アストリッドと夏至祭の魔法使い

上津英

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Ⅱ havn―海―

18 「精霊まで本当に居るの? あっ居るかあ、へー……」

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「ウィル、クララ、お疲れ様。これからは船乗りの領分、お前らの手伝いは不要だ。お前らが寝ている間にこの船はトロムソを発ってるだろうよ。明日以降は俺や船員が頼んだ事をしてくれ。8番庫が空いたから、お前らは航海中そこで休んどけ。ああ途中食堂で毛布や夕飯を貰って行けよ。それとウィル、お前は夕食の量を減らせ」
 ルーベンはそう言い捨て、白煙毎くるりと体の向きを変えて数人の船乗りが集まっている船首に歩いていく。
 「どうしてウィルの話が出るんだ?」と気になり、静かになった甲板で隣の青年を見て――目を見張る。

 顔色が悪かったのだ。
 停船しているとは言え海上は海上。どうやら船酔いに襲われているようだった。ルーベンはこれを言っていたのだろう。

「お疲れ様、凄い頑張ってたね。ねえ、大丈夫? 貴方船に乗った事……ないよね」
「はい……。船の揺れって、独特ですね……頑張ったら無性にコーヒーが飲みたくなりました……」
「そうね、私も飲みたい。淹れてあげる、屋敷でも頻繁に淹れてたから得意なのよ。でも……だ、大丈夫? コーヒー飲める? 辛いなら早く休みなさい」

 ノルウェー人はコーヒーが大好きだ。この魔法使いもコーヒーを愛飲してる事は想像に難くないが、力無く笑っている人物があの液体を飲んでは不味い気がする。

「心配してくれて、有り難うございます……これが船酔い、ですか。でも、大丈夫です……俺には魔法があります、から。コーヒー、飲みましょう?」
「じゃ、じゃあついでに貰って行きましょう。ああでも、こんな時間にコーヒーを飲むのは良くないかな……」
「ご心配なく、そこも魔法がありますから……淹れてください。貴女が淹れてくれたコーヒー、飲みたいです……うぷっ」

 抑揚無く話すウィルの横顔を見て、悩んだ末頷く。
 魔法がある、と言う一言がすっかり通貨よりも信頼出来るようになってきてしまった。風のない船内に入ると、一仕事終えた充足感から頬が緩んでいく。
 ルーベンに言われた通り食堂に寄った。
 食堂には多くの船員達が居て、酒盛りの準備をしている。自分達の姿を見る度船員達がわっと盛り上がるのは慣れないし、きっと下船まで慣れないだろう。

「あの、少し良いですか?」

 アクアビットというジャガイモから作られた蒸留酒を選んでいた船員に、夕食の事を尋ねる。8番庫が当面の家になった事とコーヒーが飲みたいと言う事、ウィルが船酔いしている事を伝える。
 面倒臭そうに溜め息を吐かれながらも、棚からフラットブレッドという薄いパンとスモークサーモン、イェトストという茶色いチーズ、肴用に準備されていたキャベツと人参のマリネ、一握りのドライベリー。それらを少な目に2人分用意してくれた。ベリーが好きなので赤色の果実に胸が躍る。
 残り少なくなったコーヒー豆が入った麻袋とお湯、グラインダーも雑に渡される。

 結構な大荷物になったので、夕食とコーヒー用品を自分が。茶色い毛布に、杖に引っ掛けたランタンをウィルが持ち、パタリと人の姿が見えなくなった船底の1番奥、動力室の隣にある8番庫に向かう。
 ピアノが2台入るかどうか…という暗くて狭い倉庫。魚の運搬に利用していたのだろう、扉を開けた瞬間鼻をついたのはムッとした生臭さだった。

「ふー……」

 扉を閉めるなり頭上に火の玉が数個出現し、ぱっと室内が明るくなる。
 夕食が乗った木製のトレイを床に置き、久しぶりに座る事が出来た。

「今コーヒー淹れるから、貴方は少し休んでなさい」

 グラインダーの準備をしながら言う。横目で見たウィルは扉を背に片膝をついて、「すみません」と謝ってから休んでいた。
 良く見ると、扉に凭れ掛かっているように見えた背は空気で出来たクッションでも挟んでいるかのように離れていて、空気製のマットにでも乗っているみたいに体が床から少し浮いていた。確かにこれなら船酔いは関係なくなる。
 ゴリゴリと豆を挽きながら正面で休んでいる青年に話しかける。使い切れるかと思っていた豆はもう一杯分残った。

「ウィル……改めて有り難う。貴方が助けに来てくれなかったら、私は今も地下牢に居た。ピアノも弾けなくなっていたわ。感謝してる」
「貴女のファンだと言ったでしょう……気にしないで下さい」
「なら良かったわ。ねえ魔法って凄いのね。人を浮かせたり睡眠もどうにか出来るのでしょう? でもスウェーデンまでは行けなかったり出来ない事もあるのが不思議だわ」
「ああそれは……神様より凄い事をしちゃ駄目、って事なのでしょうね。実際俺が使える魔法も、大きく分ければ2種類しか無いんですよ。杖や魔法使いの意識と声が必要なのは同じですが、精霊魔法と人体魔法になります」

 豆を挽き終え煮出す作業に移ると、コーヒーの香ばしい香りが室内に満ちていく。この瞬間が大好きで、屋敷でも良く豆を挽いていた。

「精霊魔法はその名の通り、精霊の力で魔法を使います。16世紀のスイスの錬金術士パラケルススが提唱した四大元素、火水風土を魔法使いは自由に操作出来るんです。貴女を地下牢から落としたのは土、こうして火の玉を作るには火、海を凍らせたのは水、離れた場所の人と会話するのは風、という風に」
「精霊まで本当に居るの? あっ居るかあ、へー……」

 到底信じられない存在に驚いたが、魔法使いの杖が変に丈夫な事、アイスランドにエルフが居るらしい事を思い出し納得する。自分達は目に見える物より見えない物に囲まれて生きているようだ。

「貴方がショパンやクララを知っているのも、多言語喋れるのも、風の魔法の力ね?」
「良く分かりましたね。そうです、山奥での娯楽と言ったらコンサート会場の音を聴いたり、当時はまだ生きていた他国の魔法使いと話すくらいでしたから。おかげでいつの間にか多言語使いになりましたよ」
「人体魔法ってのは何? ちょっと物騒な名前だけどやっぱり怖いの?」
「確かにこっちは怖いと思います……エルフが得意とする、人体に干渉する魔法の事です。睡眠や治癒力を操ったり、喉を乾かしたり嘔吐させたり……人体に関する事ならほぼ何でも出来ます。こっちの方がある意味魔法使いらしいですが、術者への代償もあるので使いにくくはありますね。記憶操作は魔法使い絡みの記憶しか消せないですし……」

 丁度コーヒーの抽出が終わった。青年の碧眼には先程よりも力が宿っている。船酔いも大分治まったようだ。
 「無理せず飲むのよ」と木製のコーヒーカップを渡し、夕食の支度を始める。

「同じ魔法でも、精霊魔法と随分毛色が違うのね」
「人体魔法はエルフの魔法ですしね。それに表裏って何にでもある物でしょう」
「まあね。ねえ、代償って何? 私を眠らすって魔法は人体魔法なのでしょう? 私、代償、なんて聞いてまでぐっすり眠りたくないのだけど……」
「向き合わないと使えないと言うのと、術者が抗いがたい睡魔に襲われてしまう、ってだけですよ。ですからアストリッドは気にしないで下さい。俺も眠くなるので丁度良いですよ。ただ寝る、それだけとは言え数時間から数日以上無防備になってしまうのは、エルフの魔法を人間が使う弊害なんだとか。まあこれは何度も叩き起こせば起きる事の方が多いですが」
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