾り棚まで近づき、宝石箱を指さす。
「なんの変哲もない、ただの宝石箱ということはあなたもご存知でしょ?」
徳子は怪訝そうな顔をして宝石箱を取り出すと、ポンと裕子に渡してきた。
裕子は恐る恐る受け取った。箱の蓋を開けてみる。
以前、取材に訪れた時は、手に取ることはなかったが……。
「私と彼はもうすぐ結婚するんです。児島さん、お願いです。子どもは諦めてください」
「いやよ、私にとって最後のチャンスかもしれないのよ。誰の子どもであっても産みたいの」
「誰の子どもであっても? そんな……。ひどい!」
裕子は叫んで、徳子に掴みかかる。
「やめろ、マダムは妊娠してるんだ」
雅也が裕子を後ろから羽交い締めにした。さっき八重洲で支えてくれた時とは打って変わった乱暴な態度に、裕子はカッとなる。
「離して! 雅也さん、あなた馬鹿にされてるのよ? この人は子どもが産みたいだけ、誰の子どもでもいいんだから。それに子どもが欲しいんじゃなくて、もう年寄りだから、最後のチャンスで産みたいだけなのよ」
裕子の言葉に、徳子の眉がぴくりと上がった。
「年寄り?」
「ええ、そうよ。いい年して何やってんのよ!」
「裕子、どうしたんだ、落ち着いて」
雅也が宥めるように言ってくるが、裕子は怒りが収まらない。
綺麗なフローリングに敷かれた、高価そうな毛足の長いラグ。それすらも苛立たしさを助長する。
「そもそも雅也さんの子どもっていう証拠は? このサロンは不特定多数の男性が出入りしてますよね。ここを開く際に、ご主人からの慰謝料だけじゃなくて、いろんな人から融資もしてもらったって聞いてます。どうやったら、そんなお金を引き出すことが出来たのかな? 体を使ったとかじゃないですか?」
言いすぎた。どうしよう。
あら? 徳子の姿が見えない、と裕子は少し冷静になったが遅かった。
徳子が猟銃を提げて、リビングの隣の部屋から出てきた。
「マダム、何を!」という、雅也の切迫した声を合図のように、彼女が猟銃をぴたりと裕子の方に向けて構えた。
ズドン! という音がして、裕子はその場に仰向けに倒れる。今までに経験したことのない激しい痛みで朦朧となる。
息ができない、苦しい、裕子はハアハアと喘いだ。白い壁紙に血が飛び散り、壁を伝い落ちているのが目に入ったが、それが自分の体から出たものだと理解するのに時間がかかる。
「マダム!」
雅也と徳子がもみ合い、再び銃声がして、雅也がのけぞるように後ろに吹っ飛んだ。純白のラグを血に染めて、倒れた雅也の口と顎は原型をとどめず、しばらく痙攣してから彼は動かなくなった。
「マダム、本当ですか?」
呆気に取られたような雅也に対する徳子の返事は、まるで歌っているかのように、のんびりしたものだった。
「うん、本当に本当。ごめんなさいね、勝手に決めちゃって。でも、あなたに迷惑はかけないわ。ひとりで産んで育てますから。認知して欲しいけど、無理なら全然構わない」
裕子は予想外の出来事に、どう対応すればいいのかわからない。『一番大切な人』って、こんな時、どうするんだろう?
怒る?
それとも泣く?
息を詰めている裕子の耳に、カタカタカタ、とかすかな音が聞こえてきた。何かが動いているのを、裕子の目の端が捉える。
リビングの隅に置かれたアンティーク調の白い飾り棚。その棚の最上段に収められた物が小刻みに動いている。
(あれはたしか、今日問い合わせがあった宝石箱じゃないかしら! なぜ、あれが動いているの? あっ、もしかして地震?)
裕子は「地震!」と叫んで、椅子を引いて立ち上がる。
え? という顔をして、雅也と徳子も立ち上がった。
「地震? 揺れてないけど」
「でも、あれが、あの飾り棚の中の物が動いてました」
あわてる裕子の声に、徳子が飾り棚を見る。彼女はしずしずと近づいて、飾り棚のガラス扉を開いた。
「本当に? 小さな地震でもあったのかしら」
彼女が裕子の方を振り返り、そう言った瞬間、宝石箱がまた動いた。
「あっ、 ほら!」
裕子も飾り棚まで近づき、宝石箱を指さす。
「なんの変哲もない、ただの宝石箱ということはあなたもご存知でしょ?」
徳子は怪訝そうな顔をして宝石箱を取り出すと、ポンと裕子に渡してきた。
裕子は恐る恐る受け取った。箱の蓋を開けてみる。
以前、取材に訪れた時は、手に取ることはなかったが……。
「私と彼はもうすぐ結婚するんです。児島さん、お願いです。子どもは諦めてください」
「いやよ、私にとって最後のチャンスかもしれないのよ。誰の子どもであっても産みたいの」
「誰の子どもであっても? そんな……。ひどい!」
裕子は叫んで、徳子に掴みかかる。
「やめろ、マダムは妊娠してるんだ」
雅也が裕子を後ろから羽交い締めにした。さっき八重洲で支えてくれた時とは打って変わった乱暴な態度に、裕子はカッとなる。
「離して! 雅也さん、あなた馬鹿にされてるのよ? この人は子どもが産みたいだけ、誰の子どもでもいいんだから。それに子どもが欲しいんじゃなくて、もう年寄りだから、最後のチャンスで産みたいだけなのよ」
裕子の言葉に、徳子の眉がぴくりと上がった。
「年寄り?」
「ええ、そうよ。いい年して何やってんのよ!」
「裕子、どうしたんだ、落ち着いて」
雅也が宥めるように言ってくるが、裕子は怒りが収まらない。
綺麗なフローリングに敷かれた、高価そうな毛足の長いラグ。それすらも苛立たしさを助長する。
「そもそも雅也さんの子どもっていう証拠は? このサロンは不特定多数の男性が出入りしてますよね。ここを開く際に、ご主人からの慰謝料だけじゃなくて、いろんな人から融資もしてもらったって聞いてます。どうやったら、そんなお金を引き出すことが出来たのかな? 体を使ったとかじゃないですか?」
言いすぎた。どうしよう。
あら? 徳子の姿が見えない、と裕子は少し冷静になったが遅かった。
徳子が猟銃を提げて、リビングの隣の部屋から出てきた。
「マダム、何を!」という、雅也の切迫した声を合図のように、彼女が猟銃をぴたりと裕子の方に向けて構えた。
ズドン! という音がして、裕子はその場に仰向けに倒れる。今までに経験したことのない激しい痛みで朦朧となる。
息ができない、苦しい、裕子はハアハアと喘いだ。白い壁紙に血が飛び散り、壁を伝い落ちているのが目に入ったが、それが自分の体から出たものだと理解するのに時間がかかる。
「マダム!」
雅也と徳子がもみ合い、再び銃声がして、雅也がのけぞるように後ろに吹っ飛んだ。純白のラグを血に染めて、倒れた雅也の口と顎は原型をとどめず、しばらく痙攣してから彼は動かなくなった。
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