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Ⅰ Trollmann―魔法使い―

12 「でもアイスランドには住んでいないのね。ふふっ、ちょっと面白いわ」

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 レオンが十分な医療を受けられる時間もなく、更に劣悪な場所に入れられる。そんなの、より死ぬ可能性が高まるだけだ。

「私も悪魔では無くてよ。アストリッドが見付からない内は医者には診せてあげないけれど、看病くらいはしててあげるわ。ほら、さっさと行きなさい!」

 冷たい声が耳を突く。言っている事は優しいが、ようはレオンを人質にすると言う宣言。
 そうだ、自分が後は走ればいい。
「有り難う御座います」と呟いて涙を拭い、冷え切った廊下に出る。
 レオンの顔を見たらもっと泣いてしまいそうで見れなかった。他の女中と合流し、港の方に探しに行く旨を伝えて屋敷を飛び出した。

 アストリッドの事は好きだ。
 憎む気持ちなんてこれっぽちも無い。もしこれが本当に家出ならアストリッドはそうするべきだとさえ思う。
 先日アストリッドとレオンとでキノコ狩りに行った事を思い出した。レオンを抱いて歩く令嬢は、見慣れぬキノコを見つける度振り返って「これ食べられる?」と聞いてきた。ずっとレオンが笑っていて、時間が過ぎるのが早かった。
 あのような時間をまた、息子に味あわせてあげたかった。

***

 200年前の戦争で採られた作戦。
 月明かりの中金髪の魔法使いに問われた事を、アストリッド・グローヴェンは答えられなかった。

「ごめんなさい、分からないわ。教えてくれる?」

 眉を下げて言うと、ウィルがふふっと笑みを深めた。

「1658年カール・グスタフ戦争中の作戦の1つです。それは今では氷上侵攻と呼ばれていまして」

 雪上に細い杖を突いているウィルの言葉に、「あっ」と声を上げる。
 氷上侵攻――それなら知っている。スウェーデン軍が凍った海面を進んでデンマーク軍を奇襲した有名な作戦だ。
 酒場でスウェーデン人とデンマーク人が一緒になったら、スウェーデン人は今でもこの話をデンマーク人にして勝ち誇ると聞く。
 ウィルは海面を歩いて本土まで行こうと言っているのだ。
 島と本土は大体徒歩10分程だろう。確かにそれなら船に乗らなくて済む。
 頬を持ち上げて隣に立つ青年を見上げた。

「良いじゃない! 有り難う、早速行きましょう」
「良かった。お役に立てて何よりです」

 いつの間にか海面を凍らせたらしいウィルが、ぐるりと杖を回転させ少々杖底を弄った後。グサッと意外な音を立てて氷上に杖を突いたのでふと思った。

「……もしかして魔法使いの杖ってピッケルも兼ねてる? なんかちょっと……夢が無いわね」
「……ええまあ。ピッケル仕様の杖は雪国の魔法使いだけですが、ちょっと格好悪いですよねえ……」

 どこかしょぼくれたウィルの言い方が面白くてクスッと笑った後、自分も氷上に足を乗せた。凍った海に立っている――不思議な気分だ。

「怪しまれるので火の玉は出しませんし、海面を凍らせるのも俺の周辺だけにしますから、あまり俺から離れないで下さいね。えっと、そうですね、あの……ローブを掴んでて下さい、俺は滑りにくい靴ですし杖もありますので。船は勿論、鮫や鯨が来ても面倒ですし、とっとと渡り切ってしまいましょう」

 何度も首を縦に振って頷き、闇に溶け込んでいるローブの裾を掴んだ。革靴で氷上を歩くのは思った以上に大変で、風を遮ってくれる物が無い海上は町中よりもずっと寒い。

「……ううう寒い……。ねえ、何か話しましょう? その方が気が紛れるわ」

 セロリの次に寒さが嫌いだ。黙っていたら凍え死んでしまいそうなので話しかける。
 ザクッザクッと音を立てて歩く青年に話し掛けると、「それなら……」とウィルが頷いたのが分かった。

「ウィル、貴方のフルネームが知りたいわ。これから旅をするんだったら、知っておいた方が便利だもの」
「俺に……いえ、魔法使いに姓はありません。強いて言うならエイリクソンで、父親の名前が姓になるアイスランドと勝手は同じです。アイスランドにはエルフが居ますから、俺らはご先祖様を敬ってアイスランドを模しているんです」

 至近距離で話すウィルの横顔を見上げる。

「でもアイスランドには住んでいないのね。ふふっ、ちょっと面白いわ」
「そうですよね。多くのクリスチャンがエルサレムに住んでいないのと、この辺は同じかと思いますよ」

 頬を緩ませる自分を見て青年も目を細める。

「そっか。貴方も北部ノルウェーで暮らしていたの?」
「はい。俺はトロムソから1週間程東に歩いた山奥で、両親とひっそり暮らしていました」
「じゃあ魔女狩りが酷かった地域の比較的近くに居たんだ。貴方達はどうしてそこから離れなかったの? 見付かったらすぐに殺されてしまいそうなのに」
「それは俺も気になって両親に聞いた事があります。答えはオーロラが見たかったから、でした。それに今は19世紀ですしね。見付かったとしてもどうとでも逃げられるのだから、と。どうやら人間はあの光に焦がれてしまう性分のようですよ」

 しみじみとしたウィルの言葉に「そっか」と頷いた。大人程あの光を愛しているのはあると思う。自分なんかは空にオーロラが出ているのは当たり前で特に気にならないが、崖上の老夫婦は「あれ程綺麗な物はない」と良く言っていた。

「お母様もオーロラが見たいから、と私が小さい頃にクリスチャニアから北部に移住したのよ」
「えっ、クリスチャニアから? 首都からわざわざ北部に移られたなんて珍しいですね」

 斜め前を歩いている金髪の青年が驚いたように言ってくる。
 ノルウェー政府は現在デンマークやスウェーデンの顔色を窺うのに精一杯なので、首都がある南部ならともかく北部にまで気を回す余裕が無い。北部は南部との交通すら確立されていない地域の方が多いくらいだ。最近クリスチャニアで計画されている鉄道とやらも、北部までは走りに来ない予定だ。
 それなのに好き好んで移って来るのは、蒸気船から帆船に買い換えるような物。おかげで北部ノルウェーは未だ泥臭い。

「うん、長い女中に教えて貰っただけだけど、お母様は元々クリスチャニアの名家の出でね。社交界で会った男爵と結婚して私を産んだそうだけど離婚して、トロムソに移り住んだの。トロムソに来たのは、オーロラを見上げたかったお母様の希望と聞いたわ。お母様は元々家で編み物ばかりしている人だから、交通が不便でも良いのだって」
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