43 / 65
Ⅳ Farvel―決別―
42 「泣きな。泣きな」
しおりを挟む
アストリッドの瞳からぼろぼろと涙が溢れ出して止まらない。
「……ごめん、なさい……アストリッドに、聞かせたく、なかった」
噛み締めた唇から零れ落ちた短い言葉。今の自分にはそれだけ口にするのが精一杯で。
錯乱した少女の手が雪を掻き毟っては、責めるようにこちらに投げ付けてくる。
「貴方も結局お母様と同じで、私の気持ちを……無視するのね。貴方なんて嫌い! 大ッキライ!!」
遠慮なく投げつけられる雪の感覚に胸が締め付けられる。泣いている顔を見たくなくて、糾弾から逃れるように視線を雪に落とす。こんな最悪な形で業というのは返って来るらしい。
次の瞬間、頬に一等冷たい衝撃が走った。
「馬鹿っ!」
頬に投げた雪を最後に、立ち上がったアストリッドは町の方へと走り出す。その背中を追い掛ける事は今の自分には出来なくて。
「アストリッド……」
どんどん離れていく背。愛しい少女は、足を止める事も振り返る事もせず遠ざかっていく。
微かに動いた唇から零れたのは言い訳がましい呟き。
「俺は……ただ貴女に、笑ってて欲しかったんだ……っ」
風にかき消される程小さな呟きが、離れていく少女に聞こえるわけが無い。
自分を変えてくれた少女との約束を守りたい。役に立ちたい。その事ばかり考えて生きてきた。
彼女の夢が叶えば自分も彼女も満たされるのだと。それで彼女は泣かないと信じていた。
視線を落とすと、雪上に倒れているリーナの遺体が見える。
「……俺は馬鹿、だな」
少し語学に明るいからって、それが何になるのだろう。アストリッドが錯乱している事すら言い訳にならない。自分の気持ちが行き過ぎていた事に、アストリッドと話し合う道があった事に、何故気付かなかったのか。
いつの間にか冷たい風が頰を叩いている。その痛みを甘んじながら唇を噛み締めていた。
頭上では相変わらず赤色のオーロラが波打っている。
はるか昔海の覇者であったヴァイキング達は、オーロラの光は北欧神話に関係する物だと信じていた。あの光は戦乙女ワルキューレが、勇敢な戦死者の魂を天に運ぶ際の鎧の輝きなのだ、と。
そんな物が今日の夜空に出ている。何て皮肉だろう。
空を見上げたくなくて俯くも、今度は雪上で舞っているお下げが目に入る。行き場のない思いに胸が痛んだ。
気付けば濡れていた頬を容赦なく叩く風が、いつも以上に冷たく感じられた。
***
町に戻ったアストリッド・グローヴェンは一番にトロムソ行きの乗合馬車に飛び乗った。タルヴィクで路銀を稼いでおいて本当に良かった。
「ひっく……」
本当はトロムソに戻るべきでは無いのかもしれないが、今は上手く物を考えられなかった。
自分が戻らなければレオンが死に、リーナの死が無駄になる。この日の傷は死ぬまで自分を苦しめるだろう。
それにウィルだ。
あの金髪の魔法使いから離れたかった。
ウィルが嘘を吐くなんて思っていなかった。それもサーミ人であるレオンの事で。
いや、レオンの事じゃなくとも嘘を吐かないと思っていた。不器用で優しい人だと疑わなかった。
「っ」
でも違った。ウィルは顔を見た事が無い幼子に、情を向けてくれなかった。
思えばウィルは約束したという人を「もう良い」で済ませていた。実は自分が思っていたより優しい人では無かったのか。
ただただ悲しかった。
誰だって嘘はつく。知らない人間は手を伸ばしにくい。自分だってその1人だ。
なのにどうして割り切れないのだろう。あの優しさを信じたかった。
監禁されると分かっているのに戻るのは、頭から被った血の温もりが忘れられないからだ。息子を、息子を、とあの温もりが自分を冥界へと引きずり込む。
レオンを助けに帰らなければ。リーナが命を賭したのだから。
ウィルはきっと、自分がトロムソに戻っている事にすぐ気が付くだろう。止めに来るのだろうか。それとも、自分は見捨てられるのだろうか。
見捨てられた時、自分はまた泣くのだろう。
「……ひっ……う」
涙は止まってくれない。
何故まだこんなに泣けるのか。移動中の夫婦と少しの商人しか馬車に乗っていないからか、自分の嗚咽だけが車内に響いている。
顔を上げると、近くの席に座ってこちらを心配そうに見ている20代程の女性と目が合った。移動中の商人のようだ。
「……酷い顔ね、恋人と喧嘩でもしたの?」
紅い唇が動き話しかけられた。
ずっと心配してくれていたのだろう。眉が下がっている。優しい声がこの状況では有り難く、だからか自分も素直に頷けた。
「嘘、つかれました……」
涙ながらに告げると女性が「ああ……」と呻くように嘆く。
「それは確かに辛いわ……そういう時はいっぱい泣いた方が良い」
「泣くな」ではなく「泣いていい」と言われ、じんわりと染み入る物があった。その優しさに押し出されるようにまた涙が溢れて来た。
「ふ……うぇ」
「泣きな。泣きな」
ぽんぽん、と女性に軽く頭を撫でられ、俯いてまた泣いた。優しい人が乗っていて良かった。これで「うるさい!」と怒鳴られでもしてたら一層凹んでいた。
――人間ってこんなに泣けるんだな。
どこか他人事のように思いながら、また頬を濡らした。
***
遺書にあった通りリーナの遺体は燃やし、遺骨を拾って即席の筒に納めた。
母が亡くなった時も遺体は燃やしたが、この作業は何回やっても慣れてくれない。
「……アストリッド」
彼女は今どこに居るのか。
きっとトロムソに向かっているのだろう。魔法を使えば良いのに、アストリッドと別れてから上手く頭が働かなかった。
「……ごめん、なさい……アストリッドに、聞かせたく、なかった」
噛み締めた唇から零れ落ちた短い言葉。今の自分にはそれだけ口にするのが精一杯で。
錯乱した少女の手が雪を掻き毟っては、責めるようにこちらに投げ付けてくる。
「貴方も結局お母様と同じで、私の気持ちを……無視するのね。貴方なんて嫌い! 大ッキライ!!」
遠慮なく投げつけられる雪の感覚に胸が締め付けられる。泣いている顔を見たくなくて、糾弾から逃れるように視線を雪に落とす。こんな最悪な形で業というのは返って来るらしい。
次の瞬間、頬に一等冷たい衝撃が走った。
「馬鹿っ!」
頬に投げた雪を最後に、立ち上がったアストリッドは町の方へと走り出す。その背中を追い掛ける事は今の自分には出来なくて。
「アストリッド……」
どんどん離れていく背。愛しい少女は、足を止める事も振り返る事もせず遠ざかっていく。
微かに動いた唇から零れたのは言い訳がましい呟き。
「俺は……ただ貴女に、笑ってて欲しかったんだ……っ」
風にかき消される程小さな呟きが、離れていく少女に聞こえるわけが無い。
自分を変えてくれた少女との約束を守りたい。役に立ちたい。その事ばかり考えて生きてきた。
彼女の夢が叶えば自分も彼女も満たされるのだと。それで彼女は泣かないと信じていた。
視線を落とすと、雪上に倒れているリーナの遺体が見える。
「……俺は馬鹿、だな」
少し語学に明るいからって、それが何になるのだろう。アストリッドが錯乱している事すら言い訳にならない。自分の気持ちが行き過ぎていた事に、アストリッドと話し合う道があった事に、何故気付かなかったのか。
いつの間にか冷たい風が頰を叩いている。その痛みを甘んじながら唇を噛み締めていた。
頭上では相変わらず赤色のオーロラが波打っている。
はるか昔海の覇者であったヴァイキング達は、オーロラの光は北欧神話に関係する物だと信じていた。あの光は戦乙女ワルキューレが、勇敢な戦死者の魂を天に運ぶ際の鎧の輝きなのだ、と。
そんな物が今日の夜空に出ている。何て皮肉だろう。
空を見上げたくなくて俯くも、今度は雪上で舞っているお下げが目に入る。行き場のない思いに胸が痛んだ。
気付けば濡れていた頬を容赦なく叩く風が、いつも以上に冷たく感じられた。
***
町に戻ったアストリッド・グローヴェンは一番にトロムソ行きの乗合馬車に飛び乗った。タルヴィクで路銀を稼いでおいて本当に良かった。
「ひっく……」
本当はトロムソに戻るべきでは無いのかもしれないが、今は上手く物を考えられなかった。
自分が戻らなければレオンが死に、リーナの死が無駄になる。この日の傷は死ぬまで自分を苦しめるだろう。
それにウィルだ。
あの金髪の魔法使いから離れたかった。
ウィルが嘘を吐くなんて思っていなかった。それもサーミ人であるレオンの事で。
いや、レオンの事じゃなくとも嘘を吐かないと思っていた。不器用で優しい人だと疑わなかった。
「っ」
でも違った。ウィルは顔を見た事が無い幼子に、情を向けてくれなかった。
思えばウィルは約束したという人を「もう良い」で済ませていた。実は自分が思っていたより優しい人では無かったのか。
ただただ悲しかった。
誰だって嘘はつく。知らない人間は手を伸ばしにくい。自分だってその1人だ。
なのにどうして割り切れないのだろう。あの優しさを信じたかった。
監禁されると分かっているのに戻るのは、頭から被った血の温もりが忘れられないからだ。息子を、息子を、とあの温もりが自分を冥界へと引きずり込む。
レオンを助けに帰らなければ。リーナが命を賭したのだから。
ウィルはきっと、自分がトロムソに戻っている事にすぐ気が付くだろう。止めに来るのだろうか。それとも、自分は見捨てられるのだろうか。
見捨てられた時、自分はまた泣くのだろう。
「……ひっ……う」
涙は止まってくれない。
何故まだこんなに泣けるのか。移動中の夫婦と少しの商人しか馬車に乗っていないからか、自分の嗚咽だけが車内に響いている。
顔を上げると、近くの席に座ってこちらを心配そうに見ている20代程の女性と目が合った。移動中の商人のようだ。
「……酷い顔ね、恋人と喧嘩でもしたの?」
紅い唇が動き話しかけられた。
ずっと心配してくれていたのだろう。眉が下がっている。優しい声がこの状況では有り難く、だからか自分も素直に頷けた。
「嘘、つかれました……」
涙ながらに告げると女性が「ああ……」と呻くように嘆く。
「それは確かに辛いわ……そういう時はいっぱい泣いた方が良い」
「泣くな」ではなく「泣いていい」と言われ、じんわりと染み入る物があった。その優しさに押し出されるようにまた涙が溢れて来た。
「ふ……うぇ」
「泣きな。泣きな」
ぽんぽん、と女性に軽く頭を撫でられ、俯いてまた泣いた。優しい人が乗っていて良かった。これで「うるさい!」と怒鳴られでもしてたら一層凹んでいた。
――人間ってこんなに泣けるんだな。
どこか他人事のように思いながら、また頬を濡らした。
***
遺書にあった通りリーナの遺体は燃やし、遺骨を拾って即席の筒に納めた。
母が亡くなった時も遺体は燃やしたが、この作業は何回やっても慣れてくれない。
「……アストリッド」
彼女は今どこに居るのか。
きっとトロムソに向かっているのだろう。魔法を使えば良いのに、アストリッドと別れてから上手く頭が働かなかった。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説

エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

もう散々泣いて悔やんだから、過去に戻ったら絶対に間違えない
もーりんもも
恋愛
セラフィネは一目惚れで結婚した夫に裏切られ、満足な食事も与えられず自宅に軟禁されていた。
……私が馬鹿だった。それは分かっているけど悔しい。夫と出会う前からやり直したい。 そのチャンスを手に入れたセラフィネは復讐を誓う――。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
私の入る余地なんてないことはわかってる。だけど……。
さくしゃ
恋愛
キャロルは知っていた。
許嫁であるリオンと、親友のサンが互いを想い合っていることを。
幼い頃からずっと想ってきたリオン、失いたくない大切な親友であるサン。キャロルは苦悩の末に、リオンへの想いを封じ、身を引くと決めていた——はずだった。
(ああ、もう、)
やり過ごせると思ってた。でも、そんなことを言われたら。
(ずるいよ……)
リオンはサンのことだけを見ていると思っていた。けれど——違った。
こんな私なんかのことを。
友情と恋情の狭間で揺れ動くキャロル、リオン、サンの想い。
彼らが最後に選ぶ答えとは——?
⚠️好みが非常に分かれる作品となっております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる