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その八
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十分後、露草柄の浴衣を脱いで絽の着物に着替えた梅は、晴々とした表情で興福楼を後にした。
待ち合わせ場所の道頓堀まで徒歩で十分ほどだ。宝石箱を返したら、すぐに引き上げるつもりだから、晩餐には充分間に合うだろう。
しかし、雨も上がり、まだ新しい高級な着物を身につけた梅は気分が高揚し、いつまでも大阪市内をうろついていたい気分だった。
なぜなら。
自分を見る周りの男たちと女たちの反応が、梅の自尊心をくすぐるから。
男たちはうっとりと見惚れ、女たちは驚きとやっかみの視線を投げかけてくる。
やや急ぎ足で歩く梅は、母親と小学校上級生くらいの娘の親子連れとすれ違った。その際に、その女の子が立ち止まって叫んだ。
「びっじん! おかあはん、なあ、あの人みたいなんを美人って言うんやろ?」
梅は、え? と振り返る。少女は立ち止まって、呆然としたように梅の姿を見送っている。その子に微笑みかけた梅は、再び早足で歩き出した。
じろじろと無遠慮な目で、梅の頭のてっぺんから爪先まで眺めてくる中年男性、ちらちらと遠慮気味の視線を投げかけるまだ若い書生風の男まで、普段お座敷を勤めていても、ここまで称賛の目つきで見られたことはない。
不思議だ。
(どういうことやろ。さっきの子が言うてたように、ほんまにウチは『美人』になってるんかもしれん)
待ち合わせ場所である夷橋が見えて来た。梅は武者震いした。
橋のたもとで、ぽつねんと所在なげに立っている若い男がいる。
(あれが児島正三郎さんやな)
梅は少し離れた場所から、じっと見つめた。すると、梅の視線に気づいたのか、児島らしき青年は、あっという顔をした。
梅は、しずしずと彼に近づいて行った。
「こんにちは」
梅は膝を少し曲げて、首を傾げるような芸妓風の挨拶をしてみた。
それを見た児島は、微笑んで言った。
「梅さん? ですね。米さんから伺ったことがあります。いやあ、本当にそっくりですね」
(米ちゃん、ウチのことをこの人に言うてたんや)
そのことをどう解釈したものか。
(そらまあ、仲良うなったら家族の話はするだろな。隠しても仕方ないし)
それよりも、児島が想像以上に感じの良い好青年であることが、梅にとって驚きであった。
素直で明るく、おそらく彼は、身分だの仕事だので差別するような人ではない、と梅は直感した。
「米さんは?」
児島が視線を梅の後ろに向ける。梅はそれには答えず、落ち着き払って彼を誘ってみた。
「ここではゆっくりお話しできませんね。どこか座れるところへ行きませんか?」
「はあ」
児島の戸惑ったような態度と返事を無視して、梅はくるりと向きを変え、さっさと歩き出す。
(たしか、この辺にお汁粉屋があったな)
梅は商店が連なる通りに向かう。後から児島も仕方なくついて来ているようだ。
目当ての店は、すぐに見つかった。入口で大判焼きを売っている店だが、奥には座って汁粉や焼餅を食べることが出来る場所がある。
「空いてますか?」
梅の問いに「へえ、どうぞ」と店の女主人が答え、梅は店内の奥まで進む。児島も真面目な顔をして店に入り、二人は向かい合って丸椅子に腰掛けた。
汁粉二人前を注文したあと、梅はすぐに切り出した。
「これ、お返ししてって米ちゃんから頼まれました」
風呂敷包みを開けて箱を出した梅に対して、児島がたまりかねたように言った。
「待ってください。あの、その。米さんはどうかされたのですか? お具合が悪いとか?」
『いいえ、ウチが返して来てあげるって無理言うて、米ちゃんの代わりに来たんです』
そう答えるつもりが、なぜか全然違う言葉が口をついて出た。
「米ちゃんは元気です。けど、仕事を辞めさせられて、ええ気はしてません。児島さんに、ほんまは会いとうなかったんちゃうかなあ」
「仕事を辞めさせられて?」
「ええ。違うんですか? 米ちゃんからそう聞きましたが」
「いいえ、米さんが突然辞めたんですよ」
待ち合わせ場所の道頓堀まで徒歩で十分ほどだ。宝石箱を返したら、すぐに引き上げるつもりだから、晩餐には充分間に合うだろう。
しかし、雨も上がり、まだ新しい高級な着物を身につけた梅は気分が高揚し、いつまでも大阪市内をうろついていたい気分だった。
なぜなら。
自分を見る周りの男たちと女たちの反応が、梅の自尊心をくすぐるから。
男たちはうっとりと見惚れ、女たちは驚きとやっかみの視線を投げかけてくる。
やや急ぎ足で歩く梅は、母親と小学校上級生くらいの娘の親子連れとすれ違った。その際に、その女の子が立ち止まって叫んだ。
「びっじん! おかあはん、なあ、あの人みたいなんを美人って言うんやろ?」
梅は、え? と振り返る。少女は立ち止まって、呆然としたように梅の姿を見送っている。その子に微笑みかけた梅は、再び早足で歩き出した。
じろじろと無遠慮な目で、梅の頭のてっぺんから爪先まで眺めてくる中年男性、ちらちらと遠慮気味の視線を投げかけるまだ若い書生風の男まで、普段お座敷を勤めていても、ここまで称賛の目つきで見られたことはない。
不思議だ。
(どういうことやろ。さっきの子が言うてたように、ほんまにウチは『美人』になってるんかもしれん)
待ち合わせ場所である夷橋が見えて来た。梅は武者震いした。
橋のたもとで、ぽつねんと所在なげに立っている若い男がいる。
(あれが児島正三郎さんやな)
梅は少し離れた場所から、じっと見つめた。すると、梅の視線に気づいたのか、児島らしき青年は、あっという顔をした。
梅は、しずしずと彼に近づいて行った。
「こんにちは」
梅は膝を少し曲げて、首を傾げるような芸妓風の挨拶をしてみた。
それを見た児島は、微笑んで言った。
「梅さん? ですね。米さんから伺ったことがあります。いやあ、本当にそっくりですね」
(米ちゃん、ウチのことをこの人に言うてたんや)
そのことをどう解釈したものか。
(そらまあ、仲良うなったら家族の話はするだろな。隠しても仕方ないし)
それよりも、児島が想像以上に感じの良い好青年であることが、梅にとって驚きであった。
素直で明るく、おそらく彼は、身分だの仕事だので差別するような人ではない、と梅は直感した。
「米さんは?」
児島が視線を梅の後ろに向ける。梅はそれには答えず、落ち着き払って彼を誘ってみた。
「ここではゆっくりお話しできませんね。どこか座れるところへ行きませんか?」
「はあ」
児島の戸惑ったような態度と返事を無視して、梅はくるりと向きを変え、さっさと歩き出す。
(たしか、この辺にお汁粉屋があったな)
梅は商店が連なる通りに向かう。後から児島も仕方なくついて来ているようだ。
目当ての店は、すぐに見つかった。入口で大判焼きを売っている店だが、奥には座って汁粉や焼餅を食べることが出来る場所がある。
「空いてますか?」
梅の問いに「へえ、どうぞ」と店の女主人が答え、梅は店内の奥まで進む。児島も真面目な顔をして店に入り、二人は向かい合って丸椅子に腰掛けた。
汁粉二人前を注文したあと、梅はすぐに切り出した。
「これ、お返ししてって米ちゃんから頼まれました」
風呂敷包みを開けて箱を出した梅に対して、児島がたまりかねたように言った。
「待ってください。あの、その。米さんはどうかされたのですか? お具合が悪いとか?」
『いいえ、ウチが返して来てあげるって無理言うて、米ちゃんの代わりに来たんです』
そう答えるつもりが、なぜか全然違う言葉が口をついて出た。
「米ちゃんは元気です。けど、仕事を辞めさせられて、ええ気はしてません。児島さんに、ほんまは会いとうなかったんちゃうかなあ」
「仕事を辞めさせられて?」
「ええ。違うんですか? 米ちゃんからそう聞きましたが」
「いいえ、米さんが突然辞めたんですよ」
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