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Ⅰ Trollmann―魔法使い―
3 「お母様、それはあんまりよ!」
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「分からず屋はどっちよ!」
「お母様よ!!」
声を張っていく内に段々何を言っているか分からなくなってきた。感情的なのは自分もだと頭の片隅では理解出来ているのに、一度渦巻いた激流は止められない。
「勝手に演奏してたのは謝るわ、お母様昔から私が音楽やるの嫌がってたものね。でもお母様聞いて!」
「止めて聞きたくないわ!!」
板張りの廊下に金切り声が響いた。何としてでも自分を黙らせようと思ったのか、次の瞬間ロヴィーサが勢い良く手を振り上げる。
「っ」
叩かれる。ハッとし、頬に走るだろう痛みに備えて反射的に目を瞑る。
「いけません、ロヴィーサ様!」
が。
リーナの声が廊下に響くだけで一向に痛みは走らなかった。
「え……?」
不思議に思い、恐る恐る目を開け――飛び込んできた光景に我が目を疑った。主君に諫言しようとしている女騎士のように張り詰めた表情で、リーナが母の腕を掴んでいる。
「離しなさいリーナッ!! これは命令よ!」
「嫌です! 幾ら母親であっても――いえ、母親だからこそ子供に手を上げてはいけません!」
内気な性格のリーナにしてはハッキリと言い首を横に振る。毛糸帽に隠れた黒いお下げも一緒に揺れた。
驚いた。
まさかこの家の女中が――特にリーナがロヴィーサに物申すとは。
この女中は遊牧ではなく町で暮らす事を選んだサーミ人だ。山で培った度胸と運動神経を活かして、1歳半の息子の為にグローヴェンの屋敷で働くようになった。
サーミ人を住み込みで雇う家は希少だからか、リーナは人一倍ロヴィーサに従順だ。
しかしリーナも母親。このロヴィーサの行動は許せなかったのだろう。
「有り難うリーナ」
囁くように礼を言い、リーナが腕を押さえていてくれている間に体勢を整える。
廊下の奥で女中が2人こちらを窺っている。男嫌いの母は女しか雇わない。
用心棒兼女中のリーナを含めこの屋敷の女中は3人。年配で古参の女中頭、痩せぎすの料理担当、リーナの3人だ。
「お母様、私ピアノが好きなの! お母様が嫌がっててもこの気持ちを止められなかった。それくらい好きなのっ! だからピアノをやりたいのっ! ドイツで師事を受けてピアノの勉強がしたいと思っています!」
母の顔をまっすぐ見ながら思いの丈をぶつける。頭の血管が切れそうな母が、蒸気船に乗った自分を見送りに来てくれる事は無さそうだ。
ギシッ、と。次の瞬間廊下に響いたのは、ロヴィーサの擦り合わされた歯から聞こえる音だった。
「音楽はやっちゃ駄目!! いい加減聞き分けなさい! リーナ! アストリッドを押さえなさい! この子には暫く――こんな戯言を言う気も無くすくらいの時間、地下牢に入って貰う事にするわ!」
「地下……!?」
母の口からこんな言葉が出るとは思わなかった。母と言い争う事は昔からあったが、地下牢を持ち出されるのは初めてだ。
すぐ近くに立っているリーナも驚いて唖然としている。反応出来ずにいるリーナを主人は青銅色の瞳で睨み付ける。
「早くしなさいっ、クビにするわよラップ人! 貴女の可愛いレオンがどうなってもいいわけ!?」
「それはっ……」
息子の名前を出され、見るからにリーナの表情が強張った。
「お母様、それはあんまりよ!」
幼子を盾に取るのは酷い。レオンを可愛がっている自分も、この言葉は聞き捨てならなかった。
サーミの血を引いているだけでもノルウェーでは後ろ指を指されるというのに、リーナの夫はレオンが産まれる前に殺されているのだ。
今リーナが収入を絶つなんて出来る訳がない。命令ではない、もはや脅しだ。
「良いです! リーナにそんな事をさせるくらいなら自分で地下牢にでも何でも入るわよっ! だからお母様はリーナに謝って。それと崖上のおじいさま達にも謝ってきて欲しいの。……ちょっと奥で見てる貴女、地下牢の鍵を持って来てくれる?」
そもそもサーミ人を蔑称で呼ぶのもあんまりだ、と怒りながら地下に続く階段に向かう。
「そう、そうよ……ふふ、それで良いのよアストリッド。貴女に音楽をやらせないわ」
自分が従順になったからかロヴィーサは一転して笑顔になった。娘の手綱の握り方を理解した、と言わんばかりにほくそ笑んでおり、聖職者に化けた悪魔のようで薄気味悪い。
「……」
普段母は子供には優しい。どれだけ頭に血が上っていたとしても、今みたいに子供を盾に取る事はしない。
なのに躊躇なくそれをやってのけるくらいには、母は自分に音楽をやって欲しくないらしい。そこには「勉強をしろ」という言葉以上の理由があるに違いない。
「……あら、勘違いしているようね。ただ牢屋に入るだけですよ?」
負けまいとばかりにふんと言い返す。地下牢には入るが、機を窺ってまた交渉するつもりだ。誰かを長期間監禁するなんて今時難しいのだから。
階段を降りようとする自分に、眉を下げたリーナが謝ってくる。
「お嬢様……申し訳ありません……!」
リーナは確かに母に従順ではあるけれど、自分と仲が悪いわけではない。歳が近い事もあり、母の目を盗んでレオンと一緒にキノコ狩りに行った事もある。
「良いの、レオンを人質に取るお母様が悪いんだから。気にしないで、お母様を止めてくれて有り難う」
今にも泣きそうなリーナににこりと笑って言い、地下牢の鍵を持ってきた女中と共にカツカツと地下室に降りていく。
「そう、それで良いのよ、ふふふふ! 貴女は、貴女は音楽をやっては駄目なのよ!」
後方からロヴィーサの狂ったような高笑いが聞こえてくる。
地下に降りきるまでに、笑い続ける母がリーナに謝る事はなかった。
***
「ふふ、ふふふっ…………リーナ? 私の部屋まで着いて来なさい。残りの使用人は早く仕事に戻りなさいね?」
アストリッドと女中頭が地下室に消えた後、少女のように弾んだ声が廊下に響いた。
先程までの主人とは全く違う声。リーナ・シュルルフは頰を強張らせる。
「あ……は、はい。了解致しましたロヴィーサ様」
「お母様よ!!」
声を張っていく内に段々何を言っているか分からなくなってきた。感情的なのは自分もだと頭の片隅では理解出来ているのに、一度渦巻いた激流は止められない。
「勝手に演奏してたのは謝るわ、お母様昔から私が音楽やるの嫌がってたものね。でもお母様聞いて!」
「止めて聞きたくないわ!!」
板張りの廊下に金切り声が響いた。何としてでも自分を黙らせようと思ったのか、次の瞬間ロヴィーサが勢い良く手を振り上げる。
「っ」
叩かれる。ハッとし、頬に走るだろう痛みに備えて反射的に目を瞑る。
「いけません、ロヴィーサ様!」
が。
リーナの声が廊下に響くだけで一向に痛みは走らなかった。
「え……?」
不思議に思い、恐る恐る目を開け――飛び込んできた光景に我が目を疑った。主君に諫言しようとしている女騎士のように張り詰めた表情で、リーナが母の腕を掴んでいる。
「離しなさいリーナッ!! これは命令よ!」
「嫌です! 幾ら母親であっても――いえ、母親だからこそ子供に手を上げてはいけません!」
内気な性格のリーナにしてはハッキリと言い首を横に振る。毛糸帽に隠れた黒いお下げも一緒に揺れた。
驚いた。
まさかこの家の女中が――特にリーナがロヴィーサに物申すとは。
この女中は遊牧ではなく町で暮らす事を選んだサーミ人だ。山で培った度胸と運動神経を活かして、1歳半の息子の為にグローヴェンの屋敷で働くようになった。
サーミ人を住み込みで雇う家は希少だからか、リーナは人一倍ロヴィーサに従順だ。
しかしリーナも母親。このロヴィーサの行動は許せなかったのだろう。
「有り難うリーナ」
囁くように礼を言い、リーナが腕を押さえていてくれている間に体勢を整える。
廊下の奥で女中が2人こちらを窺っている。男嫌いの母は女しか雇わない。
用心棒兼女中のリーナを含めこの屋敷の女中は3人。年配で古参の女中頭、痩せぎすの料理担当、リーナの3人だ。
「お母様、私ピアノが好きなの! お母様が嫌がっててもこの気持ちを止められなかった。それくらい好きなのっ! だからピアノをやりたいのっ! ドイツで師事を受けてピアノの勉強がしたいと思っています!」
母の顔をまっすぐ見ながら思いの丈をぶつける。頭の血管が切れそうな母が、蒸気船に乗った自分を見送りに来てくれる事は無さそうだ。
ギシッ、と。次の瞬間廊下に響いたのは、ロヴィーサの擦り合わされた歯から聞こえる音だった。
「音楽はやっちゃ駄目!! いい加減聞き分けなさい! リーナ! アストリッドを押さえなさい! この子には暫く――こんな戯言を言う気も無くすくらいの時間、地下牢に入って貰う事にするわ!」
「地下……!?」
母の口からこんな言葉が出るとは思わなかった。母と言い争う事は昔からあったが、地下牢を持ち出されるのは初めてだ。
すぐ近くに立っているリーナも驚いて唖然としている。反応出来ずにいるリーナを主人は青銅色の瞳で睨み付ける。
「早くしなさいっ、クビにするわよラップ人! 貴女の可愛いレオンがどうなってもいいわけ!?」
「それはっ……」
息子の名前を出され、見るからにリーナの表情が強張った。
「お母様、それはあんまりよ!」
幼子を盾に取るのは酷い。レオンを可愛がっている自分も、この言葉は聞き捨てならなかった。
サーミの血を引いているだけでもノルウェーでは後ろ指を指されるというのに、リーナの夫はレオンが産まれる前に殺されているのだ。
今リーナが収入を絶つなんて出来る訳がない。命令ではない、もはや脅しだ。
「良いです! リーナにそんな事をさせるくらいなら自分で地下牢にでも何でも入るわよっ! だからお母様はリーナに謝って。それと崖上のおじいさま達にも謝ってきて欲しいの。……ちょっと奥で見てる貴女、地下牢の鍵を持って来てくれる?」
そもそもサーミ人を蔑称で呼ぶのもあんまりだ、と怒りながら地下に続く階段に向かう。
「そう、そうよ……ふふ、それで良いのよアストリッド。貴女に音楽をやらせないわ」
自分が従順になったからかロヴィーサは一転して笑顔になった。娘の手綱の握り方を理解した、と言わんばかりにほくそ笑んでおり、聖職者に化けた悪魔のようで薄気味悪い。
「……」
普段母は子供には優しい。どれだけ頭に血が上っていたとしても、今みたいに子供を盾に取る事はしない。
なのに躊躇なくそれをやってのけるくらいには、母は自分に音楽をやって欲しくないらしい。そこには「勉強をしろ」という言葉以上の理由があるに違いない。
「……あら、勘違いしているようね。ただ牢屋に入るだけですよ?」
負けまいとばかりにふんと言い返す。地下牢には入るが、機を窺ってまた交渉するつもりだ。誰かを長期間監禁するなんて今時難しいのだから。
階段を降りようとする自分に、眉を下げたリーナが謝ってくる。
「お嬢様……申し訳ありません……!」
リーナは確かに母に従順ではあるけれど、自分と仲が悪いわけではない。歳が近い事もあり、母の目を盗んでレオンと一緒にキノコ狩りに行った事もある。
「良いの、レオンを人質に取るお母様が悪いんだから。気にしないで、お母様を止めてくれて有り難う」
今にも泣きそうなリーナににこりと笑って言い、地下牢の鍵を持ってきた女中と共にカツカツと地下室に降りていく。
「そう、それで良いのよ、ふふふふ! 貴女は、貴女は音楽をやっては駄目なのよ!」
後方からロヴィーサの狂ったような高笑いが聞こえてくる。
地下に降りきるまでに、笑い続ける母がリーナに謝る事はなかった。
***
「ふふ、ふふふっ…………リーナ? 私の部屋まで着いて来なさい。残りの使用人は早く仕事に戻りなさいね?」
アストリッドと女中頭が地下室に消えた後、少女のように弾んだ声が廊下に響いた。
先程までの主人とは全く違う声。リーナ・シュルルフは頰を強張らせる。
「あ……は、はい。了解致しましたロヴィーサ様」
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