14 / 52
その十三
しおりを挟む
「梅ちゃん、無事なんか」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、美松が言った。
梅は何も言わずうなずく。
「ほな、あそこで倒れてんのは……?」
「ウチのお姉ちゃんです」
呆然として抱き合う二人をよそに、興福楼に多数の警察官や近所の男衆がなだれ込んで、大騒ぎしているようだった。
翌日以降、連日のように事件の詳細が報道され、世間は大変な騒ぎとなった。以来毎日、惨劇の舞台である興福楼を見物に来る野次馬が多く、近隣の人たちは辟易しているという新聞記事も見られた。
梅は、大事件の渦中の人として、近所の人や世間の好奇の目にさらされながら、実家で息を潜め、隠れるように暮らしていた。
しかし、梅以上に注目されていたのは、児島のほうであった。
彼の生家である、岡山の紡績工場は知らぬ人のいない日本有数の会社である。そこの三男坊が、なぜか大阪に滞在しており、難波新地の一隅にある芸者置屋で起きた大事件の現場にいた。
一体、何があったのだろう、というわけだ。
新聞社は聞き込みに余念がないが、誰もきちんと、それに答えられる人はいないのである。児島に事情聴取した警察は、内部で緘口令が敷かれているし、梅も児島家も沈黙を守っていたからだ。
ひと月ほど経った真夏のある日、梅の許に一通の手紙が届いた。
それは児島からであった。梅を心配する当たり障りのない内容であったが、予定を繰り上げて来月早々に東京に行くという。
「お元気でお過ごしください。またいつかお会いできたら幸いです」
そう結ばれた手紙は、辛い日を送る梅にとって一筋の光明であった。
あの日、返しそびれた宝石箱は、まだ梅の手許にある。
興福楼の台所に置き忘れていたのを、警察署から「忘れ物ではないか?」と、白井家に問い合わせがあり、届けて貰ったのだ。
宝石箱は風呂敷に包まれ、きれいなままで、それを見ると自分の振る舞いが思い出され、自然と涙が出てくる梅である。
(なんでウチはあんな意地悪したんやろ。ほんまやったら米ちゃんが児島さんに会いに行って、今頃は米ちゃんは無事でウチが死んでたはずやのに)
一方で、初めから逃れられない運命だった気もする。
罪悪感から逃れるために、毎回梅は心の中で呟く。
(ウチが見た幻では、米ちゃんがおとうはんに斬られていた。最初からそうなるのは決まってた事なんや……)
それからまたひと月ほど経って、米の新盆を終えた直後、美松が梅を訪ねてきた。
美松は違う置屋に引き取られていて、“事件から逃れることができた強運な娘” として、売れっ妓になっていた。
美松は、廃人のような生活を送る梅に、自分も同じと告げた。
「お互い、あんな悲惨なもん見てしもたらなあ」
と、美松はしみじみと言って、「けど、梅ちゃんとは立場が違うから、なんて慰めてあげたらええかわからんのや」とも言った。
「おねえさん、ウチなあ、夜も寝られへんのです」
美松はうんうんとうなずいて、片袖で目尻を拭いた。
(美松ねえさんに言うてしまおか。ウチの見た奇妙な幻のこと。いや、けど信じてくれんやろなあ)
悶々としている梅に美松が、今日ここに来た要件を、と言って話し始めた。
「こないだ、変わったお客さんが来てな。梅ちゃんを紹介してほしいって言うんや。なんでも東京のほうで、寄席や演芸小屋いう商売を手広くやってはるお人がおって、その人の下で働いてる、言うんやけどな」
どうやら、大事件の生き残りの梅を、東京の芝居小屋に呼びたいらしい。
「えげつない話やけど、いっそ、そういう話に乗るのもええんかな? とも思て。今やったら、ぎょうさん稼げるし。そしたら、そのお金で梅ちゃんが新しい身の振り方、考えられるんちゃうかなあって」
契約期間は一年ほどで、高給が約束されているという。
「しばらく大阪離れるんも、ええ思うねん」
美松は真剣に考えて、梅にとっていい話と判断したのだろう。
「私のご贔屓さんが保証人になって、きちんと契約書交わしましょう、言うてくれてる。せやから、心配事はあらへん」
そこまで言ってくれる美松に、梅は心を動かされた。
「わかりました。おおきに、おねえさん。ウチ、しばらく東京行って働いてみよかな」
そうと決まれば話は早いと、美松は梅の両親への挨拶もそこそこに帰って行った。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、美松が言った。
梅は何も言わずうなずく。
「ほな、あそこで倒れてんのは……?」
「ウチのお姉ちゃんです」
呆然として抱き合う二人をよそに、興福楼に多数の警察官や近所の男衆がなだれ込んで、大騒ぎしているようだった。
翌日以降、連日のように事件の詳細が報道され、世間は大変な騒ぎとなった。以来毎日、惨劇の舞台である興福楼を見物に来る野次馬が多く、近隣の人たちは辟易しているという新聞記事も見られた。
梅は、大事件の渦中の人として、近所の人や世間の好奇の目にさらされながら、実家で息を潜め、隠れるように暮らしていた。
しかし、梅以上に注目されていたのは、児島のほうであった。
彼の生家である、岡山の紡績工場は知らぬ人のいない日本有数の会社である。そこの三男坊が、なぜか大阪に滞在しており、難波新地の一隅にある芸者置屋で起きた大事件の現場にいた。
一体、何があったのだろう、というわけだ。
新聞社は聞き込みに余念がないが、誰もきちんと、それに答えられる人はいないのである。児島に事情聴取した警察は、内部で緘口令が敷かれているし、梅も児島家も沈黙を守っていたからだ。
ひと月ほど経った真夏のある日、梅の許に一通の手紙が届いた。
それは児島からであった。梅を心配する当たり障りのない内容であったが、予定を繰り上げて来月早々に東京に行くという。
「お元気でお過ごしください。またいつかお会いできたら幸いです」
そう結ばれた手紙は、辛い日を送る梅にとって一筋の光明であった。
あの日、返しそびれた宝石箱は、まだ梅の手許にある。
興福楼の台所に置き忘れていたのを、警察署から「忘れ物ではないか?」と、白井家に問い合わせがあり、届けて貰ったのだ。
宝石箱は風呂敷に包まれ、きれいなままで、それを見ると自分の振る舞いが思い出され、自然と涙が出てくる梅である。
(なんでウチはあんな意地悪したんやろ。ほんまやったら米ちゃんが児島さんに会いに行って、今頃は米ちゃんは無事でウチが死んでたはずやのに)
一方で、初めから逃れられない運命だった気もする。
罪悪感から逃れるために、毎回梅は心の中で呟く。
(ウチが見た幻では、米ちゃんがおとうはんに斬られていた。最初からそうなるのは決まってた事なんや……)
それからまたひと月ほど経って、米の新盆を終えた直後、美松が梅を訪ねてきた。
美松は違う置屋に引き取られていて、“事件から逃れることができた強運な娘” として、売れっ妓になっていた。
美松は、廃人のような生活を送る梅に、自分も同じと告げた。
「お互い、あんな悲惨なもん見てしもたらなあ」
と、美松はしみじみと言って、「けど、梅ちゃんとは立場が違うから、なんて慰めてあげたらええかわからんのや」とも言った。
「おねえさん、ウチなあ、夜も寝られへんのです」
美松はうんうんとうなずいて、片袖で目尻を拭いた。
(美松ねえさんに言うてしまおか。ウチの見た奇妙な幻のこと。いや、けど信じてくれんやろなあ)
悶々としている梅に美松が、今日ここに来た要件を、と言って話し始めた。
「こないだ、変わったお客さんが来てな。梅ちゃんを紹介してほしいって言うんや。なんでも東京のほうで、寄席や演芸小屋いう商売を手広くやってはるお人がおって、その人の下で働いてる、言うんやけどな」
どうやら、大事件の生き残りの梅を、東京の芝居小屋に呼びたいらしい。
「えげつない話やけど、いっそ、そういう話に乗るのもええんかな? とも思て。今やったら、ぎょうさん稼げるし。そしたら、そのお金で梅ちゃんが新しい身の振り方、考えられるんちゃうかなあって」
契約期間は一年ほどで、高給が約束されているという。
「しばらく大阪離れるんも、ええ思うねん」
美松は真剣に考えて、梅にとっていい話と判断したのだろう。
「私のご贔屓さんが保証人になって、きちんと契約書交わしましょう、言うてくれてる。せやから、心配事はあらへん」
そこまで言ってくれる美松に、梅は心を動かされた。
「わかりました。おおきに、おねえさん。ウチ、しばらく東京行って働いてみよかな」
そうと決まれば話は早いと、美松は梅の両親への挨拶もそこそこに帰って行った。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
終焉の教室
シロタカズキ
ホラー
30人の高校生が突如として閉じ込められた教室。
そこに響く無機質なアナウンス――「生き残りをかけたデスゲームを開始します」。
提示された“課題”をクリアしなければ、容赦なく“退場”となる。
最初の課題は「クラスメイトの中から裏切り者を見つけ出せ」。
しかし、誰もが疑心暗鬼に陥る中、タイムリミットが突如として加速。
そして、一人目の犠牲者が決まった――。
果たして、このデスゲームの真の目的は?
誰が裏切り者で、誰が生き残るのか?
友情と疑念、策略と裏切りが交錯する極限の心理戦が今、幕を開ける。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
怪物どもが蠢く島
湖城マコト
ホラー
大学生の綿上黎一は謎の組織に拉致され、絶海の孤島でのデスゲームに参加させられる。
クリア条件は至ってシンプル。この島で二十四時間生き残ることのみ。しかしこの島には、組織が放った大量のゾンビが蠢いていた。
黎一ら十七名の参加者は果たして、このデスゲームをクリアすることが出来るのか?
次第に明らかになっていく参加者達の秘密。この島で蠢く怪物は、決してゾンビだけではない。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
朧《おぼろ》怪談【恐怖体験見聞録】
その子四十路
ホラー
しょっちゅう死にかけているせいか、作者はときどき、奇妙な体験をする。
幽霊・妖怪・オカルト・ヒトコワ・不思議な話……
日常に潜む、胸をざわめかせる怪異──
作者の実体験と、体験者から取材した実話をもとに執筆した怪談短編集。
千年夜行
真澄鏡月
ホラー
多くの人々が笑顔で暮らす人間社会……
その裏側で厄災を鎮める為日々奔走するもの達がいた。
紀伊に住む神山 明美、彼女は何不自由なく平凡に暮らしていた。
しかしある日の夜、彼女達の暮らす家を訪れた異質な訪問者により、当たり前の日常は彼女にとって非日常へと転嫁した。
毎月20日更新予定
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる