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その十五
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(その日はいつ来るのか)
先日以来、そのことがずっと梅の頭を占めている。
近々、未曾有の大災害が来そうだが、為す術もなく、その日が来るのをじっと待つしかないのであろうか。
自分の見たものは、以前と同じ恐ろしいものであったが、今回はどうやら自然災害であり、回避できないもののようである。
千津子は何も言わないが、彼女も梅と同じものを見たのか、布団の中で時折泣いているようだ。
南のほうでは台風が襲来し、強風や大雨が続いている。東京に嵐が来ることはなかったが、その影響で生温い風が吹き荒れていた。
不気味である。
大正十二年九月一日は、朝からとても暑かった。
「九月の声を聞いたというのに、この異常な暑さはなんだろう」「台風のせいかね」
人々は、朝から挨拶代わりにそんな言葉を交わす。
梅はといえば、朝から盛装して駒形を訪れていた。永井の妾に月の手当を渡すためである。
正妻の意地、などというものではないが、いつも以上に多目の鬢付油を使って髪を結い、今年仕立てたばかりの着物を身に着けた。
永井には何人も女がいて、それぞれが自立した職業婦人である。中には小学校の教師もいた。
ただ、梅と同じ芸妓あがりの駒形の女は病気を患って働けないので、梅は彼女に毎月生活費を渡しているのだ。
今月も、女は伏して拝むようにして、梅から金を受け取った。
「おねえさん、いつもすみません」
梅は、礼を言う彼女の顔に “死相” のようなものが見えた気がして、ぎょっとする。
「いいんだよ。それよりお前さんは空気のきれいな所で暮らしたほうがいいんじゃないかい? 旦那さんと相談しておくれ。私からも言っておくけど」
梅はそう言って、駒形を後にした。
十年前、梅は永井に雇われて寄席で働き始めた。契約終了後も、ずるずると東京に居着いて、芸者として貸座敷で働いている。
実家の両親が相次いで亡くなり、大阪にいる意味もなくなったからであった。
永井に請われ妻となったが、好きで夫婦になったのではないし、永井も梅に決して手を出さない。
梅が芸者で日銭を稼いでくれ、芸人たちの面倒から寄席の管理まで一手に引き受けてくれているから、永井は梅と離れられないのであろう。
(こんなふうに人生を過ごして、いつか終わるんだろうねえ)
梅は、本来なら十年前に自分は死んでいるのだから、今の人生はおまけなのだ、という気持ちで日々を送っている。だから、誰にでも優しくできるし、毎日精一杯頑張っていられる気もする。皮肉なことであるが。
駒形から帰って来た梅は、ちょうど家の前で佇む永井を見つけた。彼はきちんとした、というよりも派手な生成りの麻の背広姿である。
「お前さん、朝からどうしたんだい? それに随分とめかしこんで、今からどちらに?」
尋ねる梅に、永井はしかめっつらで答えた。
「いつもの返済を待ってもらうお願いさね。千津子を連れて交渉に行こうと思ったんだが、あの子は?」
「今日は月初めだからね、朝から寄席に行って、掃除してくれてますよ」
永井は、興行を先代から受け継いだ時に、金貸しからかなりの額を借りて寄席を作り替え、事業を拡大したのである。その頃は羽振りもよく、借金なぞすぐに返せそうであった。
けれども、時代の波に見せ物興行は取り残され、前ほど儲からなくなっている。芝居や奇術といったものが人気を集めているのだ。千津子を連れて行きたかったということは、彼女の力で新たな集客を見込める、と訴えかけるつもりか。
永井を見送ってから、冷たい水を飲み、ひと息ついた梅は、はっとする。
永井が着ていた麻の背広。
梅の見た幻で、彼が着ていた上下と同じであった。
(ということは、あの人があの服を着ている日に、地震が来るんじゃないか)
しかも、自分がいま身につけているお召しも、あの幻と同じ。おまけに、今朝、千津子が着ていた浴衣も。
まさかとは思うが、今日かもしれない。どうすればいいのだ。思いすごしであってくれればいいが。
否、二度とあんなつらい目に遭いたくない。
あの時は何もわからなかったし、箱と出会うのが遅すぎた。しかし、今回は前からわかっていたことではないか。再びの失敗はしない。
梅は大急ぎで、お櫃に残っているご飯で握り飯を作り始めた。
「ただいま?」
寄席の掃除から帰って来た千津子は、風呂敷を広げ、着物や身の回りの品を押入れから引っ張り出している梅を見て驚いた。
「ああ、おかえり。千津子ちゃん、隣に行って、松子と捨吉さんを起こしてくれるかい」
先日以来、そのことがずっと梅の頭を占めている。
近々、未曾有の大災害が来そうだが、為す術もなく、その日が来るのをじっと待つしかないのであろうか。
自分の見たものは、以前と同じ恐ろしいものであったが、今回はどうやら自然災害であり、回避できないもののようである。
千津子は何も言わないが、彼女も梅と同じものを見たのか、布団の中で時折泣いているようだ。
南のほうでは台風が襲来し、強風や大雨が続いている。東京に嵐が来ることはなかったが、その影響で生温い風が吹き荒れていた。
不気味である。
大正十二年九月一日は、朝からとても暑かった。
「九月の声を聞いたというのに、この異常な暑さはなんだろう」「台風のせいかね」
人々は、朝から挨拶代わりにそんな言葉を交わす。
梅はといえば、朝から盛装して駒形を訪れていた。永井の妾に月の手当を渡すためである。
正妻の意地、などというものではないが、いつも以上に多目の鬢付油を使って髪を結い、今年仕立てたばかりの着物を身に着けた。
永井には何人も女がいて、それぞれが自立した職業婦人である。中には小学校の教師もいた。
ただ、梅と同じ芸妓あがりの駒形の女は病気を患って働けないので、梅は彼女に毎月生活費を渡しているのだ。
今月も、女は伏して拝むようにして、梅から金を受け取った。
「おねえさん、いつもすみません」
梅は、礼を言う彼女の顔に “死相” のようなものが見えた気がして、ぎょっとする。
「いいんだよ。それよりお前さんは空気のきれいな所で暮らしたほうがいいんじゃないかい? 旦那さんと相談しておくれ。私からも言っておくけど」
梅はそう言って、駒形を後にした。
十年前、梅は永井に雇われて寄席で働き始めた。契約終了後も、ずるずると東京に居着いて、芸者として貸座敷で働いている。
実家の両親が相次いで亡くなり、大阪にいる意味もなくなったからであった。
永井に請われ妻となったが、好きで夫婦になったのではないし、永井も梅に決して手を出さない。
梅が芸者で日銭を稼いでくれ、芸人たちの面倒から寄席の管理まで一手に引き受けてくれているから、永井は梅と離れられないのであろう。
(こんなふうに人生を過ごして、いつか終わるんだろうねえ)
梅は、本来なら十年前に自分は死んでいるのだから、今の人生はおまけなのだ、という気持ちで日々を送っている。だから、誰にでも優しくできるし、毎日精一杯頑張っていられる気もする。皮肉なことであるが。
駒形から帰って来た梅は、ちょうど家の前で佇む永井を見つけた。彼はきちんとした、というよりも派手な生成りの麻の背広姿である。
「お前さん、朝からどうしたんだい? それに随分とめかしこんで、今からどちらに?」
尋ねる梅に、永井はしかめっつらで答えた。
「いつもの返済を待ってもらうお願いさね。千津子を連れて交渉に行こうと思ったんだが、あの子は?」
「今日は月初めだからね、朝から寄席に行って、掃除してくれてますよ」
永井は、興行を先代から受け継いだ時に、金貸しからかなりの額を借りて寄席を作り替え、事業を拡大したのである。その頃は羽振りもよく、借金なぞすぐに返せそうであった。
けれども、時代の波に見せ物興行は取り残され、前ほど儲からなくなっている。芝居や奇術といったものが人気を集めているのだ。千津子を連れて行きたかったということは、彼女の力で新たな集客を見込める、と訴えかけるつもりか。
永井を見送ってから、冷たい水を飲み、ひと息ついた梅は、はっとする。
永井が着ていた麻の背広。
梅の見た幻で、彼が着ていた上下と同じであった。
(ということは、あの人があの服を着ている日に、地震が来るんじゃないか)
しかも、自分がいま身につけているお召しも、あの幻と同じ。おまけに、今朝、千津子が着ていた浴衣も。
まさかとは思うが、今日かもしれない。どうすればいいのだ。思いすごしであってくれればいいが。
否、二度とあんなつらい目に遭いたくない。
あの時は何もわからなかったし、箱と出会うのが遅すぎた。しかし、今回は前からわかっていたことではないか。再びの失敗はしない。
梅は大急ぎで、お櫃に残っているご飯で握り飯を作り始めた。
「ただいま?」
寄席の掃除から帰って来た千津子は、風呂敷を広げ、着物や身の回りの品を押入れから引っ張り出している梅を見て驚いた。
「ああ、おかえり。千津子ちゃん、隣に行って、松子と捨吉さんを起こしてくれるかい」
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