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その六
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スッと部屋の襖が開き、庄三郎の声がした。
「梅、梅はまだか?」
顔を上げて庄三郎を見た梅の口から、「ヒイッ」と声がもれた。
庄三郎の顔には点々と血が飛び散り、寝巻きの浴衣の至る所に、おびただしい血飛沫が飛んでいる。彼の右手には、先ほど手入れしていた日本刀が握られており、それは血に染まり真っ赤であった。
彼は仁王立ちで敷居を踏んだまま、部屋の中を見回している。
やがて中に入って来た庄三郎は、無言で血刀を梅に振り下ろした。
梅が咄嗟に身を捩ったため、刀は彼女の右腕の付け根に当たった。梅はぎゃあっと断末魔の叫びを上げてのけぞった。
藍微塵の浴衣の片袖に包まれた右腕が転がった。
「人殺し! 誰か」
弱々しい悲鳴は次の瞬間、途切れた。
バシャッと、番傘の水滴を払うような音が耳元で響いて、彼女はその場に仰向けに倒れた。
しばらくして、梅は起き上がった。
(私、生きてる?)
震えながら立ち上がり、隣の部屋を覗いてみた。布団の上で小寅がうつ伏せに倒れている。
最初、はっきりと小寅とはわからなかった。既に事切れているらしい彼女の姿は、血まみれの布袋のように見える。
(何が、何が起きてるの……!)
よろよろと階段まで行くと、音を立てぬよう降りてみた。
一階は静まり返り、誰もいないかのようである。
台所の配膳台には、食べ終えた後らしい食器が重ねて置かれている。その皿の上には、甘い匂いがしてきそうなソースに海老の尻尾がふたつ。違う皿には、カレールウらしき汁の残りも見える。空っぽらしい白磁のお銚子が何本も転がっているのも見えた。
梅は混乱しつつ、考える。
これはおとうはんが出前頼もう言うた洋食ちゃうやろか。ウチも食べたんか。いいや、食べてない。どういうことやろ?
は、と気づいて外を見ると、外は真っ暗だ。
いつの間にか夜になっている。
ウチが米ちゃんと喋ってたんはまだ夕方やった、明るかった。
米ちゃん!
米のことを忘れていた。
台所を飛び出した梅は、誰かがうんうん唸っているような声に飛び上がらんばかりに驚いた。
その声は、奥の部屋から聞こえてくる。梅は、そうっと近づいてみた。
「ゆるし……初子……」
庄三郎らしき呻き声は、やがて止み、静かになった。
部屋を覗くと、腹に日本刀が刺さった状態で、庄三郎が座椅子にもたれているのが見えた。生きているのか死んでいるのか、ぴくりとも動かない。
腹部から薄赤い肉塊のようなものがはみ出ており、庄三郎がその一部を握っていた。どうやらそれは、割腹した庄三郎が苦しみもがいて、自ら引きずり出した彼の腸のようである。
その横で仰向けで寝かされている初子は、白地に紫陽花模様の浴衣姿だが、喉から胸元にかけて血で真っ赤である。後頭部を割られ、初子と並んでうつ伏せの状態で血の海に倒れているのは、顔を見なくても小まんだとわかった。二人とも多分死んでいる。
大声で泣いている声が聞こえる。しかし、それはどうやら自分の泣き声らしい。
「なんでやねん? なんでこんなことになってしもた!」
静かな興福楼には、蠅が電気傘にぶつかる音と、梅の絶叫だけが響く。
「梅ちゃん? どないしたん?」
米の不審そうな声に、梅はハッと我に帰った。
「米ちゃん! 大丈夫なん!」
梅の叫び声に、うろたえたように米が答える。
「大丈夫かいうんは、私のせりふや。梅ちゃん、箱覗いたまま、しばらく黙り込んで動かんかったから、どないしようか思たわ」
えっ? どういうこと? 私は夢を見てたんか?
米の顔を見て、自分の体を見る。右腕はある。
まさかつかの間、眠ってしまっていたのだろうか。
それにしても怖い夢……。
おとうはんが、あないな顔して刀の手入れしてたんがいかんのや。それで、こんな怖い幻見てもうたんや。
まだ外は明るく、階下からきゃっきゃっと笑っている初子のあどけない声と、「待てえ」と笑いながら喚く小寅の声も聞こえて来た。
「梅、梅はまだか?」
顔を上げて庄三郎を見た梅の口から、「ヒイッ」と声がもれた。
庄三郎の顔には点々と血が飛び散り、寝巻きの浴衣の至る所に、おびただしい血飛沫が飛んでいる。彼の右手には、先ほど手入れしていた日本刀が握られており、それは血に染まり真っ赤であった。
彼は仁王立ちで敷居を踏んだまま、部屋の中を見回している。
やがて中に入って来た庄三郎は、無言で血刀を梅に振り下ろした。
梅が咄嗟に身を捩ったため、刀は彼女の右腕の付け根に当たった。梅はぎゃあっと断末魔の叫びを上げてのけぞった。
藍微塵の浴衣の片袖に包まれた右腕が転がった。
「人殺し! 誰か」
弱々しい悲鳴は次の瞬間、途切れた。
バシャッと、番傘の水滴を払うような音が耳元で響いて、彼女はその場に仰向けに倒れた。
しばらくして、梅は起き上がった。
(私、生きてる?)
震えながら立ち上がり、隣の部屋を覗いてみた。布団の上で小寅がうつ伏せに倒れている。
最初、はっきりと小寅とはわからなかった。既に事切れているらしい彼女の姿は、血まみれの布袋のように見える。
(何が、何が起きてるの……!)
よろよろと階段まで行くと、音を立てぬよう降りてみた。
一階は静まり返り、誰もいないかのようである。
台所の配膳台には、食べ終えた後らしい食器が重ねて置かれている。その皿の上には、甘い匂いがしてきそうなソースに海老の尻尾がふたつ。違う皿には、カレールウらしき汁の残りも見える。空っぽらしい白磁のお銚子が何本も転がっているのも見えた。
梅は混乱しつつ、考える。
これはおとうはんが出前頼もう言うた洋食ちゃうやろか。ウチも食べたんか。いいや、食べてない。どういうことやろ?
は、と気づいて外を見ると、外は真っ暗だ。
いつの間にか夜になっている。
ウチが米ちゃんと喋ってたんはまだ夕方やった、明るかった。
米ちゃん!
米のことを忘れていた。
台所を飛び出した梅は、誰かがうんうん唸っているような声に飛び上がらんばかりに驚いた。
その声は、奥の部屋から聞こえてくる。梅は、そうっと近づいてみた。
「ゆるし……初子……」
庄三郎らしき呻き声は、やがて止み、静かになった。
部屋を覗くと、腹に日本刀が刺さった状態で、庄三郎が座椅子にもたれているのが見えた。生きているのか死んでいるのか、ぴくりとも動かない。
腹部から薄赤い肉塊のようなものがはみ出ており、庄三郎がその一部を握っていた。どうやらそれは、割腹した庄三郎が苦しみもがいて、自ら引きずり出した彼の腸のようである。
その横で仰向けで寝かされている初子は、白地に紫陽花模様の浴衣姿だが、喉から胸元にかけて血で真っ赤である。後頭部を割られ、初子と並んでうつ伏せの状態で血の海に倒れているのは、顔を見なくても小まんだとわかった。二人とも多分死んでいる。
大声で泣いている声が聞こえる。しかし、それはどうやら自分の泣き声らしい。
「なんでやねん? なんでこんなことになってしもた!」
静かな興福楼には、蠅が電気傘にぶつかる音と、梅の絶叫だけが響く。
「梅ちゃん? どないしたん?」
米の不審そうな声に、梅はハッと我に帰った。
「米ちゃん! 大丈夫なん!」
梅の叫び声に、うろたえたように米が答える。
「大丈夫かいうんは、私のせりふや。梅ちゃん、箱覗いたまま、しばらく黙り込んで動かんかったから、どないしようか思たわ」
えっ? どういうこと? 私は夢を見てたんか?
米の顔を見て、自分の体を見る。右腕はある。
まさかつかの間、眠ってしまっていたのだろうか。
それにしても怖い夢……。
おとうはんが、あないな顔して刀の手入れしてたんがいかんのや。それで、こんな怖い幻見てもうたんや。
まだ外は明るく、階下からきゃっきゃっと笑っている初子のあどけない声と、「待てえ」と笑いながら喚く小寅の声も聞こえて来た。
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