アストリッドと夏至祭の魔法使い

上津英

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Ⅱ havn―海―

14 「おい、待てお嬢ちゃん!」

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Ⅱ.havn―海―



「っはあ……」

 それからもう数分走った頃、突然ウィルが走るのを止めた。振り返ると、航海灯は先程よりも大分離れたところで光っていた。
 ホッとしたようにウィルが息をつく。

「ここまでくればもう大丈夫ですかね……?」
「うん、ごめんね有り難う。……あの、えーと、離して貰って良い?」
「え? ……ああああっ! ごめんなさいっ!」

 何の事か理解していなさそうな呟きが聞こえた数秒後。ようやく気付いたらしいウィルが慌てて体を離す。

「ごめんなさい悪気は無かったんです……!」

 情けないその声は、先程まで騎士で居てくれた人の物とは思えなかった。
 申し訳無さそうに顔の向きを変えるウィルを見ていると、自分も先程の雑念を思い出してしまいそうだ。「んんっ」と少し大袈裟に咳払いをした後、暗がりにも分かる程輪郭が浮かんできた対岸を映す。

「……気にしないで。助けてくれて感謝しているわ。海、無事に渡れそうで良かった、有り難うね。国境に向かう前に港に寄って、長旅の準備をしましょう?」
「は、はい。……えーっと、そうですね。クララ」
「それ、ちょっと呼ぶの早すぎない?」

 偽名で呼ぶよう頼んだのは自分だが、まだ陸にも足を着けていない。くすっと笑って指摘すると、ウィルは「ごめんなさい」といつもより早口な、どこか強張った声で返してきた。

「あー寒かった……その杖、細いのに意外と丈夫なのね」
「魔法使いの杖には精霊の加護がありますから」

 浅瀬に到着すると少し気温も変わってホッとした。漁船に気付かれかけたが無事に島から脱出出来た。まさかロヴィーサも、自分が船を使わずに本土に渡ったとは思うまい。
 本土の港は連絡船や近隣の荷馬車が往復する為、ちょっとした宿場町になっている。昼夜問わず船が停まり本土の人間もあちこちから来る為、夜遅くまで市場もやっている。
 ここには何度か訪れた事があるが、ロヴィーサは市場を見る時間をくれなかったので、自分も初めてゆっくりここを見て回る。嬉しくて心が浮ついた。
 が、「駄目だ」と思い気を引き締める。ここはゴールではない。これからが夢へのスタートなのだ。

「そうそう、俺が使える魔法は野宿に向いていますよ」

 砂浜の踏み心地に感動している時。
 隣に立って伸びをしていたウィルがどこか得意気に話し始めた。この魔法使いは、時折鼻を高くする子供っぽい一面がある。

「火や水は勿論、即興の地下室も作れますからね。港で揃えるのは干し魚など食事だけで十分です」
「水を持たなくて良いのは心強いわ。有り難う。後ごめん、また1つお願いがあるのだけど」

 無数のランタンが煌々と光っている港に向かうべく砂浜を歩きながら言う。同じように歩き出したウィルが「はい?」と応じてくれた。

「貴方の魔法で屋敷に聞き耳を立ててくれない? リーナの……レオンの様子が知りたいの。さっき聞いてしまったのだけど、レオンの具合が悪いみたいで心配で」
「レオンってリーナの息子ですよね。それは勿論構いませんが……もしかして屋敷を発つ前、何か言いたそうにしていたのはこの事だったのですか?」

 ウィルに指摘され「うん……」と肯首した。
 島から抜け出すまでは気にしないようにしていただけに、一度名前を口にしたら頭から離れなくなってしまった。

「私さ……夢を追うとは決めたけど、どうしてもあの親子の事が気になってしまうの。歳が近い人と一緒に住むのは初めてだったから、リーナもレオンも大好きなのよ。気になるのはサーミだからってのもあるんだと思う。屋敷の人はレオンには優しいけれど、でも心配で……元気で居るかぐらいは知りたくて」

 俯きながらぽつりぽつりと理由を話す。
 不思議だ。
 どうして会ったばかりの青年にこんな事まで吐露しているのだろう。きっと何度も危機を救ってくれているのと、あの優しい瞳が何でも聞いてくれそうだったからだ。
 ウィルはぼそっと呟いた後黙った。きっと魔法を使ってくれたのだろう。

「……」

 悲しいがサーミ人に好意的な自分は、ケーキが嫌いな人間と同じくらい変わって見えるだろう。
 すぐ斜め後ろを歩いている青年がどんな表情をしているのか気になったが、振り返るのが怖いのもあり「どうせ暗くて見えないから……」と理由をつけて止めた。
 暗い海から吹く風が髪の毛を何回も何回も揺らした頃。魔法使いが口を動かした。

「ロヴィーサがレオンの看病をしている、のかな。具合は悪いみたいです、が、うーん、大丈夫……だとは思います。今屋敷にはロヴィーサとレオンしか居ないみたいで、ちょっと良く分からないですね。また後で探ってみます」

 ウィルの言葉にホッとしたのは、母がレオンに優しいと分かったのが大きい。

「ううん、それだけ分かれば十分よ、有り難う。リーナが居ないって事はやっぱり気付いてるのね。追って来なければ良いけど」
「それは大丈夫じゃないですかね。船も使いませんでしたし、歩いてスウェーデンに行くわけですし。偽名だって使いますし」

 だと良いけど、と呟き一旦話が終わった。
 気が付けば港の光はすぐそこにあって、赤い倉庫から樽を運んでいる船乗りの姿まで見える。
 その時。
 ぽつりとウィルが口を開いた。

「……俺は山奥で暮らしていた分、麓の村人よりも遊牧中のサーミ人と触れ合う事の方が多かったんです。山奥に子供が居ると言うのに彼らはそれすら気にしないでくれて……皆さん気持ちの良い方でした」

 この青年が何を言いたいかが分からなくて、振り返ってひとまず頷いた。
 明かりが近くなったおかげか、先程よりもウィルの顔が良く見えた。浮かんでいるのは懐かしそうな、嬉しそうな、穏やかな表情。

「なのでサーミ人は数少ない俺の隣人なんです。貴女が彼らを馬鹿にしない人で良かった、感謝します」

 目元を和らげて感謝の言葉を口にする青年は穏やかで、不安と心配でざわついたこちらの心まで凪いでしまう物があった。
 同時に先程の青年の温もりを思い出して。体温が上がるような感覚に襲われ、返す言葉が少々遅れてしまった。

「っ……当然でしょう、そんなの。わ、私ちょっと先行って買う物を見繕って来るわ。貴方には任せられないし!」

 気恥ずかしさを誤魔化すように口を衝いたのは、いつもよりも強めの言葉。

「え、ちょっと待って下さいよ! ア――クララ!」

 後方からウィルの声が聞こえて来た時にはもう駆け出していた。
 そうだ。
 歳の近い異性と触れ合う時間が、自分は人よりも少なかった。グローヴェンの屋敷には同性しか居なかったし、学校も辞めさせられて、家庭教師も勿論同性で。
 歳の近い異性と話すなんて、人の家や教会や冠婚葬祭くらい。だからウィルと話して少し緊張しただけだ。それだけだ。
 大体ウィルとは会ったばかりで、これからこの害の無さそうな青年と2人で長旅をする事に、少しだって支障は無い。そもそもウィルには想い人が居て――。

「おい、待てお嬢ちゃん!」

 倉庫の近くで荷物を運んでいた男性に呼び止められたのは、そんな事を考えている時だった。
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