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その四
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取材に訪れた段階で既に、雅也から二人の関係について詳しく聞かされていた裕子は、当初は興味津々であった。しかし、徳子の驚異的な若さと美しさを目の当たりにすると、苛立ちと嫌悪感が募り、許せない気持ちになった。
徳子は離婚後、多額の慰謝料を貰い、マンション内で会員制の高級サロンを開いている。
そこは表向き、商談をまとめたい人のための貸しスペースである。
怪しい、何もかも怪しい。
裕子の感覚では、『サロン』などというものは、ちゃんとした商売とは言えないし、そんな場所に若いうちから出入りしている雅也もどうかと思う。
しかし、雅也の上司や大手企業幹部、果ては代議士まで利用していると聞き、雅也が出世コースに乗っているとわかってからは、許す気持ちも芽生えていた。
ただ一つ、サロンの女主人と不潔な関係さえなければよかったのに。
今日、雅也は徳子との関係を解消したい、と頼みに来たのだ。
婚約者役の裕子を伴って。
婚約自体はまだ偽りであるが、裕子と雅也が、少しずつ真剣交際に移行しつつあるのは事実であった。
二人は、マンション四階の徳子の部屋の前に着いた。雅也がインターホンを押し、裕子を見てうなずく。
「はーい」という徳子ののんびりした返事に、雅也が硬い口調で、「こんにちは、田所です」と答えた。
程なくしてドアが開き、象牙色のゆったりしたワンピースを身につけた徳子が顔をのぞかせた。
「お待ちしてたわ。……あなた、『女性画報』さんの? 雅也くんの婚約者って、あなただったの!」
そう言いつつ、徳子はさほど驚いた様子もなく、二人を招き入れた。
「何がいい? まだ日も高いからお酒ってわけにはいかないわね。お紅茶でも淹れましょう」
徳子は二人をリビングまで案内する。
「マダム、先にお詫びします。本当に申し訳ありません。あなたに失礼なことをしておきながら、お付き合いはこれっきりにしてくださいなんて、一方的に偉そうに言ってしまって。反省しています、ほかに言いようもあっただろうって」
雅也は真面目な顔で、頭を深々と下げた。
リビングにある、飲み物のボトルが並ぶカウンターに行きかけた徳子が立ち止まり、ふふっと笑う。
「全然、失礼じゃなくってよ。でもたしかに、ちょっと手荒なとこはあったかな。あれは失礼と言えば、失礼かもね」
雅也の顔が一瞬で真っ赤になる。
裕子は、この手の下品な “ほのめかし” は大嫌いなのだが、受け流そうと素知らぬ風を装った。
「マダム、許してください。こちらの当麻裕子は大学時代からの友人で、もうかれこれ七年は付き合っています。僕にとって、一番大切な人なんです」
先程までの威勢の良さはどこへ行ったのか、雅也の声は震えている。
どこまで本気で言っているのかわからないが、今の私は『彼の一番大切な人』なのだ。そう振る舞おう。
裕子は、上体を九十度近く折るお辞儀をした。
「私からもお詫びします。どうぞ、彼を許してください。そして、私にお返しください。お願いします」
「いやだ、と言ったらどうするの?」
徳子は甘い声でそう言い捨てて、リビング横の小さなキッチンに入っていった。
リビングには、レースのカーテン越しに夕方の日差しが床まで長く伸びているが、狭いキッチンは窓がないのか薄暗く、徳子の表情はわからない。
しばらく無言で顔を見合わせる裕子と雅也だったが、部屋の中は会話どころか、呼吸するのもためらわれるほど静かだった。
キッチンから、ピーッと笛の鳴るような音が聞こえる。お湯が沸いた合図だ。コポコポと熱湯を注ぐ音まで聞こえてくる。
それほど静かで、マンションは外観よりも防音設備など、目に見えない箇所に金がかかっているのだろうな、と裕子はぼんやりと思った。
彼女の思考をさえぎるように、徳子の声がする。
「お待たせ。カウンターに来る? それとも、そちらのテーブルでゆっくりがいいかしら」
返事を待たず、徳子が紅茶セットを載せた銀製のトレーを、ダイニングテーブルまで運んで来た。彼女はトレーをテーブルに置くと、ポットの紅茶をカップに注ぐ。一連の動作は、裕子が思わず見惚れるほど優雅で手慣れたものだ。
徳子に手招きされ、裕子と雅也は席に着く。
「昨日高島屋のフォションで買ったばかりなの、どうぞ。あ、そうそう。頂き物のクッキーもあるわ、精養軒の。今、取ってくるわね。最近お腹が空いて仕方ないの、体重もすごく増えちゃって。ドクターに叱られちゃった。初期にこんなに増えたら、無事に産めませんよって」
「え?」
裕子は聞き違いかと思い、徳子の顔を真正面から見た。
「今、四ヶ月なの。雅也くんの子どもよ。私は産むつもり」
徳子は離婚後、多額の慰謝料を貰い、マンション内で会員制の高級サロンを開いている。
そこは表向き、商談をまとめたい人のための貸しスペースである。
怪しい、何もかも怪しい。
裕子の感覚では、『サロン』などというものは、ちゃんとした商売とは言えないし、そんな場所に若いうちから出入りしている雅也もどうかと思う。
しかし、雅也の上司や大手企業幹部、果ては代議士まで利用していると聞き、雅也が出世コースに乗っているとわかってからは、許す気持ちも芽生えていた。
ただ一つ、サロンの女主人と不潔な関係さえなければよかったのに。
今日、雅也は徳子との関係を解消したい、と頼みに来たのだ。
婚約者役の裕子を伴って。
婚約自体はまだ偽りであるが、裕子と雅也が、少しずつ真剣交際に移行しつつあるのは事実であった。
二人は、マンション四階の徳子の部屋の前に着いた。雅也がインターホンを押し、裕子を見てうなずく。
「はーい」という徳子ののんびりした返事に、雅也が硬い口調で、「こんにちは、田所です」と答えた。
程なくしてドアが開き、象牙色のゆったりしたワンピースを身につけた徳子が顔をのぞかせた。
「お待ちしてたわ。……あなた、『女性画報』さんの? 雅也くんの婚約者って、あなただったの!」
そう言いつつ、徳子はさほど驚いた様子もなく、二人を招き入れた。
「何がいい? まだ日も高いからお酒ってわけにはいかないわね。お紅茶でも淹れましょう」
徳子は二人をリビングまで案内する。
「マダム、先にお詫びします。本当に申し訳ありません。あなたに失礼なことをしておきながら、お付き合いはこれっきりにしてくださいなんて、一方的に偉そうに言ってしまって。反省しています、ほかに言いようもあっただろうって」
雅也は真面目な顔で、頭を深々と下げた。
リビングにある、飲み物のボトルが並ぶカウンターに行きかけた徳子が立ち止まり、ふふっと笑う。
「全然、失礼じゃなくってよ。でもたしかに、ちょっと手荒なとこはあったかな。あれは失礼と言えば、失礼かもね」
雅也の顔が一瞬で真っ赤になる。
裕子は、この手の下品な “ほのめかし” は大嫌いなのだが、受け流そうと素知らぬ風を装った。
「マダム、許してください。こちらの当麻裕子は大学時代からの友人で、もうかれこれ七年は付き合っています。僕にとって、一番大切な人なんです」
先程までの威勢の良さはどこへ行ったのか、雅也の声は震えている。
どこまで本気で言っているのかわからないが、今の私は『彼の一番大切な人』なのだ。そう振る舞おう。
裕子は、上体を九十度近く折るお辞儀をした。
「私からもお詫びします。どうぞ、彼を許してください。そして、私にお返しください。お願いします」
「いやだ、と言ったらどうするの?」
徳子は甘い声でそう言い捨てて、リビング横の小さなキッチンに入っていった。
リビングには、レースのカーテン越しに夕方の日差しが床まで長く伸びているが、狭いキッチンは窓がないのか薄暗く、徳子の表情はわからない。
しばらく無言で顔を見合わせる裕子と雅也だったが、部屋の中は会話どころか、呼吸するのもためらわれるほど静かだった。
キッチンから、ピーッと笛の鳴るような音が聞こえる。お湯が沸いた合図だ。コポコポと熱湯を注ぐ音まで聞こえてくる。
それほど静かで、マンションは外観よりも防音設備など、目に見えない箇所に金がかかっているのだろうな、と裕子はぼんやりと思った。
彼女の思考をさえぎるように、徳子の声がする。
「お待たせ。カウンターに来る? それとも、そちらのテーブルでゆっくりがいいかしら」
返事を待たず、徳子が紅茶セットを載せた銀製のトレーを、ダイニングテーブルまで運んで来た。彼女はトレーをテーブルに置くと、ポットの紅茶をカップに注ぐ。一連の動作は、裕子が思わず見惚れるほど優雅で手慣れたものだ。
徳子に手招きされ、裕子と雅也は席に着く。
「昨日高島屋のフォションで買ったばかりなの、どうぞ。あ、そうそう。頂き物のクッキーもあるわ、精養軒の。今、取ってくるわね。最近お腹が空いて仕方ないの、体重もすごく増えちゃって。ドクターに叱られちゃった。初期にこんなに増えたら、無事に産めませんよって」
「え?」
裕子は聞き違いかと思い、徳子の顔を真正面から見た。
「今、四ヶ月なの。雅也くんの子どもよ。私は産むつもり」
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