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その六
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親戚の小父さんが帰り、ひとりきりになると改めて心細さにおそわれた千津子だったが、永井が持ちかけた仕事内容に、彼女はひどく驚かされた。
自分はてっきり女中に雇われたのだと思っていたが、彼は突然「芸人にならないか?」と言い出したのである。
「無理です。私は何もできません、踊りもお芝居も」
「お前さんには不思議な力があるだろう? あれを使ってもらいたいのだ」
驚きから失望に変わってしまった彼女の顔色を窺うように、永井は低姿勢で話を続けた。
「噺家の見習いがいるんだがね、そいつと組んで、『千里眼の見せ物』をやってほしいんだよ」
“千里眼” とは透視能力のことであり、明治の一時期、日本中を席巻した話題であった。連日新聞を賑わし、東京帝国大学の学者も巻き込んで展開された事件であったが、十年も経てば、もうすっかり廃れたネタとなってしまっていた。
その一方で、未だ一部に熱狂的な信奉者はおり、信じている人間は意外と多かったのである。
逆に、そういう力は実在するという概念が、現在では定着してしまっているのかもしれない。
「なあに、ウケなきゃそれで別段構わねえ。お前さんにできる仕事は芸人以外でもいくらでもあるんでね。ただ、この仕事やってりゃ実入りが断然違うよ、おひねりが飛んでくる。それは保証する。嬢ちゃんもお金は欲しいだろう?」
どうせ働くと決めたのだから、何でもやろう、と腹を括った千津子が返事する前に、「どうでい?」と永井はなおも優しく言う。
黙ってうなずいた千津子の耳に、永井が嬉しそうに言う声が聞こえてきた。
「よかった、これでしばらく小屋が続けられそうだ」
「小屋が続けられそう?」
千津子の問いに、永井がハッとして胡座から正座に座り直した。
「そうだった。嬢ちゃんは全部お見通しだった」
さっきのは永井の心の声だったと気付き、千津子はあわてた。
その夕方、昼間留守番をしていた女が現れ、千津子に晩御飯を届けて寝具の用意をしてくれた。
彼女は見せ物小屋で “蛇女” をしており、見せ物には一寸法師や力自慢の巨人などがいる、と教えてくれた。
「あんた、えーっと、千津子ちゃんだっけ? あんたは見せ物小屋のほうじゃなくて寄席の舞台のほうかなあ。旦那さんはなんて言ってた?」
「さあ。聞いてないです。明日から練習だってだけ」
「最初は緊張するけど、すぐに慣れるさ。それに、あたしらと違って、あんたはいつでも足洗えるからさ」
蛇女である松子は、そう言った。彼女は今は、マスク代わりの黒布を外しており、その顔は気の毒だが、確かに人世で生きるのは厳しい、と言わざるを得ない姿であった。
色白ではあるが、顔の皮膚はうねうねと鱗状になっており、恐らく体のほうもそうであろうと思われる。
松子によると、蛇女は見せ物小屋の檻の中で一人芝居で呪いの言葉を吐き、蛇や金蛇を食らう姿を見せるらしいが、それはどんなにつらいことだろう、と千津子は想像して震え上がる思いであった。
「梅ねえさんの帰りは夜中になるから、先に寝ててねって」
松子自身は、隣家で “一寸法師” と二人暮らしだという。
「あたしが子供の頃からずっと一緒だからね、気楽なもんさ。あんたもおねえさんと二人で気楽にやりゃいいんだよ。おねえさんは仏さまみたいに優しい人だからね」
「旦那さんはどこに? ご夫婦なんですよね?」
「あたしもよくわからない。一緒には暮らしてないから、他に女がいるんだろうけど」
松子が帰った後、千津子は野菜の煮物と麦混じりの白飯の質素な晩御飯を終え、古い掻巻布団にくるまった。
はるばる多摩から何時間もかけて浅草まで来たせいか、思いの外疲れていたようで、彼女はすぐに眠りについた。
その夜半、カタカタという物音で、千津子は目覚めた。
しばらくの間、ここがどこかわからなくてぼんやりしていたが、再びの物音に(そうだった、ここは浅草の長屋だった)と思い出し、上半身を起こした。
その間もずっと、カタカタという音は続いており、音はどこからするのか彼女は耳をすます。
自分はてっきり女中に雇われたのだと思っていたが、彼は突然「芸人にならないか?」と言い出したのである。
「無理です。私は何もできません、踊りもお芝居も」
「お前さんには不思議な力があるだろう? あれを使ってもらいたいのだ」
驚きから失望に変わってしまった彼女の顔色を窺うように、永井は低姿勢で話を続けた。
「噺家の見習いがいるんだがね、そいつと組んで、『千里眼の見せ物』をやってほしいんだよ」
“千里眼” とは透視能力のことであり、明治の一時期、日本中を席巻した話題であった。連日新聞を賑わし、東京帝国大学の学者も巻き込んで展開された事件であったが、十年も経てば、もうすっかり廃れたネタとなってしまっていた。
その一方で、未だ一部に熱狂的な信奉者はおり、信じている人間は意外と多かったのである。
逆に、そういう力は実在するという概念が、現在では定着してしまっているのかもしれない。
「なあに、ウケなきゃそれで別段構わねえ。お前さんにできる仕事は芸人以外でもいくらでもあるんでね。ただ、この仕事やってりゃ実入りが断然違うよ、おひねりが飛んでくる。それは保証する。嬢ちゃんもお金は欲しいだろう?」
どうせ働くと決めたのだから、何でもやろう、と腹を括った千津子が返事する前に、「どうでい?」と永井はなおも優しく言う。
黙ってうなずいた千津子の耳に、永井が嬉しそうに言う声が聞こえてきた。
「よかった、これでしばらく小屋が続けられそうだ」
「小屋が続けられそう?」
千津子の問いに、永井がハッとして胡座から正座に座り直した。
「そうだった。嬢ちゃんは全部お見通しだった」
さっきのは永井の心の声だったと気付き、千津子はあわてた。
その夕方、昼間留守番をしていた女が現れ、千津子に晩御飯を届けて寝具の用意をしてくれた。
彼女は見せ物小屋で “蛇女” をしており、見せ物には一寸法師や力自慢の巨人などがいる、と教えてくれた。
「あんた、えーっと、千津子ちゃんだっけ? あんたは見せ物小屋のほうじゃなくて寄席の舞台のほうかなあ。旦那さんはなんて言ってた?」
「さあ。聞いてないです。明日から練習だってだけ」
「最初は緊張するけど、すぐに慣れるさ。それに、あたしらと違って、あんたはいつでも足洗えるからさ」
蛇女である松子は、そう言った。彼女は今は、マスク代わりの黒布を外しており、その顔は気の毒だが、確かに人世で生きるのは厳しい、と言わざるを得ない姿であった。
色白ではあるが、顔の皮膚はうねうねと鱗状になっており、恐らく体のほうもそうであろうと思われる。
松子によると、蛇女は見せ物小屋の檻の中で一人芝居で呪いの言葉を吐き、蛇や金蛇を食らう姿を見せるらしいが、それはどんなにつらいことだろう、と千津子は想像して震え上がる思いであった。
「梅ねえさんの帰りは夜中になるから、先に寝ててねって」
松子自身は、隣家で “一寸法師” と二人暮らしだという。
「あたしが子供の頃からずっと一緒だからね、気楽なもんさ。あんたもおねえさんと二人で気楽にやりゃいいんだよ。おねえさんは仏さまみたいに優しい人だからね」
「旦那さんはどこに? ご夫婦なんですよね?」
「あたしもよくわからない。一緒には暮らしてないから、他に女がいるんだろうけど」
松子が帰った後、千津子は野菜の煮物と麦混じりの白飯の質素な晩御飯を終え、古い掻巻布団にくるまった。
はるばる多摩から何時間もかけて浅草まで来たせいか、思いの外疲れていたようで、彼女はすぐに眠りについた。
その夜半、カタカタという物音で、千津子は目覚めた。
しばらくの間、ここがどこかわからなくてぼんやりしていたが、再びの物音に(そうだった、ここは浅草の長屋だった)と思い出し、上半身を起こした。
その間もずっと、カタカタという音は続いており、音はどこからするのか彼女は耳をすます。
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